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左図:ハッカー『シランクス』  右上図:ベックリン『牧神の音』 下図:『シランクス』収録推薦CD:文末で紹介♪

春になってきましたね。今年の春のファサードは、このブログのニックネーム「シランクス」を巡って。

★シランクスという名は、ギリシア神話にいる綺麗なニンフ(Nymph:精霊)の名前です。
エッチな牧神パンに迫られて、葦の茂る川辺で葦に変身しちゃうんです。
牧神はその葦を持ち帰って笛にして、フられてしまった失意の曲を吹いたのだそうな。
エロいけれど、けっこう器用でアートセンスも持ち合わせたパンくんですね。

その牧神パンの夢想を、19世紀末の詩人マラルメが『牧神の午後』という詩に結晶させました。
シランクスちゃんを追う話ではないのだけれど、アルカディアの森の木漏れ日の挿す昼下がり、
牧神が官能的な夢を見る。つまりエッチな幻想なんだけれど、緻密で前衛的で超ハイブローな詩です。

★その詩にインスピレーションをえて、マラルメの友人だったドビュッシーが作った
『牧神の午後への前奏曲』という音楽、聴けば誰でもどこかで聴いたおぼえがあるでしょう。
                               
・フルートの妖しく神秘的なメロディーに、木漏れ日のようなハープのアルペジオが絡むと、
一瞬に神話的世界が広がる。
ホルンが角笛の音を遠く響かせ、弦が葉群れを渡る風をそよがせ、
牧神の笛が幻想を深めていくと、それはギリシア神話そのもの響き、と思えるのに、
しかしもちろん、そんな音楽が古代ギリシアにあったわけはない。
それは全宇宙で誰も聴いたことのない、前代未聞の、開闢の音楽でした。

・というわけで、シランクスと牧神の物語の周辺から、文学と音楽のモダンアートは誕生した、とも言えるのですね。
しかし、実はその二つこそがモダンアートの最高峰だった、とも言えそうなのだけど、その話はまた別の時に…。

・ドビュッシーは後に、『シランクス』というこれも神秘的な、前代未聞、風前絶後のフルート独奏曲を作ります。
当初『パンの笛』と題したのだけど、同名の歌曲も作っていたので『シランクス』と名を変えた、小さな傑作。
一本の笛だけで、一瞬にして幻想的で異様に妖しい世界が出現するんだよね。
この雰囲気では死の間際にもう1曲、『フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ』、
室内楽の超傑作を遺してくれました。ドビュッシーの美学が結晶した曲です。
(※この3曲を含んだ推薦CD、本文の末尾で簡単に紹介します)

★画家たちにも、このシランクスの物語はしばしば取り上げられています。
・左の絵は、シランクスの絵の中でもっともチャーミングなもの。
1892年、ちょうどドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』を構想していた頃描かれました。
アーサー・ハッカー(Arthur Hacker,1858-1919) は、あまり知られていないけれど、
ロマン主義から耽美主義、象徴主義へ続くイギリスのラファエル前派の流れにある画家。

・右上は、象徴主義絵画の巨匠のひとり、ベックリン(Arnold Boeklin,1827-1901)の『牧神の音』。
景色が葦の生える水辺ではないので、「牧神とプシュケー」の物語かもしれないけれど、
右上の岩陰で笛を吹く牧神が消えてしまったシランクスを幻想してる、というイメージも重なっているかも。

・この二つの絵はどちらも、形式上は、マラルメの詩やドビュッシーの音楽のような先鋭的なものではないけど(だから、今や古臭い旧来の近代美術史ではマイナー扱いだったけれど)、
内容的には、マラルメやドビュッシー同様、19世紀末〜20世紀初頭の象徴主義的な美意識を反映しています。

・とはいえ、この2枚、ぜんぜん春っぽくないですねえ(^^; どちらの絵も“薄着"なのに…♪
ベックリンはドビュッシーというより、ワグナーやらの後期ロマン主義音楽っぽいテイストだし…。

