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納豆問題もそうだけど、
こうした問題のポイントは、
過剰な扇情効果、という点にあるのだろう。
納豆もロデオマシンも、その効果は、物質的因果性の範囲内では存在しうる。
病は気から(これがプラシーボ効果)でもあるけれど、
病は身体の問題、であるのも当然で、
その両者の因果効果をどのように見積もるか、その点がキモになる。
プラシーボ効果には、逆プラシーボ効果が伴いがちですね。
美術や文学も、制度の言説に拘束もされるけれど、
言説は、美的経験のすべてを決定するわけではない。
言説というプラシーボと、言説批判というプラシーボの、
それらの薬の効果の、薬効と毒性の見極めが難しい。
アクオス広告的な美のナショナリズム効果のようなものも、
言説が組織する幻想効果に依存しているけれど、
その1から100までウソというわけではない。
幻想が人々に生きられるには、
雪が結晶をなすためのコアが必要なように、
最小限の実質は要されるのだから。
しかしソコでまた、
日本批判の批評家がミイラ退治する内に日本主義を胚胎してしまうというのも、よく見る構図ですね。
ここでもそうした見極めの技、が、キモになるのだろう。
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