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ヨソのネット世界で、若い友人たちと話した話題を少し変形して。
人間関係を分ける決定的な基準があるように感じています。
これについては、けっこう長いこと生きてきた経験と理論的考察が一致しています。
★1:一つは、普通の日常的関係で、好き嫌いに関わらず付き合えたり、好き嫌いの理由も挙げられる関係。
これは、N君の言う「承認欲求を伴う功利的な関係」や、Gさんの「カースト内の位置関係への気遣い」という次元での関係です。(好悪の理由を「巧くは言えない」という意味で、語り難いことはあっても)
そして、人間関係の大部分は、ここで終始する。
★2:しかし、単なる好悪を超えた次元、愛憎的な次元の関係がある。
好みの異性は、性格だとかルックスだとか能力だとか、色々、その特徴を記述できる。
で、そうした特徴が失われたら、その魅力も消えてしまう。
普通に大事な知人や友人は、仕事や趣味の共有など、広い意味での利害関係を重要なフックとして結びついている。
だから、仕事場が変わったり、学校を出たり、趣味の共有時間がなくなると疎遠になってしまう。
しかし、ホントウに愛してしまったという場合は、そうした関係を超える。
たとえその人が仕事を失ったり犯罪を犯したり病で身体に重篤な問題を抱えてしまっても、
つまり恋の段階では魅力の対象だった特徴が失われてしまっても、
それでもその人を愛し、その困難を含めて、掛け替えのない存在となる。
恋愛でなくとも、自分の子供などはもちろん、友人でもこの段階に至った時こそ、真の親友なのかな。
別の言い方をすれば、自分の人生をその人のために賭けられるかどうか、という基準とも言える。
そして、その思いが、逆方向に育まれてしまった場合、殺したいほどの憎悪の対象ともなる。
だからこそ、愛する人が殺されてしまった時など、相手を何度殺しても帳尻合わないほどの憎悪も生まれうる。
★3:しかし哲学猫ペネトレが言ったのは、
2のような掛け替えのない友どころか、1の普通の友人さえ、なくとも生きていける、
という話で、それは理論的には、その通りでしょう。
とはいえ、現実には、そんな人はほとんどいない(永井さん本人も含め)だけでなく、
2のような人の存在は、その人の世界を圧倒的に豊穣にもしうる。
★4:さらにもう一点、Gさんの言われた、「豊かな内的世界を構築できた人」。
それは、2で言った愛の対象が、人ではない場合、とも言えるのではないかな?
実際、それは可能だと思います。
ボクの場合(これは自慢にもなっちゃうけど)、美術や音楽の経験で、他者に承認されるかどうかなどに関わらず、それだけで、この世に生まれてよかったと思える経験をしてしまった。だから、それを他者と共有できるかどうかはオマケ。
そのオマケの関係が、しかし利害関係を競い合うことを中心にした本末転倒ばかりがはびこる、業界の政治にウンザリして離れていた。だけれど、昨今また急激に引きずり込まれつつあるw まあ、デリダ的なオマケ論理や精神分析的な享楽の論理を適用すれば、オマケだった業界関係を経たゆえに、お宝(アガルマ)本体の輝きが増した点もあるし、昨今の「再オマケ巻き込まれ」が新たな強度を生んでくれれば、それもまたオマケ効果かもしれない。
★5:以上の点からすると、Nくんがペネトレ=永井見解にエリート主義(成功したもののユトリゆえの傲慢さ)を見たのは、少し焦点が違うかもしれません。エリート主義というのは、基本的に1の人間関係の中で成立する人間関係の一つの立場(優越感情を悦ぶ倒錯)で、Nくんが指摘した坂本リュウセンセの例のように、文化人などが党派的な友人関係を作るというのもソレでしょう。
しかしペネトレの意見は、そんなのも無くったって生きられる、って原理的な話なんですね。そうした点を納得しておけば、4で書いたように、友達なんかいなくても、なんか自分の生を支えるお宝があれば、なんとかなる、ってことでしょう。
だから、日々の再生産をナントカできれば、勝ち組なんかにならなくとも素晴らしい生を生きられる可能性を、ペネトレは言っているわけでしょう。
★6:オマケ:ところで、1のような現実原則で紡がれる人間関係でも、その中に、微妙に2的な「掛け替えのない何か」が生じることがある。あるいは今ここでも、いくらか生じているかもしれない。この世も、まるで棄てたもんではない、ということのささやかな贈り物かな。
(少し、文章、補足修正しました12月14日深夜)
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それぞれNくんとGさんが言いそうなことだよね=^ω^=
まあ確かに永井さんの言うことは余裕のある金持ちの言うことなんだけどさ
でも貧乏だからってビンボ臭いことばっかり考える必要もないし
どういう考え方しようとダメなもものはダメだったり
大丈夫なものは大丈夫なんだったら
気持ちだけでも金持ちでいるにこしたことはないよね
最近ワタシのアタマではよく
Let it be!