・ところで、なんでシランクスちゃんハダカなんだろ?
神々の森アルカディアったって美少女がハダカで歩いてたらヤバですよねぇ、って、
神話世界って、おねえさんもおにいさんも、だいたいハダカ・・・・・さすが神々!(ま、理由はあるんですけど)

・シランクス物語の絵は、むろん他の時代にも描かれていて、バロック巨匠の絵などもあるのだけど、
そうしたものとの比較は、別の日記でちょっと小難しく論じてみちゃう予定です。

★『シランクス』『牧神の午後への前奏曲』(フルート&ピアノ版)を含む、お薦めCD2枚。
・中下図は、天才フルーティスト、ゴールウェイのアンソロジー中の「近代フランス曲集」で、
上記3曲(牧神はフルート&ピアノ二重奏版)の他、フォーレのソナタなどが入った2枚組みの超お買い得盤。
・右下図、瀬尾和紀くんのアルバム『シランクス』には、『牧神…』(これも二重奏版)と『シランクス』の他、
これもファンタジックなピエルネのソナタなどが入った幻想的なフランス曲集。
ゴールウェイは最高の技術と磨き上げられた響きで超ゴージャス。でもドビュッシーにはちょっと華麗すぎ。瀬尾くんの端整な演奏の方が、天使的な美しさがある。Amazonのレビューリストマニアでもう少し詳しく書きました。お気に召されたらポチってしてやってください。*^o^* 『牧神…』は高木綾子さんの官能的な演奏も素敵です。

儀礼的コミュニケーションの日本的特殊性?

 日常のコミュニケーションの大部分は、実は、儀礼的なものだ、ということは、
少し考えれば、なるほどそうだね、と思いいたる場面、多いですね。
 2ちゃんねるのウップン晴らしめいた罵詈雑言の応酬も、携帯のメールやミクシィなどの無内容なコメントの交換も、その多くは、コメントのヤリトリで、仲間であることを相互確認し合う儀礼的機能がコアにあるようだし(だからこそ、悪態でなくとも空気を読まない発言は、場違いな荒らし同様、ウザがられる)、冠婚葬祭の物品や言葉の受け渡しなどは、「交感的言語使用」(ヤコブソン)こそがコアにある。

 というわけで、コミュニケーションとは内実のある意味のヤリトリだ、と信じていすぎるのは社会的には病んだ態度なんだよと、ジジェクはのたまう(西洋でも、儀礼的応答こそが言語活動のコアだというわけですね)。 もちろん、ジジェク自身は、発言の内容に加重する側、つまり社会病質者の方。ただし、その内容に、外箱の面白さ(儀礼性)から引き込もう、という狙いもあって、あのエキセントリックな表現スタイルとなってもいるのでしょう。

 だとしても、日本的なコミュニケーションというのは、特にこの儀礼的な面が重視される、ということもよく言われるし、ジジェク自身、『ラカンはこう読め!』の日本語訳序文に、黒澤明の『羅生門』を枕に、日本人こそこの儀礼性に極端な感受性を持っている、と、お世辞だか皮肉だか分りにくい、それこそ儀礼的な挨拶を寄せている。
 まあ実際、引き出物などに典型的な儀礼的交流では、箱の中身より、箱の受け渡しそれ自体が担う重みが大きいですね。そこでは、中身の空虚以上に、その儀礼に参加したかどうか、こそが問われる。参加しないと社会からはみ出しもの扱いされかねない不安が、空虚な儀礼を反復させて、儀礼と作法が支える日常を維持しちゃう。
 ここで重要なことは、誰もがその内実の空虚さやバカバカしさを分かってはいても、それでもやってしまう、という点にあった。みんな引き出物もらうたびに、中身のツマラナサに文句言ったりしながら悦んでいる(享楽している)のだもの。文句言いながらも、お互いにやり合っている。ということは、「やらない」ことの方が「嫌」だということで、無意識的にであれ、実は「望んでやっている」わけです。
 こうして、王様が裸だということは、子供に言われずともみんな知っているのに、それでも王様はハイファッションであり続けているってことですね。

