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図左:原作10巻:上=月、左=ニア、右=メロ 図中:13巻:上=死神、左=月、右=L  図右:西尾版

 DEATHNOTEの主要登場人物Lを主人公とした映画が公開間近ということでか、デスノのアニメ・ディレクターズカット版や実写版がTV放映されたりなど、またデスノの話題が盛り上がってもいるようだ。たまたま西尾維新が書いたデスノの外編ノヴェライズ版、『ANOTHERNOTE――ロサンゼルスBB連続殺人事件』を読んだ。
 本編では端役だったけれど、そのクールなキャラクターで人気だった南空ナオミとLを中心とした物語。この事件は、原作本編で、Lが以前に南空の協力によって解決した事件として、語られていたものだけれど、内容は、西尾による全くオリジナルのものらしい。
 原作の本編後半で重要な悪役として登場するメロを語り手に選ぶところも、西尾らしいけれど、さすが西尾くん。のっけから賢さが前面に出た語り口だし、L(たち)の性格造形も、原作の設定を引き受けつつ的確に肉付けされ、西尾得意の言葉遊びや言語パズルを中心とした道具立てでミステリ風に進む。むろん西尾がただの謎解きを中心とするわけもなく、物語はメタミステリの気配も漂わせて……。何より、原作では主人公の月(ライト)くんのかなり幼稚な倫理観に(特にストーリー結末部に至るにつれ)なんだか引いてしまったけれど、ここでのメロの思考は、はるかにオトナの賢さで安定感がある。
         ☽
 で、ちょっとAmazonのレビューも覗いてみたら、百を超えるレビューは西尾というよりさすがデスノ二次創作! だけれど面白いのは、おそらくコアなデスノファンらしき読者たちの酷評の群れ。内容が薄っぺらだとか、軽すぎだとか、逆にまわりくどく読みにくいとか、Lやナオミのキャラが踏みにじられたとか…! Lやナオミの造形は、たしかに原作には描かれていなかったギャグやオチャラケのような面が描かれているけれど、ボクの見なしでは、原作キャラの可能性をむしろ巧く膨らましている、という範囲なのだけどなあ。
 まあ、あれほどの大ヒット作ともなると、原作にほとんどカルト信者的に転移したファンたちも数多くいるのだということを、改めて目の当たりにした感じです。あれはまるで、原作中のキラ信徒たちみたいな入れ込み方で、なるほど、あのキラ=月くんの素朴な「道徳観」は、素朴ゆえに、通俗道徳の幻想に重なり合うリアリティがあるのだろう、と思いました。
         ☽
 で、西尾版を読んだ後で原作を考え直すと、原作の、物語展開ではなくその展開を支えていた主人公の倫理的判断の薄っぺらさが、一層、強く感じられました。原作の主人公キラ=月くんの絶対的正義への意志は、その内容としては単に犯罪者を処罰することに終始していたのだけれど、その行為の「善性」は、月くんにとってさえ、実は単に見つからない(犯罪者を処罰・抹殺することの犯罪悪が露呈しない)ことで保たれているにすぎなかった。他者から、処罰者=月くんと同定されない限りで、月くんは自らの行為を「善行」と思っていられたのだけれど、まずLに気づかれ、そこでLを首尾よく葬った後も、次第に追い詰められることによって、その善行の犯罪性への意識が募っていく。つまり超越的な次元からの処罰者という位置から、世俗的な次元での犯罪者という位置に、彼の意識そのものが落ちてゆく。月くんの「正義」は、ポストモダン状況で全ての価値の優劣が相対化された結果、逆に、「勝てば官軍」という価値の無政府的なサヴァイヴァリズムを、直感的に反映したものに過ぎないことが、あからさまに露呈していく。
 せっかく、世俗道徳などを超越して、世俗的には「悪」であっても<彼>の理想においては(世俗道徳を超えた)至高の善へ向かうそうした夢が、幻想でしかないことを露呈しつつ、ポストモダン下でも超越性を欠いたまま維持される世俗道徳感性に飲み込まれ、世俗的悪人の地位に落下してしまっていた。

