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★:二重の仮面・二重の欺瞞・・・しかし
(前に続く)
で、この『愛の寓意』は普通、愛や快楽が孕む欺瞞や屈折を表している、とされてましたね。
そして、それを皮肉ったり警告したりしてるのだ、と、タテマエ上は言ってるフリを作る側も見る側もしている。
王様はハダカではありません、ということにしておきましょう、ということになる。
もちろん世俗道徳はそこまでノンキでもないから、後の所有者たちは、ママ・ヴィーナスのオマタに布を描き加えさせたり(ミケランジェロの『最後の審判』などと同様の「道徳的処置」)、キスしている口元のヤラシイ舌(このママ、舌をチロチロさせてるんだよ!)を塗つぶさせたりしていた。それで、この絵の不道徳さは隠された、と言うんだけど、ハダカの王様にオフンドシ付けさせ、これで王様の品位が保たれます、というようなものだね。
ということになると、最大の欺瞞は、この絵を見る見方の方に現れる、ということでしょう。この絵に示された、欺瞞、嫉妬、屈折などは、この絵を見る眼差しのものとして、見る者に返されてくる。
★:剥がされそこなわざるをえないヴェール:不可能な仮面・不可能な素顔
でも、この絵の鏡のような働きは、この絵の素顔なのだろうか?
この絵が導いてくれる屈曲したドラマから照らし返せば、もちろん、仮面でしょう。
それも、ついに素顔と区別できない仮面。
そして、マニエリスムとは、絵画の仮面性について覚醒した精神だったとしたら?
あわててはいけません。もう少し、面倒があるのです。何しろ、もはや誰が誰を欺いているのか、そのことが怪しいのですから。
ヴェールを剥がされたのは、欺くことと真実との根源的な結託なのでしょうから。
となると、仮面は仮面として見えちゃいけない、というのは、デリダの例の「贈与の論理」のヴァリエーションとも言えます。贈与−欺瞞ということが知られたら、贈与−欺瞞としては失敗だ、という仕掛け。つまり、贈与や欺瞞は、それと分かる時は、メタのレベルにいざるをえない。そうしたメタを隠す限りで、真の贈与や欺瞞は成立するのですからね。
こうして、ヴェールは剥がされそこなわざるをえない(ということを演じる舞台のヴェールが、かろうじて・はからずも剥がされた?)。
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