 この王様を支える存在が、精神分析で言う「大文字の他者」、象徴界≒日常規範の代表者というヤツ。
 もちろんこの「(大文字の)他者」というのは、神様だとか大儀だとか特定の理念に集中していることもあるし、王様や指導者やヒーローに重ねあわされることも多いけど、けれど、そうした実在や表象がなくとも、「そういう者がいる」と信じているから、それに応じて行為しちゃう、という点が、象徴界をわざわざ大他者という点で特徴付けることのキモ、ですね。
 そう信じている誰か(他者)がいるのだから、そうしないわけにはいかない、だから自分は信じていないんだけど、やらなくっちゃ、と信じてみんなやっちゃうから、社会規範が維持される。
 クリスマスプレゼントする親は子を、「サンタを信じている主体」と見なす。もちろん子は親のことを、「子がサンタを信じている」って信じてるんだよねウチの親は、と見なして、サンタを信じているフリをする。そうしてプレゼントをちゃっかりせしめて、「サンタさん、ありがとう!」ととぼける。親は親で、それを喜ぶ。

 でも、そうであるなら、西欧的コミュニケーションはもっと実質的、というわけでもないね。そして日本的儀礼性というのは、どうもこの基本構造のレベルではなくて、より特殊なレベルに特徴がありそうですね。
 そこでは、儀礼的コミュニケーションそのものが、儀礼的に使用される。
 儀礼と作法が累乗化しながら作り出される高階の儀礼性。
 儀礼的なパフォーマティヴそれ自体が、内容になっている、これは日本の伝統美術や文学の構成原理にも見いだされでしょう。

          ★1:知ることは道徳的にも善いことだって?
 モノゴトを知るという営みは、ただ真理を得るという以上に、何か社会的にも良いこと、「善なる行為」なんだ、と言われれば、「ん〜〜まあ、それはそうだろう」、と思うだろう。
 にしても、あえてそう言われたら、「ん? ほんとかよ?」 ってどこか怪しい気配も感じるよねぇ。
 それでも、「じゃあ、世の中にとって悪いことだと思うかい?」 と重ねて迫られたら、
「まあ、悪いことじゃあないだろうなあ、どっちかって言ったら良いことだよね、フツウ…」
 とかってあたりに落ち着きそうだよね。
 何かが分ったりするってことは、どこかで人生の役に立つのかもしれないし、世の中にも良いこと、つまり善なる行為、かな、って。

 たとえばボクのブログでよく引き合いに出すデリダやジジェクや永井などの哲学の場合。
 永井さんの哲学というのは独特のクセがあるので、ある種の人々にはとても反感を起こさせたり、流行などに頓着しない語り口の独特のスタイルは、観点によってはアホっぽく見えて、安直に見下す人もいる。しかしボクの見立てでは、モノゴトのもっともベーシックな次元への論理的追求という点では、高度に徹底している、と判定できたので、あの哲学と絡ませてモノゴトを考えることは有意義だ。
 他方じじぇくのテキストは、ラカンという現代思想の中でも超判じ物と古典哲学の牙城ヘーゲルやカントそしてシェリングなどを主要な武器とし、デリダやバトラーなどの現代思想の基礎知識を当然の前提教養としているので、哲学や現代思想の初学者にはキツイ。しかしそうした絢爛豪華な重武装は余計なペダントリーではなく、そのクロスリンクによってこそ見出される論点が、鮮やかに浮かび出る。教科書的な解釈やイデオロギー的な偏見に隠れた思考の潜在的可能性を探り出すその技の切れ味は、たしかに比類ない。それにまた、重装備とはいえその図式化も明解で、同じ例や芸が何度も繰り返されるので、読み返すうちにその軽妙でアーティスティックな面白さに触れられるだろう。
 ただ時に技が先走って、ここぞという点では論理が滑っていることもある。だから、院生あたりの小生意気な感性がちょっとバカにしてみる、ということもある。しかし公平に吟味してみると、プロの批判でもその多くはジジェクの水準に至っていない。正しい真理に導く、というよりも、その思考の飛躍や短絡の形が新たな論点を導く、という点では比類ない。
 デリダについては、長くなったのでまたいつかm(_ _)m
 というわけで、ここらの哲学も、少なくともボクにはけっこう役に立っているワケですね。
 ならば、ボクのような他者に役立っている、という意味で、「善なる知」なのか?