 う〜ん、なるほど。こう書いてきてみると、至高善の可能性を夢見つつも果たせずに世俗道徳に吸収される、月くんの倫理的センスの陳腐さ、そしてまた、ポストモダンの開放性がシニカルに頽落したサヴァイヴ的現在の実存的煩悶と、それをも再吸収する(大きな他者なき)世俗道徳の凡庸な堅牢さ、そうしたものの戯画的な描出に、原作の機微があるように思えてきました。

 月くんのそうした意識の変化を描く小畑健の画力は、素晴らしい。ミサミサやナオミら女の子の可愛さや色気の描出はかなり疑問符も付くけど(趣味の問題かなあ)、Lがあれほど魅力的なキャラになったのも、小畑の画力によるところ大でしょう。
 書きたかった本題に入りそこなっちゃったけれど、とりあえず、今日はここまで(^^;

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図版:『ガニュメデスの誘拐』
左:コレッジオ         右上:ミケランジェロ  中:レンブラント  右下:ルーベンス

あけましておめでとうございます

本年の扉は、コレッジオの『ガニュメデスの誘拐』♡
コレッジオは、ルネサンスの画家の中でもおねーさんや少年を一番チャーミングに描くよね。
            ☆
レオナルドに学んだスフマート(ぼかし技法)は絶妙だけど、
レオナルド大先生のように悪魔的な神秘性には届かない(誰も届かないけどね)。

チャーミングな顔を描くことではラファエッロと双璧だけど、
ラファエッロみたいな天上的な高雅さはない(これに並ぶのはモーツァルトだけだね)。

そんな二人の大巨匠のような超絶さはないけれど、
でも超絶的じゃない分、感覚的でコケティッシュで微妙にエロっちくて…。
萌えキャラって点では、西洋絵画史上でも最高峰じゃないかな。
            ☆
このお題、超美少年として評判のガニュメデスくんが、鷲に変身したユピテルにかどわかされる、
という、やばいお話♡(野阿梓さんあたり、小説にしないかな。ここ数年、音なしだし)。
ユピテルさまってば、たいそう偉い神さん(ローマ神話の主神、ギリシア神話のゼウス)、
しかしそのくせ(それゆえにこそ?)、ちょーエロオヤジ。
ゴージャスな奥様ユノー(orジュノー:ギリシア神話のヘラ)がいるというのに、
日々、おねーちゃんに目を付けては手を出し足を出す!

それも迫り方がいつも実に凝ってる、というか変態で、いろんなものに変身しては迫りまくる❤
まあ、ユノー様に見つかると叱られるから、ってわけだろうけど、
色々な動物やおねーちゃんにまで化けたり…。コスプレ自体も趣味だったんだね、きっと。
この日の獲物は、下界で評判のちょー美少年ガニュメデス♪
天上界に誘拐された彼は、壽退職したオネーチャンの代わりに神々のお酌係りをさせられた。
水瓶座の配置は、そのガニュメデちゃんが酒壷を捧げ持ってるとこ。
            ☆
このお話、多くの画家が手がけてて、有名どころでは、
図右上:真正ホモさんのミケランジェロが、恋慕してた美青年にプレゼントした見事な素描
 ただしガニュメデちゃんは力士風マッチョだし、鷲もムキムキ!ってとこがミケ様(^^;
図中下:オランダ・バロックの巨匠レンブラントの若き日のドラマティックな画面。
 でもガニュメデが赤ん坊! それにかなりブッサイクで、オシッコ放出してる!
 ミケ様やユピテル御本人をも凌駕するヘンタイ系か?と思えば、オランダはプロテスタンティズム、
 だから同性愛とかの主題に対する批判的なパロディ、とかいう背景はマジすぎてつまらんね。
 まあレンブラントの絵としてもまだ硬いし)
図右下:フランドル・バロックの巨匠ルーベンスのゴージャスな美青年ガニュメデの部分。
 鷲のユピテルも絢爛に磨かれた剥製みたいで、エロ神の欲望やガニュメデくんの恐怖や困惑もなく、
 ただただゴージャスなばかり。ルーベンス、下絵では超絶技巧も生き生きしてるんだけどなぁ。