と鳴ってるよ=^ω^=
2008/12/12(金) 午前 10:53
もちろん、1のレベルでの人間関係も、適度に楽しく幸せにできて、その人間関係での世俗的な見返りもあれば、もっと良い(はず)だけど、
そんな見返り貰ってるのに、寂しそうな人も多いのは、
2や3のレベルでの不満やルサンチマンでもあるみたい。
実際、そういう人から時たま疎まれたり、羨まれたりすると、
なんだかなあ〜って思っちゃいます。
でも、1のレベル、別に悪い関係じゃなければ嫌ってはいないし、
1・1レベルくらいで気がかりな人たちもいるしw
2008/12/12(金) 午前 11:08
1・1レベルって何?
もっといろんな人とつきあいなさい
ワタシはもうメンド臭いけど
でも仕方ないから
つきあいに行くけどサ
2008/12/12(金) 午前 11:11
単なる業務付き合いよりは、少し深い、って感じの人たちw
でも何かって言うと、じゃあ、今度、呑もうな!ってあれはウザいね
Let it be! (^o^)
2008/12/12(金) 午後 0:51
こんばんは、お邪魔します。ご訪問ありがとうございました。ぼくは友達っているのかな?と思ってますよ。でも最近、比較的身近にあった音楽の素晴らしさに心から気づいて、うれしくて仕方ないけど、誰もその喜びを分かち合える人がいないだろうな、と思ったらやっぱり寂しいなと思いましたよ。
2008/12/13(土) 午前 0:45
コメントありがとう。
というように、わずかな言葉もらっただけでも嬉しい、ですよね。
未知の人の共感が、友人の共感以上に嬉しいこともありますね。
本文で書いたのは基本的なモデルで、現実の人間関係は込み入っています。
政治の話しなければ共感し合える人もいれば、
仕事上では最高の同志だけど日常付き合いは馬が合わない人もいる。
「喜びを分かち合える人」は、本文2での愛する人や親友に近づくかもしれません。
本文元ネタは、若い友人が、永井均さんの『子供のための哲学対話』にある話から始めた議論なんです。
その本の主人公の哲学猫ペネトレが、
「友は不可欠だって言うけど、実はなくたって平気なんだ」って言う。
他にも、クジラは魚じゃんとか、地球は回ってないよ、とか、
常識が隠しちゃう<事実>を指摘している。
友がいなくても平気だよ、と一旦常識をひっくり返した上で、
でも多くの場合、いてくれたら一層嬉しい、ということを確認しなおす。
すると、もし友がいない場合でも耐えられる途も、持てる、かも。
2008/12/13(土) 午前 10:25
仕事上では最高の同士だけど、日常は馬が合わない人・・・いますね〜!思い当たります。ぼくは実は友人はいなくても平気だって普段は思ってるし、友達付き合いも極端に少ないけれど、時々寂しいのかな?とか、功利的に、いたほうが老後はいいのかな?(笑)と思うこともないではないですが、食べ物や酒と同じで、それも精神の節制になって良いのかもしれない、なんてことも思います。「子供のための哲学対話」覚えておきます。
2008/12/14(日) 午前 0:36
いますよね〜w
逆に、仕事だけは一緒にしたくない、というのも居た、
というか、その方が多かったかなw
(しかしコノ場合は、向こうもそう思ってること、多いな、きっと^^;)
まあ、本文の★1のレベルで、適切な距離で付き合うのが巧い人は、
世の中で、自分の能力に見合った位置に自分を置いて、
そこそこ安楽に生きられるのでしょう。
ソレもまた、才能だろうけれど、そのセンスがボクは劣ってる、
というか、見切り方は、かなり秀でてると思うのだけど、
そこに、巧く合わせよう、という欲望や意志が欠落してる、
ってことは、才能ない、ってことですね(^^;
それに、★2や★4を★1より優先する態度は、
世の中的に見れば、むしろ不健全な在り方なのでしょう。
ニーチェも、その典型ですね。
2008/12/14(日) 午前 10:58
我が家にいる猫はアインジヒトとインサイト。
ペネトレも早く仲間に加えたいのですが・・・友達は必要なさそうだから。なんって('∀`)
ペネトレがどんな文脈で友達なんか必要ないと言ったのかは知りませんけど、自分の場合は、
「友達」が欲しくて欲しくてたまらない。だから「必要」としたくない。
ってのはありますね。
また、永井先生は『ルサンチマンの哲学』(P41)でニヒリズムの源泉について述べられていましたが、それを念頭に置いてみると、この問題は友情に限定することなく、世に謳われる「必要」全般(必然性に支配された心性)に対する抵抗の一端ではないのかなとも思います。
2008/12/22(月) 午後 11:45
alhenaさん、お久しぶりです。
ステキなニャンコたちと一緒なんですね〜。
>「友達」が欲しくて欲しくてたまらない。だから「必要」としたくない。
うまい言い方だなあ。
あのペネトレの見解は、
「友だちは絶対必要だ」という常識の「善なる嘘」を突いたものですね。
哲学の研究なども、その世の中的必要性を示さないと納得されない。
「人」としての「私たち」にとっての有用性、
その呼びかけに、応えてしまうことで、世の中的な主体として認められ、
世間という幻想の王国の臣下となる。
でも、その時に隠されてしまう<真実>への扉を開く、
そんな「夏への扉」を開くのが、永井猫軍団なのかな。
だとしても、このエピソード、
永井さんとしては、めずらしく、
世間的「善なる嘘」を転倒させた、より高次の「善なる嘘」かも、
という気配も、少し感じます。
2008/12/23(火) 午前 10:17