          ★2:「善なる知」の嘘の暴露、にもかかわらず
「善なる行為としての知」という理念は、ソクラテス=プラトンによって確立した。以後、哲学だけでなく、西欧の知の理念となり、あえて疑いを差し挟む余地もない暗黙の指導原理だった(ようだ)。
 しかしそれが、実は根拠のない一つの幻想だということを暴いたのが、かのニーチェだった。
 そのニーチェの指摘の途方もなさ、というのは、実感としては実はさほど感じられないのだけれど、それはそうしたニーチェ的発想に物心付いたころから慣れているのと、幼少期より、世俗の道徳には何度も異議申し立て教師を困らせていた、という個人的な習性のせいかもしれない。
 ともあれ、このニーチェの批判にただならぬ意義を感じた思索者たちは、そのニーチェの知を、ニーチェとは別の形で検討した。そうして、ニーチェの結論を否定する者も数多くいたし、今もいる(センシュウ大の説教者サンなんてアホではないし、彼の師のマルクス主義哲学の大家ヒロマツさんだって、この点はニーチェ側だったのに、ニャンコ先生との論争で依怙地な道徳主義者になっちゃったし)。他方、根拠を問い詰め行くタイプの思索者の多くは、ニーチェの結論を引き受けて、その論証を洗練させていった。そのもっとも洗練された形が、デリダが行き着いた脱構築というものだった。

 しかし、その知もまたそれ自体、一つの「善なる知」として、それも、「より一層善なるもの」として捉えられる。このことは、「善なる知」という捉え方の真理性を示しているのか、それともその幻想の強靭さか、あるいはそこで働く何らかの不可避的な力を示しているのだろうか?
 善なる知の幻想を暴く知とは、その善の善性の嘘を暴くという限りで、当の善の基準からすれば「邪悪なる知」にほかならない。しかし、その邪悪さこそが、従来の善の欺瞞を暴くことにおいて、真に善なるものとして言祝がれるのだから。
 ニーチェからデリダにいたる徹底した啓蒙=開明としての脱構築の知は、こうして「善なる行為としての知」の無敵の限界に君臨する。

 永井は、「善なる知」の源泉にあたるプラトンの観点を、それは一方で知を過大評価し、他方で過小評価している、と批判した(『<魂>に対する態度』34頁)。過大評価とは、知こそが良き生への唯一の途だとする点で…。過小評価とは、知がもたらすものは善なる生き方だと、知の帰結を善という意義に極限してしまう点で…。たとえば「邪悪なる知」(道徳的善を否定するような知)だってありうるのだし。結局「知は善である」という観点では、知という行為それ自体の意義が、通り過ぎられてしまうことになる、というわけだ。

          ★3:知のゲームの基準とそのゲームを含むゲーム
 知という営み以外の場合はどうか? たとえばスポーツでも他の形のものでも娯楽ゲームは、それに興じる人には、「道徳的な善」をもたらすものではないけれど悦びをもたらす、「悦ばしき行為」だ。しかし、悦びに至る途は、娯楽ゲームに限らない。だが他方、いかなる悦びも与えない娯楽ゲームは、無意味だろう。つまり、娯楽ゲームについて、「悦ばしきゲーム」という言い方は、その核心を記していて、そこに過不足はない。(そして芸術というゲームは、娯楽ゲームの中で特殊な再帰的構造を育んだ、その意味で、高度な娯楽ゲームのジャンルだと言える)。

 では、知というゲームは、道徳的価値から分離できるだろうか?
 道徳的善に関わらない知、というものは、少なくとも善に直接には関わらない知、というものは、十分に想定できる。上の「ゲーム」には、「知というゲーム」もまた含められるのだから。そしてそこには「善なる知というゲーム」さえ含まれる。さらには「邪悪なる知」というゲームさえ。