その他にも古代の彫刻や浮き彫りから現代のイラストまでイロイロあるけれど、
ガニュメデくんのチャーミングさや神話的雰囲気などこの主題の表現としても、
絶妙な構成と色調のハーモニーなど作品の出来としても、
上掲の超A級巨匠たちのものよりも、このコレッジオが圧倒しています☆
コレッジオの作品の中でも、これと対となる『ユピテルとイオ』と並んで、
コレっジオの最高傑作でもあるしね♪

よいお年を❤

敬愛するI学兄のブログで、「難解風用語」を巡って議論が進み、それが特に「団塊〜ポスト団塊世代」の頭のワルサの標識ではないか、とM親方に出され、M親方がその問い掛けに賛同して「難解風語法の有効性」をおちょくっていた。
 しかしその議論の流れ、(大人の背景事情には共感できる面があっても♪)、「誠実な応答!」としては同意するわけにもいかず、コメント用意したら例によってw長くなりすぎ、別のブログ村の日記としたのをここでも再録。久しぶりの日記としてはあまり面白い話ではないのだけど、若い人たちからもこの手の話題は昔も今もよくふっかけられるので、載せてみます。

★1:「難解風用語」を巡って。
 上記の文脈では、そうした「難解風語法」がもはや無用の長物ではないか、と議論が進んでいた(また業界系専門家や若いアーティストたちなどからもそうした話はよく聞くのだけれど)。
 しかしまず、そこで難じられている背景の有象無象(あそこらへんの評論家や学芸員や美術家たちねw)に関する限りでは(あくまでその限りでは)、
評論家や大学教員や学芸員や美術家などとして安定職を得ている者にとっては、
正に「それ」が「職の糧」となり、ゆえに「腹が膨れ」、「正しさを誇るお道具」で、そのようにして「有効」で、「彼や彼女から見た馬鹿」にとっては「無用の落書き」だし、そうした俗衆こそ「その狭い世間知」を啓蒙してやるべき「お客」でしかないことでしょう。それが、「難解風」なだけで、論理的には無茶だったり苦茶だったりするとしても。

 そうした言葉が「難解きどり」に見えるとしたら、いきなりそれが「もはや無効だ」とは言えないけれど、そうした「見え方」には、「世代間差異」がいくらか働いている可能性もあるでしょうね。そこに違和を感じるなら、それが「世代的ジャーゴン(流行語法)」の違いによるという面がある。団塊世代の少し後までは(ましてインテリ層には)マルクス主義の最後の灯火が残っていたようだし、吉本や廣松らの難解な語法が「かっこよい」ものでもあったことは内田樹なんかも書いていた。その周辺で現象学の流行などもあったし、非政治的な人文的語法にも伝統的な教養主義の感性は残っていた。
 そしてその後からI学兄あたりの世代までは、ポスト・マルクス主義、構造主義からポスト構造主義の語法が物心付いたころにその魅力を放っていただろうし、さらにその後の世代の「インテリ層」では、そうした語法も一般教養レベルのスタンダードになっている。けれども、時代のグランド様式は出にくくなっている(これもポストモダン風俗現象でしょう)。
 で、有象無象の文章でも(むしろそこでこそ)、その時代に魅力を放ったスタイルが共有されてしまいがちなわけで、そのようにして、文章上の時代様式というのは見て取られうるでしょう。

 しかしM親方の示唆する「有効性」といった問題は、「難解さ」とは無関係とは言わずとも「別問題」でしょう。今日、様々な文化的環境が、縦方向にも横方向にも細分化されている、そして同時に他方、世俗的にグローバルな文化環境は、絶対的情報量の絶対的な増大にもかかわらず、むしろそれゆえに、均質化している。その均質な大衆文化環境は、そのメインストリームが市場原理(その文化的現象としてのモデルチェンジ・流行原理)によって駆動されている限り、「難解な思考や語法をある段階で不可避とする時間を要する文化」を「無用の長物・有効ではないモノゴト」とする、ということはあるかもしれない。
 しかし、そうした風潮に追従する必要もない(抗う客観的根拠もありませんが)ワケで、「一般的」に「有効/無効」などを言い立てるのは、結果的に単に時代の風潮を追従するだけに終わりかねません。

