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春が兆しはじめましたね。
この穏やかさが世に満ちていれば、ただそれだけで良いのだけれど…。

で、春の兆しにふさわしい絵を、と思いながら、絵を見つくろっていたのだけれど、
ちょっと春とは違うお題に目が留まってしまった(^^;

上図は、象徴主義の典型モローの『サッフォー』
下図は、世紀末イギリスのサロンで大人気だったアルマ=タデマの『サッフォーとアルカイオス』
(上右図は、この日記の主題ではないけど参考図版としてモローの『トロヤ城壁のヘレネ』)

古代ギリシアの抒情詩人サッフォーがテーマの二つの絵。
題材自体は麗しいシーンを描く口実のようなもの。
とはいえ、そうした物語が一般教養となっていた当時のハイソ文化の環境では、
こうした作品は、今の二次創作と似た楽しみenjoymentがあったのだろう。

それにしてもこの二作品、技巧的には歴史的巨匠モローより、圧倒的にアルマ=タデマの方が上。
しかしアルマ=タデマのこの通俗さは凄い。
他方モローは、印象派以後の造形中心主義観点からは文学的と見下されるけれど、
そうした評価が単なるイデオロギーだってことは、
このアルマ=タデマとの対比で顕われる過剰さが、題材の内容(文学的意味)によるものではなく、
題材の「視覚的な実現の姿」、
つまり正に“造形的”に生まれる美的かつ詩的効果であることで示されている。

とはいってもその過剰さは、いつも巧く発揮されるわけではない。
むしろモロー作品の7割方は、成功しそこなっている。
逆に、アルマ=タデマにおいて失敗の多くは、モデル選定も含め題材の設定の失敗による。
(それでも、アルマ=タデマの技巧はそれはそれで立派だし、ネットを探ると今でもファンがたくさんいらっしゃるのに驚きます。生前から評判の大理石の描写は凄いしね)

ところで、サッフォーは、紀元前7世紀ギリシャに流行した独吟抒情詩人だけれど、取り巻きの女の子たちと同性愛関係にあったらしく、生地がレスボス島でもあり、レズビアニズムのイコンともなっている。
モローらと同時代の象徴主義詩人ピエール・ルイスの『ビリティスの詩』は、当初「新発見のサッフォーの詩の翻訳」として出された。もちろんルイスの悪戯だけれど、ルイスはモローのことはどう思っていたのだろう?

ネルソン・ピケJr.

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ネルソン・ピケJr.(Nelson Piquet Junior)あるいはネルシーニョ・ピケ(Nelsinho Piquet)
上は、A1GPブランズハッチでの高速ダウンヒル・コーナー。父と同じデザインのメットが見える。
中は、昨年のGP2での1シーン。
右は、A1ブランズハッチ戦、優勝後のショット。
下は、ルノーF1テスト時の、父とのツーショット。
   ピケ父は、今やコロンボ風。哲学者デリダにも似てる(デリダ肖像は画像一覧にあるよ)。

かのピケ様の御曹司いよいよF1の門前ですね。
先にF1デビューしたケケ息子、
今年は共にF1テストドライヴァーとして競うサトル息子、
そろそろF1シーンに近づきつつあるセナ甥っ子、などなど
この世界も、
アンドレッティやヒルやスチュワート、ヴィルヌーヴ家など
60〜70年代世代父の二世軍団に続く
80年代世代父軍団がいよいよ活躍しだす時なのですね。

ルックス・ピカ一のピケ息子、
一昨年GP2シリーズ、デビュー2戦連勝し、
昨年は、チャンピオンはルイス・ハミルトンに取られちゃったけど、
ダブルヘッター完全連勝したハンガロリンクのようなテクニカルコースでも、
国別対抗のA1GPで優勝したブランズハッチのような高速チャレンジングコースでも速い、
というのは、かなりのドライヴィング・センスは間違いなくありそう。
今年は、F1ルノー・チームのテストドライヴァー。
テストでは、エースのフィジケラよりよいタイムも出している。
そういえば、ルックスもフィジケラと少し似ている。
F1本戦に登場するのは、いつだろう?

納豆問題もそうだけど、
こうした問題のポイントは、
過剰な扇情効果、という点にあるのだろう。
納豆もロデオマシンも、その効果は、物質的因果性の範囲内では存在しうる。

病は気から(これがプラシーボ効果)でもあるけれど、
病は身体の問題、であるのも当然で、
その両者の因果効果をどのように見積もるか、その点がキモになる。

プラシーボ効果には、逆プラシーボ効果が伴いがちですね。
美術や文学も、制度の言説に拘束もされるけれど、
言説は、美的経験のすべてを決定するわけではない。
言説というプラシーボと、言説批判というプラシーボの、
それらの薬の効果の、薬効と毒性の見極めが難しい。

アクオス広告的な美のナショナリズム効果のようなものも、
言説が組織する幻想効果に依存しているけれど、
その1から100までウソというわけではない。
幻想が人々に生きられるには、
雪が結晶をなすためのコアが必要なように、
最小限の実質は要されるのだから。

しかしソコでまた、
日本批判の批評家がミイラ退治する内に日本主義を胚胎してしまうというのも、よく見る構図ですね。

ここでもそうした見極めの技、が、キモになるのだろう。

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14日の日記「ビョーキのアートvs本流」という文化のビョーキ」のナツカちゃんへの応答で、
美術でも文学でも映画や音楽でも、いわゆる「シリアス」なアートシーンでは、
>シニカルで退廃的でしかリアリティを持てなくなった
って書いた。
それはしかし、
そうした雰囲気やイメージの方が、「シリアスな気分」を安心させる、ってことだろう。
「隠れた怖いリアルの露呈」ってイメージこそ、
「そうそう、現実って、こんな風に怖いんだよっ!」
って感じで「私は現実を見ている」という満足感を与えて、
安らぎのイメージとして働く。
そうして、何かトラウマティックな<ホントに怖いもの>を隠す。

シリアス・アートにとってホントに怖いものは、むしろ
「侵犯的前衛の伝統」を覆しちゃう、端的に「耽美的なもの」だったりする。
崇高が美を怖れる。崇高と美の実質が、実は逆転しているのかも。
怖いものは、むしろ一つの「萌えキャラ」だってことは、
「オタク」文化の方がよく分かっているかもしれない。
もっともアッチはあっちで、そこで胡坐かいてるだけってツマラナサがあるけど。

でも、となると崇高と美の逆転にあるネジレは、うまく活かせれば面白そう。

(参考図版は、左:会田誠、右:町田久美)

ヨソの世界のあるサイトで、
「無色って何色だろう」という話題が盛り上がっていた。
まだなかの展開見ていないけれど、
「パラドックス」のコミュニティなので、パラドクス的問題。
無い色はあるか、無だけどまったくの非色ではない、などなど。
『ジョナサン・ホーグ氏の不愉快な職業』に出てくる
「窓の外に見える無」の問題と同じ。
「見える無」なら無ではない? 
でも「見えないものとして見える」からこそ、
The Realなんだろうし。

見えるは見えない、見えないは見える……などなど。

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