 ここで詳しく踏み込む余地はないけれど、道徳的価値とは、人々が互いに害を避け、時に互助しあうための、人為的に仮構された価値規範にすぎない。だとしても、そうした価値規範が、世の中にとっては不可欠であることに変わりはない。だから、その根拠は幻想だから、道徳の根拠付けなんて必ず嘘だと判明しても、それに従うのが善いことなのよ、という「善なる嘘」が語られ、信じられ続ける必要もある。

 こうして知の探求というゲームは、それ自体では、道徳的善悪とは別のゲームとして成り立っている。ジャンケンすることが、時には世の中の利害に関わり、道徳的な何かに関わることさえあっても、ジャンケンというゲームそれ自体は、グーチョキパーの優劣がそのゲームのコアである。同様に、知のゲームは、知としての正誤や、知的意義の有無や大小(などの価値基準)で測られるゲーム空間で成立する。そして、そのゲーム空間の中での価値の達成は、ヒトに道徳的価値(善)とは別の悦びを与える。
 この点から見ると、「善なる知というゲーム」も「邪悪なる知というゲーム」との対立と包み込み合いの全体も、「悦ばしき知というゲーム」のサブカテゴリーであらざるをえないことになる。
 このことが示唆しているのは、善も邪悪も、道徳的な善悪などより、はるかに広い意味での「良し悪し」という基準の地平の中にある、ということだ。

          ★4:道徳の追走vs趣味の逆襲
 善悪の基準への問いがどこまでも累進することを、脱構築の知は見出した。そしてその知の優位は、知ることのゲームにおいて測られる。知は善である、という知は、その知には根拠はない、という知に敗北する。知のゲームの基準、真理性においては、知を善に含むことは偽であり、知としては負けなのだ。
 だがその知でさえ、「悪ならざる善」こそを求めざるを得ない社会という場に公開される限り、「善なる知」として把握されざるをえない、という面がある。知の言葉は、それが「公開」された時には、他者たちの間で、世の中にとっての意義を測られる何か、となる。
 だからといってその意義は、ただちに「道徳的善悪」というわけではない。他者たちの間とはいっても、そこが学究のゲーム空間をなしている場なら、何よりそれは知的価値で計られるゲームの対象だ。知の言葉は、そうした知的ゲームの優劣によって、悦ばれたり悦ばれなかったりするものとして現れる。

 しかしさらに、そうした知的悦びや芸術ゲームの作品享受の悦びを、それも他者に悦びを与えるのだから他者への貢献だ、というように、より高次の道徳的意義で決済しようとしたら?
 善なる知や善なる文化というイデオロギーは、このようにして、なおも追いかけてくる。
 善なることこそが、最高の価値であるとしたがる共感共同体の中で、このブログの見解も、善なる知の一つなのだろうか? その閉塞のイカガワシサを微妙に突きそこなっているけれど、もっと適切に突けたとしても、善性もまた競り上がって、再び知を道徳的善悪の内に捉えてしまうのだろうか?
 このボクでさえ、邪悪に善行をしたい、という趣味があることもまた確かなようなのだ。
 しかし……この最後の文章は、「趣味」が、善悪基準の、さらに上位に君臨しているじゃないか(^o^)

 (ん〜、イマイチ、まだ論理の構成が麗しくないなあ。きっかけが、学芸員的知性に辟易しているシニカルな学芸員や現代美術業界に怨念を抱いている美術家たちとの議論と、他方での反道徳的なアノ哲学者さんとのヤリトリという、ひどくかけ離れた議論に通底する問題からだったんで、異質なものの短絡プロセスが錯綜する。ヨソでほとんど見たことない論理展開であるようには思えるけれども。何か気付いたり感じたりした方いらっしゃったら、コメントくださいませm(__)m)

ラカン3界図式、再考

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ジジェクと奥方:怪人と美女、だね! 崇高と美のカップル?