★2:「難解風」とは異なる、いやおうなく「難解」となることについて
 ところで他方、事柄についての知を、どこまでも探求しようとすると、常識や世間知で通用する言葉遣いや思考法を、どこかで超えていくことになりがちでしょう(芸術的表現なども同じ)。で、結果的に(「難解風」ではなく)いやおうなく難解な語りや表現に進まざるを得ないこともあるでしょう。
 そしてもちろん、そうしたコト自体については、他者がアレコレ文句つけるすじあいのものではありませんよね。それは、学の言葉に限らず、絵画や彫刻やその他のどんな表現行為にも当てはまる。
 そしてまた、難解な思考や作業に踏み込むと、そこでしか感じられないお楽しみ(enjoyment)が出てくる。そうしたお楽しみは、敬愛する方々も知ってしまって患っている病の元、でもある。I学兄の文章もM親方やM僧正らのアートもG学姉の文章なども大層ネジくれてらっしゃるしね。

 というわけで、あたりまえのことだけれど、不可避な難解さと、阿呆ゆえの難解さや営業用難解さとの差異は、世代の問題には還元できない。ジジでもババでも若者でもアホとそうでない者がいるだろうし、ぴちぴちギャルでも死にぞこないでも素晴らしい慧眼を示してくれる者もいるし、一人の研究者や作家の内にだってアホの契機も天才の契機もあることでしょう。
 そこを混同すると、それこそただの阿呆に同化してしまうので、特に世代論や職種論のようなお話では気をつける必要があるでしょう。「世代的スタイル」は抽象できるだろうけれど、それを一般的にバカかリコウかと決め付けることはできないですね。どの世代にも、尊敬できるヤツはいるし、困ったお方は無数にいらっしゃるだろうし。

 そしてボク個人の趣味、としては、どんなジャンルであれ、興味をひくものは、必ずどこかで難解なところを含んでいるし、それこそが一層の関心を喚び起こしてくれがちです。具体的には、もちろんその「難解さ」の内容が問題となってくるし、また「難解さ」は、あくまでenjoymentの媒介であるとしても。

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画家マーク・ロスコ(1903-70年)の作品「ホワイト・センター」が15日、ニューヨークの競売商サザビーズでオークションに掛けられ、7284万ドル(約87億4000万円)の高値で落札された。…50年に描かれたロスコの代表作で、出品者の米富豪デービッド・ロックフェラーが、60年に1万ドル以下で購入。およそ半世紀で7200倍以上に値上がりした、とのこと。

で、ヨソのブログ村で敬愛する美術家親方さま曰く、
「〔生前の〕ロスコ本人には当初の販売価格である1万ドル以下のそのまた何パーセントしか入っていない。美術市場の投機的価値などは、余程長生きしない限り作家本人は与り知らぬ事である。 …ロスコの作品ですら7200倍の価格になるのに半世紀掛かっている。…作品制作後、半世紀は作品の美術的価値が暴落してはならないとするならば、70年代以降の作品にそれを期待する事は出来るだろうか。…誰が70年代以降の現代美術を投機の対象として買うというのであろうか。1万円で売った作品が半世紀後に7200万円になるという事を本気で信じている夢多き現代美術家は今どれだけいるのだろう。…
現代美術という言葉の意味の何割かは投機である。その投機の部分が揺げば、それ自体の消滅も含め、現代美術の意味は変わる。恐らくマーク・ロスコは人類が目撃する最後の現代美術の一つなのだろう。」

で、この親方説、気持ちは分からなくもないが、彼の幻想の投影による歪みがある。

「人類が目撃する最後の現代美術の一つ」とは親方流のレトリックだろうけれど、すでにバスキアらは数百倍になってるし、中国市場が、いく度かの危険を経験しつつも、どうせ中国式に無茶な巨大市場を成立させるだろうし、そこで中国算術式の高騰もありうるだろう。 まあ、それはどうでもいい話。

けれども、7200倍はともかく72倍程度の夢、となると、けっこう現実的な夢として機能しちゃって、格差社会を助長する幻想装置になるわけで、ロスコの話はそうした時代の幻想にエネルギーを備給する神話ではある。
そして美術館というのは、その神話的儀礼を司る神殿であって、
であれば、今どきの新都市プチバブルは、公認の新新宗教のページェント以外の何ものでもない。
というところで、意外とリアルに切実な問題としてロスコ神話が帰ってくるようにも思われるけど、
なんだか神話にしては下世話だなあ。
まあ、神話の機能とは、古今東西、何より下世話を支えるところにあるのだけどね。

