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ラカン3界図式、再考

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ジジェクと奥方:怪人と美女、だね! 崇高と美のカップル?

   ★ラカンの3界図式(ISR)再考
 「象徴界」とは、簡単に言えば、言語を中心とした世界把握の枠組み、ということですね。知覚や感情や行為のあり方を方向つける、式とかアルゴリズムといったもの。脳や身体というハードウェアの働きをコントロールするソフトウェア。世界はそれを通して、知覚や認識、感情などの現象として現われる。
 そうした経験の枠組みは、経験にとってはアプリオリ(先にあるもの)だけれども、存在においては先天的なものではなく、後天的(アポステリオリ)に獲得されたもの。その形式獲得のプロセスを、フロイトはエディプス過程としてモデル化し、ラカンはそのエディプス過程を鏡像段階をはじめとした衒学的なモデルで緻密に再モデル化した。
 ここで、現象を式・文法がどのように規定しているかは、決定的なものではなく確率的なものですね。一義的な制約ではなく、ブレの範囲は小さくない。しかも、カントの主観形式を間主観性として改釈した構造論〜物象化論的理解とも異なり、ラカンのモデルでは、その反照的屈折(大他者への与信とその反照による去勢)のダイナミズムが重要となる。
 ともあれ、そうしたダイナミックなプロセスとしての象徴界という式が、現実界という素材に具体化して、世界が現前する。

 では、その現象が「想像界」だ、と言えるか? そのようにしか解釈できない記述も、ラカンには多い。しかしこれもそう言いきる事はできない。斉藤タマキさんあたりは、現実界=ハードウェア、象徴界=ソフトウェア、想像界=モニタなどと例示してるようだけれど、この振り分けは比喩としては荒すぎる。こう言ってしまうと、通俗化されたカント哲学みたいになってしまい(物自体/カテゴリ〜超越論的形式/現象)、精神分析的観点こそが示しうる反省的屈折が、隠れてしまう……
 そもそも、慣用されている「想像界」という訳語が不適切だ。この「3界」は、存在性格が並列的ではない。特にimagenaireは、現象的アスペクトで捉えられることが多く、「界」という限定に馴染みにくい。「界」と限定すると、それぞれ領域的に排他的な印象が強調されがちだ。そもそもこの「3界」は、ボロメオの輪で示されるように、相互に反照的に干渉し合っているのだから。ともあれラカンの適切な訳語は定めにくい。

 ところで象徴界は、それが真実の支えとして機能するときには、それぞれの主体にとって、その式を統括する存在者が(暗黙の内にも)仮想されている。それが、「(真理を)知っているはずの他者」だった。それはしかし、本当に知っている、のでなくともよい。世の中の人々が「知っていると信じている」と想定されれば、それで十分である。だから、知っているはずの他者には、信じているはずの他者、が先行する。
 そして、そうした仮想された他者を信じることによって、象徴界は規範式として実働する。

 この象徴界という式が働いて世界を現象させるには、さらに、それぞれの主体に固有の物語でまとめられねばならない。式・文法をそれぞれの主体の生の形を誘う物語の台本=シナリオ。その物語・シナリオが、個々の主体に特有の「幻想」だった。この象徴界と幻想の関係は、構造的には、音楽の文法とそれを用いて作曲された譜面の関係にも似ている。

 そして「現実界」とは、様々な意味で、象徴界=式=文法で括り切れない剰余であり、想像界=イメージの現象に付随したり内在していても現象そのものからは剰余した何か、だった。だから、前もって実体的に実在する客観的存在ではなく、象徴界の枠付けの剰余として、象徴化の反作用や歪みとしてのみ、到来する。キシミのない現象の中に、キシミとして到来したり、顕現したりする、その限りで語りを剰余した何ものか。
 となると逆に想像界とは、「剰余していないもの(=現前しているもの?)」であり、象徴界にきちんと対応した限りでの具体的現象なのだろうか?
 いや、そうは言い切れないところに、現実界とは異質の想像界の謎めいた面白さがある。

 3界図式それ自体を、綺麗に説明しよう(象徴界に位置づけよう)とすると、ジジェクを含め誰の解釈を読んでも、むろんラカン本人の説明は言うまでもなく、いつも何か過不足を感じる。ラカンという象徴界の不整合が、ラカン学という秘教を導き、その享楽を組織する。かつてのカント学やヘーゲル学、マルクス学やウィトゲンシュタイン学などと同じ、秘教の魔力を、自ずから示している。