   ★ラカンの3界図式(ISR)再考
 「象徴界」とは、簡単に言えば、言語を中心とした世界把握の枠組み、ということですね。知覚や感情や行為のあり方を方向つける、式とかアルゴリズムといったもの。脳や身体というハードウェアの働きをコントロールするソフトウェア。世界はそれを通して、知覚や認識、感情などの現象として現われる。
 そうした経験の枠組みは、経験にとってはアプリオリ(先にあるもの)だけれども、存在においては先天的なものではなく、後天的(アポステリオリ)に獲得されたもの。その形式獲得のプロセスを、フロイトはエディプス過程としてモデル化し、ラカンはそのエディプス過程を鏡像段階をはじめとした衒学的なモデルで緻密に再モデル化した。
 ここで、現象を式・文法がどのように規定しているかは、決定的なものではなく確率的なものですね。一義的な制約ではなく、ブレの範囲は小さくない。しかも、カントの主観形式を間主観性として改釈した構造論〜物象化論的理解とも異なり、ラカンのモデルでは、その反照的屈折(大他者への与信とその反照による去勢)のダイナミズムが重要となる。
 ともあれ、そうしたダイナミックなプロセスとしての象徴界という式が、現実界という素材に具体化して、世界が現前する。

 では、その現象が「想像界」だ、と言えるか? そのようにしか解釈できない記述も、ラカンには多い。しかしこれもそう言いきる事はできない。斉藤タマキさんあたりは、現実界=ハードウェア、象徴界=ソフトウェア、想像界=モニタなどと例示してるようだけれど、この振り分けは比喩としては荒すぎる。こう言ってしまうと、通俗化されたカント哲学みたいになってしまい(物自体/カテゴリ〜超越論的形式/現象)、精神分析的観点こそが示しうる反省的屈折が、隠れてしまう……
 そもそも、慣用されている「想像界」という訳語が不適切だ。この「3界」は、存在性格が並列的ではない。特にimagenaireは、現象的アスペクトで捉えられることが多く、「界」という限定に馴染みにくい。「界」と限定すると、それぞれ領域的に排他的な印象が強調されがちだ。そもそもこの「3界」は、ボロメオの輪で示されるように、相互に反照的に干渉し合っているのだから。ともあれラカンの適切な訳語は定めにくい。

 ところで象徴界は、それが真実の支えとして機能するときには、それぞれの主体にとって、その式を統括する存在者が(暗黙の内にも)仮想されている。それが、「(真理を)知っているはずの他者」だった。それはしかし、本当に知っている、のでなくともよい。世の中の人々が「知っていると信じている」と想定されれば、それで十分である。だから、知っているはずの他者には、信じているはずの他者、が先行する。
 そして、そうした仮想された他者を信じることによって、象徴界は規範式として実働する。

 この象徴界という式が働いて世界を現象させるには、さらに、それぞれの主体に固有の物語でまとめられねばならない。式・文法をそれぞれの主体の生の形を誘う物語の台本=シナリオ。その物語・シナリオが、個々の主体に特有の「幻想」だった。この象徴界と幻想の関係は、構造的には、音楽の文法とそれを用いて作曲された譜面の関係にも似ている。

 そして「現実界」とは、様々な意味で、象徴界=式=文法で括り切れない剰余であり、想像界=イメージの現象に付随したり内在していても現象そのものからは剰余した何か、だった。だから、前もって実体的に実在する客観的存在ではなく、象徴界の枠付けの剰余として、象徴化の反作用や歪みとしてのみ、到来する。キシミのない現象の中に、キシミとして到来したり、顕現したりする、その限りで語りを剰余した何ものか。
 となると逆に想像界とは、「剰余していないもの(=現前しているもの?)」であり、象徴界にきちんと対応した限りでの具体的現象なのだろうか?
 いや、そうは言い切れないところに、現実界とは異質の想像界の謎めいた面白さがある。

 3界図式それ自体を、綺麗に説明しよう(象徴界に位置づけよう)とすると、ジジェクを含め誰の解釈を読んでも、むろんラカン本人の説明は言うまでもなく、いつも何か過不足を感じる。ラカンという象徴界の不整合が、ラカン学という秘教を導き、その享楽を組織する。かつてのカント学やヘーゲル学、マルクス学やウィトゲンシュタイン学などと同じ、秘教の魔力を、自ずから示している。