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別のブログ村でのこと。トマくんが、楽曲演奏(=上演・再現)において、楽譜の解釈の妥当性がどのように評価されるべきか、といった問題を、オイラが以前に書いた音楽美学や記号論を参照して考察していた。しかしその考察は錯綜し、あげくデリダのエクリチュール問題にまで思いに至り、考察は迷宮に入り込んでいた。
で、以下は、お声も掛けられていたのでお応えしたコメントをリライト。

トマ本文が暗に求めている問題の真の方向wは、二つ。
A:解釈の「妥当性」B:美的価値

Aは、記号論や現象学的な間主観性から解釈学的循環といった問題圏で論点整理できる。
しかし日記本文後半やSさんとのやり取りには、楽曲自体(物自体っぽい)と演奏それぞれにおける美的価値の問題がかかわり、A的問題だけでは片付かないでしょう。

デリダのエクリチュール問題は、関わるって言えば関わるけど、…ちょっと別の方に広がっちゃうなあw まずはその点の解説一言だけ(^o^)

あの論点は、思いっきり砕いて言えば、表現の前に内面はない!って論点なんですね。
表現は、エクリチュール、形式、マニエラ、
内面は、思考や感情、内容、などと置き換えられる。

で、プラトンからハイデッガーまで多くの学は、
真理を、「心に直に現れる=現前する」内容で確認しようとし、
それゆえ「外面的な表現記録」である文字(エクリチュール)より、
思考という「内なる声」と連続した「声による表現」(パロール)に優位を与えた。
しかし、その「思考=内なる声」だって、実は言語形式という「外的な媒体」があるからこそ可能じゃないか!
だから、心の内だって天界の理念だって、言語という人為的形式の効果なのだ。
形式や表現がなければ、内容や内面だって生まれない!
その比喩的表現が「声=パロールに先立つ文字=エクリチュール」ってお話で示されている。

トマ論点につなげば、
楽譜に書かれなけりゃ、バッハの音楽も存在しなかった、
演奏されなけりゃ、ドルフィーのジャズも在りえなかった、などなどとなる。

そこから敷衍すれば(つながるじゃんw書いてみるもんだねw 正に、書かなけりゃ思考も生まれない、を自己言及してる♪)、
フルトヴェングラーのロマン主義的演奏で現われたベートーヴェンの「真髄」とは、前もって在ったものではなく、
フルヴェンの演奏(エクリチュール)によって初めて出現し、
且つ‶それと同時"に、「ベトの真髄」として「‶元々"楽譜に潜んでいた真理」と成った(フルヴェンのエクリチュールによって、‶後から"遡及的にそう成った、にも関わらず:cf.永井『翔太と猫のインサイト』など)。
しかし、トスカニーニの即物主義的演奏(もう一つのエクリチュール)が、ベトの「別の真髄」を創出すると、ベトの真髄が分裂する。
ここで、ベトを巡る「神々の争い」が勃発する。

ここで争われているのは何か?

しかもトスカニーニの「即物主義」は、楽譜に忠実な原典主義のはずだった。にも拘らず、フルヴェンの恣意的な表現の方が、後々「ベトの真髄として(さえ)」優勢となる。
さらにカラヤンの「機能主義的耽美主義(こう書くとケッタイだねw)」が大ヒットしつつも、フルヴェン派からもトスカニーニ派からも「通俗的歪曲」として見下される。
加えて、アーノンクールやブリュッヘンら古楽派の「前衛的原典主義(これまたケッタイだなあw)」のベト解釈が、
トスカニーニの「即物主義的原典主義」以上の原典主義を謳いつつ、他面で珍妙な真髄を見い出し、その潮流が優勢ともなる。

さらに他方、そうした新原典主義がブルックナーやマーラー解釈にまではびこる中、
グールドのバッハのような、「かつての超前衛的解釈」が「前衛的」という印象は今も残したまま、バッハ解釈の本道(しかも後に続くもののいない!)となるようなケースもある。
グールドと言えばもちろん、マニエリスム美学の極致でもあり、分散和音に砕け散る和声など音楽の「撒種」でもあってw(今日はここまでで時間切れw またね♪)

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