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 哲学者の永井さんと入不二さんが公開対談をしたようで、その続きを某ブログ村でやっていた。そのやりとりを整理して要約しつつ、派生的に考えたことを書いてみる。

 永井(以下敬称略)は「解釈学・系譜学・考古学」(『転校生とブラックジャック』終章)で歴史的認識を、そのタイトルが示す三つの学的態度に区別した。
 永井の言う「解釈学(的歴史把握)」とは、過去を捉える基準などを問い返すようなことは配慮せずに、事実的なつながりに関心を集中する態度。
 「系譜学」とは、そうであったとは思われていない脈絡を、事実を捉える基準自体の再検討も含め、それこそが深層=真相だと発掘する観点。つまり通常は問われない基準や枠組みの成り立ちまでも批判的に捉え返す、メタの観点からの捉え返し。
 「考古学」とは、系譜学もそれが学=語りゆえに見過ごしてしまわざるをえない、在ったはずの<出来事>を発掘することを求める態度(最近の言葉で言う第0次内包への態度)。永井はその考古学を、青い鳥の物語に喩えて語っていた。青い鳥は、初めから目の前にいたのだけれど、青い鳥を探す旅を経てきたからこそ、目の前にいたことに気付いたのだ、という麗しいお話に。

 しかし、入不二との対談では、その考え自体を自己批判する。
 「系譜学的背後解読(共同体の通念対する左翼的批判)の無限背進化(脱構築)」は、無限背進の中で実効性を失い、結局、保守的態度となってしまうという批判がよくされるけれど、「それと通じる意味合いで、この拙文は、確かにちょっと洒落ているけど、根本的にはたちのよくないところがあると思う」と言う。

 それに対して入不二は、永井がせっかく系譜学と考古学とを「外部」に対する異なる志向として分けたのに、反右翼的という点で区別できないと言い切ってしまうのはまずい、「左翼〔批判的考察の態度〕としてだらしなく、批判として不十分に」なってしまうのでは、と問いかける。

 正に同じになる、と永井は答える。系譜学的批判は際限なく可能なのだから、止まらないだけでなく、考古学もまた、系譜学の「単なる一例」に成ってしまう、つまり左翼の中の左翼=極左となり、だらしなくなって自己崩壊する、と応じる。
 でそれは、思想(世界へのある考え)を哲学化(考え自体の徹底反省)化したことに問題があるのでは、と加える。

 で、入不二は、その反右翼性というのは、左翼の「形式性」に由来するのでは、と言う。入不二の言う左翼の形式性とは、その批判性が、内容それ自体でなく、それを限定する枠組みへ向けられる傾向、と言うことだろう。
 それゆえ、左翼/右翼の対立とは、形式性/内容性の対立であって、左翼的形式化が「いつも取り逃してしまうものとしての「内容」を(幻想的にであれ)担保しようとするのが「右翼」」だと言う。これはちょっと面白い。

 とすると――とイジワルなにゃんこ先生曰く――その入不二の捉え方自体は、形式的で左翼的なわけで、そうした累乗化を求めちゃうのが「哲学化」で、ついに「その左翼性〔批判性〕さえも実は殺してしまう」と捻る。
で、「真の左翼は哲学化への誘惑をどこかで断ち切って、最低限の内容を保持しないと駄目」だと言うのだけど、これはラカンの「行為への移行pas d’act」かな?
そして自分も入不二も哲学病だけど、入不二の方が重篤(末期的?)だそうだ。

 ここで入不二はもう一度、形式/内容問題に踏み込む。
 「形式=左翼が、自己倒壊していくのと裏腹に(?)、内容=右翼の側も、「最低限の内容を保持しないと駄目」という限定的レベルの段階(この段階でこそ、右翼と左翼は内容上の対立でありうるから)、むしろ「何でも内容になりうる」「保持なんてしなくても、内容は消えようがない」みたいな非限定的レベルへと移行していくのではないかと思うのです。「極右」です。」こうして、左の極限的形式化と右の極限的内容主義が、一致してしまう。三島の全共闘への呼びかけなど。

 ここには少し飛躍が感じられるけれど、カント倫理学の形式的極限化における善と悪の同化、という議論との、差異と同一性を考えるヒントかもしれない。
 カント倫理学へのジジェクらの分析は、実質内容の徹底的な捨象が、善悪という内容を無化してしまう、というものだった。しかしカント的には実は悪の方は、その極限形態があるとすれば、病理的実質の純化の極限で、ここで入不二が直感した問題構成の方が適切なアプローチとなるかもしれない。

 入不二はここから、永井的独在論の中に、(「恐ろしいことに!」)この左右問題が含まれていて、形式性が言語ゲームであり、内容性が言語ゲームが必然的に取り逃がす実質」だ、と指摘する。まあ、恐ろしいのは、例が左右問題だったからで、これは事柄の道行きとしては尋常なものだと思うけれどね。

 ここで当初の三つの歴史的態度の問題に入不二は戻る。
 この議論の脈絡からすれば、解釈学は右翼〔保守的日常性〕と言うことになる〔リアリティとしての内容を保持したまま、内容の脈絡を緻密にするばかりだから〕けれど、ならば「極右」とは何か?
 「背後に回れてしまう物語を「物語」としてではなく、盲目的に本気で生きてしまっているはずなのが、「解釈学=右翼」の核にあるはずの「極右」だ」と言う。

 しかし、これは違うでしょう。むしろ、普通の日常的保守性だ。
 左翼≒哲学が、日常性の「下へ」潜り、内容を支える条件を暴き行くのに対し、右翼とは、日常の現実感を育む幻想を鍛える、共同体の凡庸な自己像を崇高化する、モノ自体の位置まで高める、つまり「アバタをエクボ化する態度でしょう。

 ここでの脈絡に即す限りで少し変奏を加えて、一旦、まとめてみます。
 左翼の形式主義は、実は形式的条件の徹底批判の背後に、批判的行為の至高善化=倫理的絶対化という実質的内容を前提している。
 他方、右翼の内容主義は、国家や民族などある幻想的対象の強度を追及し、実際は空虚な幻想対象を崇高化=美的絶対化する。

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