 ★イメージという亡霊としてのみ現象する現実界?
 ところで、特にジジェクによって示される現実界は、象徴界との関係に関して、永井さんの哲学で近頃はっきり表に出てきた累進構造と、ホモロジカルなロジックを示している(誰もそんなことを、少なくとも公けでは、言っていないみたいだけど)。
 どういうことか。ラカンの現実界も、永井の言う<私>や<今>や<現実>も、常に、「語られ損なう」限りで、<示され>る。そしてそのこと自体を語ろうとした時に、そこでまた「語られ損なう」位置に、すでに累進してしまった《現実界》の亡霊が、示される。(※)
  すると、語られ損ない、つかの間出現するその「亡霊としての現実界」の存在様相は、想像的なもの、と言ってよいか?
 思えばジジェクは ”On Bilief” の頃から、以前の一元的になりがちだった現実界解釈を自己批判し、現実界についても、それが当の3界自体と反照的・再帰的に関わらざるをえない点を強調し始めた。そうして現実界が3界と反照的・再帰的に関わる際の関係様相に関して、想像的な現実界、象徴的な現実界、現実的な現実界を区別するようになった。
 しかし上のボクの解釈だと、その3様相全てにまた、「想像的…」を加えねばならないことになる。
 だがこれは、想像的なるモノにおける累進もある、ということか?
 この展開が間違っているとしても、この着眼は、それとして広がりがありそうだ!

(※) 一時期、思想界を席巻した東ヒロキくんの説では、こうした言及不可能性で指示される何ものかを思考の中心に措くタイプの思考が、否定神学的と批判されていた。けれども、「否定神学的ロジックが否定されねばならない根拠」に関しては(自身の「撒種の正義」に関しても)、考究が不足していて、ほとんど暗黙の前提とされていた。そして昨今の東くんのポストモダン論では、ラノベやギャルゲーの可能性の中心が、否定神学的なメタ論理を用いながら示されている。

 哲学者の永井さんと入不二さんが公開対談をしたようで、その続きを某ブログ村でやっていた。そのやりとりを整理して要約しつつ、派生的に考えたことを書いてみる。

 永井(以下敬称略)は「解釈学・系譜学・考古学」(『転校生とブラックジャック』終章)で歴史的認識を、そのタイトルが示す三つの学的態度に区別した。
 永井の言う「解釈学(的歴史把握)」とは、過去を捉える基準などを問い返すようなことは配慮せずに、事実的なつながりに関心を集中する態度。
 「系譜学」とは、そうであったとは思われていない脈絡を、事実を捉える基準自体の再検討も含め、それこそが深層=真相だと発掘する観点。つまり通常は問われない基準や枠組みの成り立ちまでも批判的に捉え返す、メタの観点からの捉え返し。
 「考古学」とは、系譜学もそれが学=語りゆえに見過ごしてしまわざるをえない、在ったはずの<出来事>を発掘することを求める態度(最近の言葉で言う第0次内包への態度)。永井はその考古学を、青い鳥の物語に喩えて語っていた。青い鳥は、初めから目の前にいたのだけれど、青い鳥を探す旅を経てきたからこそ、目の前にいたことに気付いたのだ、という麗しいお話に。

 しかし、入不二との対談では、その考え自体を自己批判する。
 「系譜学的背後解読(共同体の通念対する左翼的批判)の無限背進化(脱構築)」は、無限背進の中で実効性を失い、結局、保守的態度となってしまうという批判がよくされるけれど、「それと通じる意味合いで、この拙文は、確かにちょっと洒落ているけど、根本的にはたちのよくないところがあると思う」と言う。

 それに対して入不二は、永井がせっかく系譜学と考古学とを「外部」に対する異なる志向として分けたのに、反右翼的という点で区別できないと言い切ってしまうのはまずい、「左翼〔批判的考察の態度〕としてだらしなく、批判として不十分に」なってしまうのでは、と問いかける。