 ★イメージという亡霊としてのみ現象する現実界?
 ところで、特にジジェクによって示される現実界は、象徴界との関係に関して、永井さんの哲学で近頃はっきり表に出てきた累進構造と、ホモロジカルなロジックを示している(誰もそんなことを、少なくとも公けでは、言っていないみたいだけど)。
 どういうことか。ラカンの現実界も、永井の言う<私>や<今>や<現実>も、常に、「語られ損なう」限りで、<示され>る。そしてそのこと自体を語ろうとした時に、そこでまた「語られ損なう」位置に、すでに累進してしまった《現実界》の亡霊が、示される。(※)
  すると、語られ損ない、つかの間出現するその「亡霊としての現実界」の存在様相は、想像的なもの、と言ってよいか?
 思えばジジェクは ”On Bilief” の頃から、以前の一元的になりがちだった現実界解釈を自己批判し、現実界についても、それが当の3界自体と反照的・再帰的に関わらざるをえない点を強調し始めた。そうして現実界が3界と反照的・再帰的に関わる際の関係様相に関して、想像的な現実界、象徴的な現実界、現実的な現実界を区別するようになった。
 しかし上のボクの解釈だと、その3様相全てにまた、「想像的…」を加えねばならないことになる。
 だがこれは、想像的なるモノにおける累進もある、ということか?
 この展開が間違っているとしても、この着眼は、それとして広がりがありそうだ!

(※) 一時期、思想界を席巻した東ヒロキくんの説では、こうした言及不可能性で指示される何ものかを思考の中心に措くタイプの思考が、否定神学的と批判されていた。けれども、「否定神学的ロジックが否定されねばならない根拠」に関しては(自身の「撒種の正義」に関しても)、考究が不足していて、ほとんど暗黙の前提とされていた。そして昨今の東くんのポストモダン論では、ラノベやギャルゲーの可能性の中心が、否定神学的なメタ論理を用いながら示されている。

 哲学者の永井さんと入不二さんが公開対談をしたようで、その続きを某ブログ村でやっていた。そのやりとりを整理して要約しつつ、派生的に考えたことを書いてみる。

 永井(以下敬称略)は「解釈学・系譜学・考古学」(『転校生とブラックジャック』終章)で歴史的認識を、そのタイトルが示す三つの学的態度に区別した。
 永井の言う「解釈学(的歴史把握)」とは、過去を捉える基準などを問い返すようなことは配慮せずに、事実的なつながりに関心を集中する態度。
 「系譜学」とは、そうであったとは思われていない脈絡を、事実を捉える基準自体の再検討も含め、それこそが深層=真相だと発掘する観点。つまり通常は問われない基準や枠組みの成り立ちまでも批判的に捉え返す、メタの観点からの捉え返し。
 「考古学」とは、系譜学もそれが学=語りゆえに見過ごしてしまわざるをえない、在ったはずの<出来事>を発掘することを求める態度(最近の言葉で言う第0次内包への態度)。永井はその考古学を、青い鳥の物語に喩えて語っていた。青い鳥は、初めから目の前にいたのだけれど、青い鳥を探す旅を経てきたからこそ、目の前にいたことに気付いたのだ、という麗しいお話に。

 しかし、入不二との対談では、その考え自体を自己批判する。
 「系譜学的背後解読(共同体の通念対する左翼的批判)の無限背進化(脱構築)」は、無限背進の中で実効性を失い、結局、保守的態度となってしまうという批判がよくされるけれど、「それと通じる意味合いで、この拙文は、確かにちょっと洒落ているけど、根本的にはたちのよくないところがあると思う」と言う。

 それに対して入不二は、永井がせっかく系譜学と考古学とを「外部」に対する異なる志向として分けたのに、反右翼的という点で区別できないと言い切ってしまうのはまずい、「左翼〔批判的考察の態度〕としてだらしなく、批判として不十分に」なってしまうのでは、と問いかける。

 正に同じになる、と永井は答える。系譜学的批判は際限なく可能なのだから、止まらないだけでなく、考古学もまた、系譜学の「単なる一例」に成ってしまう、つまり左翼の中の左翼=極左となり、だらしなくなって自己崩壊する、と応じる。
 でそれは、思想(世界へのある考え)を哲学化(考え自体の徹底反省)化したことに問題があるのでは、と加える。

