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1:「世界」という限界
ハイデガーは、
人間は世界を作るが、動物はちょこっとした世界を持つだけ。石ころは世界を持たない。
といった発言をしている(『形而上学の基本概念』)。
(こうした腑分けは、たとえば、ポストモダン人間=動物化という東的観点などにも及んでいる。東自身、このハイデガー的腑分けの人間中心主義に疑義を呈しているが、彼の動物論はどうか?)。
人間は、言語で分節するという能力を得てしまった。
人間だけが「世界を作る」としても、
そうした媒介物(メディア)を介さなくては、「世界」が立ち現れないどころか〈世界〉そのものが存在しない。
人間だけが「世界を作らざるをえなかった」、 と言う方が正確だ。
冒頭のハイデガーの人間中心主義的区分それ自体が、特殊人間的なカテゴリにおいてのみ、見出された「現実」だ。この遡及的な手口の不可避性、それをさらに問い返すことは、同時に新たな隔たりを導入することでもある(これがラカン派なら去勢と言う事態で、去勢はこうして累進する。
言語化しカテゴライズ化せねばならないのは、人間の業であり、人が生きるには自ら作らねばならない檻だった。だから言語とは、「人間」という檻のself-symbolでもあるでしょう。
2:言語が生む言語の剰余
で「趣味」。
日常的感覚では、趣味は、一方で私的なものと感じられ、他方で公共的なものとされもする。
趣味が、私的なものであるならば、言語という公共的な装置によっては掬いきれない。
にもかかわらず、趣味は、いつでも語られようとする。
その時、
カントが第3批判書を、その問題をコアにしてこそ書き上げた「趣味のアンチノミー」が出来する。
すなわち「趣味は語られうる/趣味は語られえない」
思えば確かに古今の芸術談義や芸術を巡る争論の大多数は、
このアンチノミーの周囲に蝟集している。
言語・カテゴリによる分節と、反省的判断・メタ・カテゴライズによる相対化。
それはしかし、
その言語化において、そこで初めて反照的・遡及的に「言語化されざる残余」として<語られえぬ趣味>を、トラウマティックに生成してしまう。
そしてそれこそが、語る主体各自の、幻想のコアとして残り続け、彼のカテゴリ=世界分節の地平を与える。
3:幻想の処方箋
言語とは、「動物」が持っている合理を先天的に欠落させている、それゆえに言語によるカテゴリで「世界」などを作らねばならない人間という存在者に、不可避な「檻」だった。
しかし、檻は檻として「同じ」でも、それぞれの格子の中から見られた世界は異質であらざるをえない。
そうして「檻に囚われた鼠」であるしかない人間特有の「豊かさ」もまた、ただそこに、生じてくる。
もちろん、その「豊かさ」とは、言語・人間の檻が、自らに見せる夢にしかすぎない、としても、
その檻を出ることは出来ない(という夢を見続けるしかない)人間の、きわめて作為的(=人間的自然)な逸楽が、そこに、そこでだけ、与えられることになる。
こうして、
互いの幻想の尊重と、幻想による束縛の相対化とを、
同時に進めねば、
人間という檻は住みにくくなるばかり、ということになり、
逆に言えば、
互いの幻想の尊重と、幻想の相乗化において、
檻はより磨き上げられつつ、悦びの糧ともなりうる。
人間存在の超越論的マゾヒズム。
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多分ね、互いの幻想を尊重するという時点で、相手の幻想をある程度理解しなくちゃならないだろ。そのときに、自分の幻想もある程度変容をこうむらざるをえないんだけど、相手の幻想をいいものとして構想できるか(こういうのを転移っていうの?)否かによって、自分の幻想の変容のされ方も違ってくるよね。相手の幻想を、なんだこんなものか程度にしか構想できないと、たんに相手を馬鹿にするという形でしか変容できないもんね。
2007/1/11(木) 午前 8:48
おいらが今興味があるのはさ。人はどういうときにこういう良い転移をするのかなってこと。一般に人は、自分がブラックハウス的に大事にしてる対象aのことが良く描いてあったりするだけで、それを描いた人に好感持っちゃうみたいだね。でも、ここではまた「良く描いてある」の「良く」が問題なのか。自分の好きなものについて誉めてあっても、つまんねー誉め方だと頭くるもんね。
2007/1/11(木) 午前 8:52
>どういうときにこういう良い転移をするのかな__そうなんだよね〜。幻想の理解、以前に、幻想のチューニングみたいな段階がいつもすでに働いちゃっているんだろうね。__で、その「良さ」っていうか<よさ>といったレベル、そのvirtual(潜在的・仮想的)なチューニング・レベルで働くのは、言語の機能のうちでも、論理であるよりはレトリックだよね。
2007/1/11(木) 午前 11:00
レトリック? つまんなくない誉め方ってこと?
2007/1/11(木) 午前 11:03
誉め方というより、語り方の表情、とでも言った方がよいのかなあ。 頭、もっと覚めてる時に、も少し考え直す;;
2007/1/11(木) 午前 11:26