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知人の美術史家がヨソのブログ村で書いていた話にちなんで。
ベルギーの航空会社Brussels airlinesの新しい企業ロゴ(?)にクレームがでた。
赤い小丸を並べてbを象っただけのものだけど、その丸が13個なのがイケナイのだそうだ。
で、14個に増やしたのだけど、デザイナーはもちろん文句を言った。「調和が崩れる!」
で、親愛なる友である美術史賢者Iさんは、「「デザインの調和は取れていた」と自身の「表現」に立て篭もり、問答無用を気取っているように思われる。」と述べていた。
そこに、これも愛しき友である美術家M氏が応じて、
「デザインの調和を取り、他者との不調和を取る事と、デザインの不調和を取り、他者との調和を取る事では、デザイン界的には前者が善であり、後者は悪………そしてその摩擦係数の大きさが、大きさのみが「私様」を肥大させていく」とおっしゃっていた。
で、美術史家I氏が、修正前と修正後は「哀しい位に間違い探し」という発言を引いて、
オイラは次のように応じておきました。 以下は、オイラのコメント。
この問題と、批評家や研究者にとって今や「正しき作法」のようになっている「神は細部に宿る」という問題との間隙には、悩ましげな深淵がありますねw
良き細部と悪しき細部、有益な細部と無益な細部
などなど、その良否の秤は、どのように決済されうるか?
(ボクは割りとあっさりと、記号論的に「関与性」などという概念を媒介させたいのですが、それでも、当の関与性が関与する基準についての問いが、再度、喚び覚まされます)。
Mさんが、ご自身の日記でもここでも問われている
「私-性」と「他者」という秤(ここではデザイン的調和と他者との調和)も、
なぜ、ここで、その秤か?という問いは、問える。
そしてボクは実は、露悪的でも体制補完的でもない意味で(と断るのは、そうした方向も「論理的には可能」だからですが)、「私vs他者」という秤は、ここでMさんのように使うわけにはいかない、と考えます。
(続きは、ムラリブログの、クロカワキショー問題と通じていたので、別に載せます)
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