 で、入不二は、その反右翼性というのは、左翼の「形式性」に由来するのでは、と言う。入不二の言う左翼の形式性とは、その批判性が、内容それ自体でなく、それを限定する枠組みへ向けられる傾向、と言うことだろう。
 それゆえ、左翼/右翼の対立とは、形式性/内容性の対立であって、左翼的形式化が「いつも取り逃してしまうものとしての「内容」を(幻想的にであれ)担保しようとするのが「右翼」」だと言う。これはちょっと面白い。

 とすると――とイジワルなにゃんこ先生曰く――その入不二の捉え方自体は、形式的で左翼的なわけで、そうした累乗化を求めちゃうのが「哲学化」で、ついに「その左翼性〔批判性〕さえも実は殺してしまう」と捻る。
で、「真の左翼は哲学化への誘惑をどこかで断ち切って、最低限の内容を保持しないと駄目」だと言うのだけど、これはラカンの「行為への移行pas d’act」かな?
そして自分も入不二も哲学病だけど、入不二の方が重篤(末期的?)だそうだ。

 ここで入不二はもう一度、形式/内容問題に踏み込む。
 「形式=左翼が、自己倒壊していくのと裏腹に(?)、内容=右翼の側も、「最低限の内容を保持しないと駄目」という限定的レベルの段階(この段階でこそ、右翼と左翼は内容上の対立でありうるから)、むしろ「何でも内容になりうる」「保持なんてしなくても、内容は消えようがない」みたいな非限定的レベルへと移行していくのではないかと思うのです。「極右」です。」こうして、左の極限的形式化と右の極限的内容主義が、一致してしまう。三島の全共闘への呼びかけなど。

 ここには少し飛躍が感じられるけれど、カント倫理学の形式的極限化における善と悪の同化、という議論との、差異と同一性を考えるヒントかもしれない。
 カント倫理学へのジジェクらの分析は、実質内容の徹底的な捨象が、善悪という内容を無化してしまう、というものだった。しかしカント的には実は悪の方は、その極限形態があるとすれば、病理的実質の純化の極限で、ここで入不二が直感した問題構成の方が適切なアプローチとなるかもしれない。

 入不二はここから、永井的独在論の中に、(「恐ろしいことに!」)この左右問題が含まれていて、形式性が言語ゲームであり、内容性が言語ゲームが必然的に取り逃がす実質」だ、と指摘する。まあ、恐ろしいのは、例が左右問題だったからで、これは事柄の道行きとしては尋常なものだと思うけれどね。

 ここで当初の三つの歴史的態度の問題に入不二は戻る。
 この議論の脈絡からすれば、解釈学は右翼〔保守的日常性〕と言うことになる〔リアリティとしての内容を保持したまま、内容の脈絡を緻密にするばかりだから〕けれど、ならば「極右」とは何か?
 「背後に回れてしまう物語を「物語」としてではなく、盲目的に本気で生きてしまっているはずなのが、「解釈学=右翼」の核にあるはずの「極右」だ」と言う。

 しかし、これは違うでしょう。むしろ、普通の日常的保守性だ。
 左翼≒哲学が、日常性の「下へ」潜り、内容を支える条件を暴き行くのに対し、右翼とは、日常の現実感を育む幻想を鍛える、共同体の凡庸な自己像を崇高化する、モノ自体の位置まで高める、つまり「アバタをエクボ化する態度でしょう。

 ここでの脈絡に即す限りで少し変奏を加えて、一旦、まとめてみます。
 左翼の形式主義は、実は形式的条件の徹底批判の背後に、批判的行為の至高善化=倫理的絶対化という実質的内容を前提している。
 他方、右翼の内容主義は、国家や民族などある幻想的対象の強度を追及し、実際は空虚な幻想対象を崇高化=美的絶対化する。

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図左:原作10巻:上=月、左=ニア、右=メロ 図中:13巻:上=死神、左=月、右=L  図右:西尾版