 正に同じになる、と永井は答える。系譜学的批判は際限なく可能なのだから、止まらないだけでなく、考古学もまた、系譜学の「単なる一例」に成ってしまう、つまり左翼の中の左翼=極左となり、だらしなくなって自己崩壊する、と応じる。
 でそれは、思想(世界へのある考え)を哲学化(考え自体の徹底反省)化したことに問題があるのでは、と加える。

 で、入不二は、その反右翼性というのは、左翼の「形式性」に由来するのでは、と言う。入不二の言う左翼の形式性とは、その批判性が、内容それ自体でなく、それを限定する枠組みへ向けられる傾向、と言うことだろう。
 それゆえ、左翼/右翼の対立とは、形式性/内容性の対立であって、左翼的形式化が「いつも取り逃してしまうものとしての「内容」を(幻想的にであれ)担保しようとするのが「右翼」」だと言う。これはちょっと面白い。

 とすると――とイジワルなにゃんこ先生曰く――その入不二の捉え方自体は、形式的で左翼的なわけで、そうした累乗化を求めちゃうのが「哲学化」で、ついに「その左翼性〔批判性〕さえも実は殺してしまう」と捻る。
で、「真の左翼は哲学化への誘惑をどこかで断ち切って、最低限の内容を保持しないと駄目」だと言うのだけど、これはラカンの「行為への移行pas d’act」かな?
そして自分も入不二も哲学病だけど、入不二の方が重篤(末期的?)だそうだ。

 ここで入不二はもう一度、形式/内容問題に踏み込む。
 「形式=左翼が、自己倒壊していくのと裏腹に(?)、内容=右翼の側も、「最低限の内容を保持しないと駄目」という限定的レベルの段階(この段階でこそ、右翼と左翼は内容上の対立でありうるから)、むしろ「何でも内容になりうる」「保持なんてしなくても、内容は消えようがない」みたいな非限定的レベルへと移行していくのではないかと思うのです。「極右」です。」こうして、左の極限的形式化と右の極限的内容主義が、一致してしまう。三島の全共闘への呼びかけなど。

 ここには少し飛躍が感じられるけれど、カント倫理学の形式的極限化における善と悪の同化、という議論との、差異と同一性を考えるヒントかもしれない。
 カント倫理学へのジジェクらの分析は、実質内容の徹底的な捨象が、善悪という内容を無化してしまう、というものだった。しかしカント的には実は悪の方は、その極限形態があるとすれば、病理的実質の純化の極限で、ここで入不二が直感した問題構成の方が適切なアプローチとなるかもしれない。

 入不二はここから、永井的独在論の中に、(「恐ろしいことに!」)この左右問題が含まれていて、形式性が言語ゲームであり、内容性が言語ゲームが必然的に取り逃がす実質」だ、と指摘する。まあ、恐ろしいのは、例が左右問題だったからで、これは事柄の道行きとしては尋常なものだと思うけれどね。

 ここで当初の三つの歴史的態度の問題に入不二は戻る。
 この議論の脈絡からすれば、解釈学は右翼〔保守的日常性〕と言うことになる〔リアリティとしての内容を保持したまま、内容の脈絡を緻密にするばかりだから〕けれど、ならば「極右」とは何か?
 「背後に回れてしまう物語を「物語」としてではなく、盲目的に本気で生きてしまっているはずなのが、「解釈学=右翼」の核にあるはずの「極右」だ」と言う。

 しかし、これは違うでしょう。むしろ、普通の日常的保守性だ。
 左翼≒哲学が、日常性の「下へ」潜り、内容を支える条件を暴き行くのに対し、右翼とは、日常の現実感を育む幻想を鍛える、共同体の凡庸な自己像を崇高化する、モノ自体の位置まで高める、つまり「アバタをエクボ化する態度でしょう。

 ここでの脈絡に即す限りで少し変奏を加えて、一旦、まとめてみます。
 左翼の形式主義は、実は形式的条件の徹底批判の背後に、批判的行為の至高善化=倫理的絶対化という実質的内容を前提している。
 他方、右翼の内容主義は、国家や民族などある幻想的対象の強度を追及し、実際は空虚な幻想対象を崇高化=美的絶対化する。

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