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※「幻想の倫理:正」への続編
(別のブログサイトでの、正編に付けられたコメントへの応答をリメイク)
>言語が世界を分節しているにしても、言語の前にも分節は起こっているのではないでしょうか?
それはその通りで、そうでなければまだ言語を習得していない幼児が、そもそも「言語音」を聞き分ける事もありえないですよね。
そしてそのことは、言語を習得した後の大人についても、同様。
また、言語と区別された非言語や言語を剰余した経験も(それらも言語の分節の影響を蒙っているとしても)、狭義の言語経験と区別されて経験されるわけですからね。
ただし、「世界」などという包括的な観念などは、言語的一般化がなければ不可能だし、それは「お米」や「これ」などの概念もそうで、また「しかし」や「それで」など言葉によってのみ可能な経験もある。
そしてたとえばよく言われる「虹の色」のように、
ある言語圏では七色に、別の言語圏では6色に、さらに別の言語圏では5色に、というように、言語によって「知覚」の分節も大きく左右される。
ただし、一時期の構造主義的な「言語相対主義」のように、
そうした言語の差異が知覚を「決定」するなどという説は、言語的分節を強調しすぎていた。
自分の国語(日本人の場合のように)が、虹を七色に区分していたとしても、虹を観察すれば、十色にも四色にも色々見分けることができる。
趣味vs言語あるいは、私的な趣味vs時代やジャンル共同体の標準的趣味との関係にも、同じことが言える。
たとえば「美術」についても、はやりのダ・ヴィンチで言えば、
今日の世間常識は『モナリザ』を傑作と見なす。
専門家共同体も同様。ただし、世間常識より精細な分節を与えている。
にも関わらず、世間常識も専門家共同体の規範も、自分の知として内面化しているある人にとってさえ(先の虹の例と同様)、
世間常識にも共同体規範にも抗って(そうした見解を十分に理解しながらもなお)、『モナリザ』を傑作と認めないことも可能ですよね。
そうした私的判断が、他者の判断と葛藤する議論状況で、
しかし先の趣味のアンチノミーが起こる。
趣味は公共的言語を剰余した私的なものだ、ゆえに議論しえない/
趣味は公共的言語で議論されうる。
そしてもちろん、議論し難さにおいて議論されうるのであって、
文化とは、その困難な抗争の残りカスのようなもの。
動物的眼差しから見たら馬鹿げた遊びのようなもの。
だけれども、人間の悦びや幸せとは、そのようにしてしか成立しないのもまた、人間的事実でしょう。
そしてこのことは「芸術」や「趣味」「美的経験」に限らず、悦びや楽しみとは、すべからくそうしたものでしょう。
それゆえに、そもそもそうした悦びのない、単なる「経済」や「政治」や「日常」など、ありえないわけで、
ボクはその意味で、人間とは美的存在=趣味存在だ、と見るのです。
そしてその美的存在は、本文に書いたように言語という檻によって、またその檻があるゆえにそれをはみ出る剰余によって、生まれる。檻に囚われる事で囚われの喜びと脱出の悦びを共にえるという、
こうして人間とは、超越論的(=そうである他にない)マゾヒズムを生きざるをえない存在なのですね。
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