 DEATHNOTEの主要登場人物Lを主人公とした映画が公開間近ということでか、デスノのアニメ・ディレクターズカット版や実写版がTV放映されたりなど、またデスノの話題が盛り上がってもいるようだ。たまたま西尾維新が書いたデスノの外編ノヴェライズ版、『ANOTHERNOTE――ロサンゼルスBB連続殺人事件』を読んだ。
 本編では端役だったけれど、そのクールなキャラクターで人気だった南空ナオミとLを中心とした物語。この事件は、原作本編で、Lが以前に南空の協力によって解決した事件として、語られていたものだけれど、内容は、西尾による全くオリジナルのものらしい。
 原作の本編後半で重要な悪役として登場するメロを語り手に選ぶところも、西尾らしいけれど、さすが西尾くん。のっけから賢さが前面に出た語り口だし、L(たち)の性格造形も、原作の設定を引き受けつつ的確に肉付けされ、西尾得意の言葉遊びや言語パズルを中心とした道具立てでミステリ風に進む。むろん西尾がただの謎解きを中心とするわけもなく、物語はメタミステリの気配も漂わせて……。何より、原作では主人公の月(ライト)くんのかなり幼稚な倫理観に(特にストーリー結末部に至るにつれ)なんだか引いてしまったけれど、ここでのメロの思考は、はるかにオトナの賢さで安定感がある。
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 で、ちょっとAmazonのレビューも覗いてみたら、百を超えるレビューは西尾というよりさすがデスノ二次創作! だけれど面白いのは、おそらくコアなデスノファンらしき読者たちの酷評の群れ。内容が薄っぺらだとか、軽すぎだとか、逆にまわりくどく読みにくいとか、Lやナオミのキャラが踏みにじられたとか…! Lやナオミの造形は、たしかに原作には描かれていなかったギャグやオチャラケのような面が描かれているけれど、ボクの見なしでは、原作キャラの可能性をむしろ巧く膨らましている、という範囲なのだけどなあ。
 まあ、あれほどの大ヒット作ともなると、原作にほとんどカルト信者的に転移したファンたちも数多くいるのだということを、改めて目の当たりにした感じです。あれはまるで、原作中のキラ信徒たちみたいな入れ込み方で、なるほど、あのキラ=月くんの素朴な「道徳観」は、素朴ゆえに、通俗道徳の幻想に重なり合うリアリティがあるのだろう、と思いました。
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 で、西尾版を読んだ後で原作を考え直すと、原作の、物語展開ではなくその展開を支えていた主人公の倫理的判断の薄っぺらさが、一層、強く感じられました。原作の主人公キラ=月くんの絶対的正義への意志は、その内容としては単に犯罪者を処罰することに終始していたのだけれど、その行為の「善性」は、月くんにとってさえ、実は単に見つからない(犯罪者を処罰・抹殺することの犯罪悪が露呈しない)ことで保たれているにすぎなかった。他者から、処罰者=月くんと同定されない限りで、月くんは自らの行為を「善行」と思っていられたのだけれど、まずLに気づかれ、そこでLを首尾よく葬った後も、次第に追い詰められることによって、その善行の犯罪性への意識が募っていく。つまり超越的な次元からの処罰者という位置から、世俗的な次元での犯罪者という位置に、彼の意識そのものが落ちてゆく。月くんの「正義」は、ポストモダン状況で全ての価値の優劣が相対化された結果、逆に、「勝てば官軍」という価値の無政府的なサヴァイヴァリズムを、直感的に反映したものに過ぎないことが、あからさまに露呈していく。
 せっかく、世俗道徳などを超越して、世俗的には「悪」であっても<彼>の理想においては(世俗道徳を超えた)至高の善へ向かうそうした夢が、幻想でしかないことを露呈しつつ、ポストモダン下でも超越性を欠いたまま維持される世俗道徳感性に飲み込まれ、世俗的悪人の地位に落下してしまっていた。

 う〜ん、なるほど。こう書いてきてみると、至高善の可能性を夢見つつも果たせずに世俗道徳に吸収される、月くんの倫理的センスの陳腐さ、そしてまた、ポストモダンの開放性がシニカルに頽落したサヴァイヴ的現在の実存的煩悶と、それをも再吸収する(大きな他者なき)世俗道徳の凡庸な堅牢さ、そうしたものの戯画的な描出に、原作の機微があるように思えてきました。

 月くんのそうした意識の変化を描く小畑健の画力は、素晴らしい。ミサミサやナオミら女の子の可愛さや色気の描出はかなり疑問符も付くけど(趣味の問題かなあ)、Lがあれほど魅力的なキャラになったのも、小畑の画力によるところ大でしょう。
 書きたかった本題に入りそこなっちゃったけれど、とりあえず、今日はここまで(^^;

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