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古典美術に描かれた人物(もちろん擬人化された神々を含む)って、距離とって見れば、今日的基準とはズレますよね。『ダ・ヴィンチ・コード』ブーム絡みの番組や本でも、モナリザを今なお「絶世の美女」とか言うのも多かったけど、モナリザって「普通」の感覚で言ったら「美女?」だし、ミロのヴィーナスもウエストないし(ある街頭取材では、文化的教養のない=結果的に文化的先入観に侵されていないギャルが、デブ!って言い切っていたw)、ルーベンスの裸なんて彼特有のマティエールのせいもあって脂肪の絡み合いだし。
このヴィーナスなんて、古典絵画のヌードの中では、これでももっとも今日的基準でも許せる方じゃないかな。同時代のティツィアーノやヴェロネーゼのヌード、色はもっと暖かいし、造形的な意味でも豊かな色感あるけれど、ルーベンスよりは爽やかでもかなり「どすこい!」だし;;
ただ、マニエリスムの絵の「病的雰囲気」の方は、むしろ今日受ける理由のコアだよね。
それは、シュールレアリスムからルネ・ホッケや澁澤系を経て、昨今のゴス・ロリ〜耽美系につらなる系譜にある。そもそもマニエリスムが広く受け入れられたのは、現代耽美主義の一つの源泉でもあるルネ・ホッケのマニエリスム関連本が広く受け入れられたことにもよるからね(学界的環境ではパノフスキーやハウザーといった人々の本格的研究の貢献が大きいけれど)。
でもそれゆえに逆に、今なお、マニエリスムは(そして同様に19世紀のプレ・ラファエルから象徴主義、耽美主義、シュルレアリスムなどの系譜もまた)、美術史の保守本流からは、どこかいかがわしく見られがち、という枠組みの病が残っている(ボク自身、20世紀造形中心主義と19世紀末耽美主義が、潜在的に共犯関係にあることは、何度か書いたのだけれどさ)。
そして、さらにもう一ひねり考えると、今日のアーティスティックな美術的イメージは、純ハイアート系(デ・クーニングらから会田誠ら今日のJアート系も含め)とアート系マンガやゴス系・耽美系の対立・密通を問わず、「病的」な徴を付さないと、「文化的」なありがたさを感じてもらいにくい。このことこそ、モダン&ポストモダン的症候(の一つ)でしょう。
欲望や快楽の姿を方向つける時代の病。
それに即して、アーティストは、仮面を付けなくてはならない。否、あえて付けるまでもなく、素顔が、そうした仮面として構成されている。美術家のマニエラとは、だから、そうした仮面の活用法に他ならないのだろうなあ。
批判的アートという構えのアートとかは、時代の仮面を剥ぐ「時の翁」のポジションを僭称しがちだけれど、それがしばしばどこかマヌケな感じなのは、自分だけは素顔だというようなマヌケな雰囲気を、自らの仮面性に気付かずにいるみたいな顔をしているからでしょう(そうしたアートの仮面には、気をつけないとね)。
むろん、時の翁の役は可能でもあるし、この文章自体、同時代のある種の言葉の呪力のイカサマを暴露しようとしてもいる(「も」が強調です。主旨は別ですw)・・・ということで、も一度、議論は巡る。
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