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哲学00:一般

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哲学的覚書。哲学01以下の項目に特化されないもの。増殖したら、カントやヘーゲル、あるいは言語哲学や感性論などが別書庫に独立する、かも?
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幻想の倫理:続

※「幻想の倫理:正」への続編
  (別のブログサイトでの、正編に付けられたコメントへの応答をリメイク)

>言語が世界を分節しているにしても、言語の前にも分節は起こっているのではないでしょうか?

それはその通りで、そうでなければまだ言語を習得していない幼児が、そもそも「言語音」を聞き分ける事もありえないですよね。
そしてそのことは、言語を習得した後の大人についても、同様。
また、言語と区別された非言語や言語を剰余した経験も(それらも言語の分節の影響を蒙っているとしても)、狭義の言語経験と区別されて経験されるわけですからね。

ただし、「世界」などという包括的な観念などは、言語的一般化がなければ不可能だし、それは「お米」や「これ」などの概念もそうで、また「しかし」や「それで」など言葉によってのみ可能な経験もある。
そしてたとえばよく言われる「虹の色」のように、
ある言語圏では七色に、別の言語圏では6色に、さらに別の言語圏では5色に、というように、言語によって「知覚」の分節も大きく左右される。
ただし、一時期の構造主義的な「言語相対主義」のように、
そうした言語の差異が知覚を「決定」するなどという説は、言語的分節を強調しすぎていた。
自分の国語(日本人の場合のように)が、虹を七色に区分していたとしても、虹を観察すれば、十色にも四色にも色々見分けることができる。

趣味vs言語あるいは、私的な趣味vs時代やジャンル共同体の標準的趣味との関係にも、同じことが言える。
たとえば「美術」についても、はやりのダ・ヴィンチで言えば、
今日の世間常識は『モナリザ』を傑作と見なす。
専門家共同体も同様。ただし、世間常識より精細な分節を与えている。
にも関わらず、世間常識も専門家共同体の規範も、自分の知として内面化しているある人にとってさえ(先の虹の例と同様)、
世間常識にも共同体規範にも抗って(そうした見解を十分に理解しながらもなお)、『モナリザ』を傑作と認めないことも可能ですよね。

そうした私的判断が、他者の判断と葛藤する議論状況で、
しかし先の趣味のアンチノミーが起こる。
趣味は公共的言語を剰余した私的なものだ、ゆえに議論しえない/
趣味は公共的言語で議論されうる。

そしてもちろん、議論し難さにおいて議論されうるのであって、
文化とは、その困難な抗争の残りカスのようなもの。
動物的眼差しから見たら馬鹿げた遊びのようなもの。

だけれども、人間の悦びや幸せとは、そのようにしてしか成立しないのもまた、人間的事実でしょう。
そしてこのことは「芸術」や「趣味」「美的経験」に限らず、悦びや楽しみとは、すべからくそうしたものでしょう。
それゆえに、そもそもそうした悦びのない、単なる「経済」や「政治」や「日常」など、ありえないわけで、
ボクはその意味で、人間とは美的存在=趣味存在だ、と見るのです。

そしてその美的存在は、本文に書いたように言語という檻によって、またその檻があるゆえにそれをはみ出る剰余によって、生まれる。檻に囚われる事で囚われの喜びと脱出の悦びを共にえるという、
こうして人間とは、超越論的(=そうである他にない)マゾヒズムを生きざるをえない存在なのですね。

幻想の倫理:正

1:「世界」という限界
ハイデガーは、
人間は世界を作るが、動物はちょこっとした世界を持つだけ。石ころは世界を持たない。
といった発言をしている(『形而上学の基本概念』)。

(こうした腑分けは、たとえば、ポストモダン人間=動物化という東的観点などにも及んでいる。東自身、このハイデガー的腑分けの人間中心主義に疑義を呈しているが、彼の動物論はどうか?)。

人間は、言語で分節するという能力を得てしまった。
人間だけが「世界を作る」としても、
そうした媒介物(メディア)を介さなくては、「世界」が立ち現れないどころか〈世界〉そのものが存在しない。
人間だけが「世界を作らざるをえなかった」、 と言う方が正確だ。

冒頭のハイデガーの人間中心主義的区分それ自体が、特殊人間的なカテゴリにおいてのみ、見出された「現実」だ。この遡及的な手口の不可避性、それをさらに問い返すことは、同時に新たな隔たりを導入することでもある(これがラカン派なら去勢と言う事態で、去勢はこうして累進する。
言語化しカテゴライズ化せねばならないのは、人間の業であり、人が生きるには自ら作らねばならない檻だった。だから言語とは、「人間」という檻のself-symbolでもあるでしょう。

     2:言語が生む言語の剰余
で「趣味」。
日常的感覚では、趣味は、一方で私的なものと感じられ、他方で公共的なものとされもする。
趣味が、私的なものであるならば、言語という公共的な装置によっては掬いきれない。
にもかかわらず、趣味は、いつでも語られようとする。
その時、
カントが第3批判書を、その問題をコアにしてこそ書き上げた「趣味のアンチノミー」が出来する。
すなわち「趣味は語られうる/趣味は語られえない」

思えば確かに古今の芸術談義や芸術を巡る争論の大多数は、
このアンチノミーの周囲に蝟集している。

言語・カテゴリによる分節と、反省的判断・メタ・カテゴライズによる相対化。
それはしかし、
その言語化において、そこで初めて反照的・遡及的に「言語化されざる残余」として<語られえぬ趣味>を、トラウマティックに生成してしまう。

そしてそれこそが、語る主体各自の、幻想のコアとして残り続け、彼のカテゴリ=世界分節の地平を与える。

      3:幻想の処方箋
言語とは、「動物」が持っている合理を先天的に欠落させている、それゆえに言語によるカテゴリで「世界」などを作らねばならない人間という存在者に、不可避な「檻」だった。
しかし、檻は檻として「同じ」でも、それぞれの格子の中から見られた世界は異質であらざるをえない。

そうして「檻に囚われた鼠」であるしかない人間特有の「豊かさ」もまた、ただそこに、生じてくる。
もちろん、その「豊かさ」とは、言語・人間の檻が、自らに見せる夢にしかすぎない、としても、
その檻を出ることは出来ない(という夢を見続けるしかない)人間の、きわめて作為的(=人間的自然)な逸楽が、そこに、そこでだけ、与えられることになる。

こうして、
互いの幻想の尊重と、幻想による束縛の相対化とを、
同時に進めねば、
人間という檻は住みにくくなるばかり、ということになり、
逆に言えば、
互いの幻想の尊重と、幻想の相乗化において、
檻はより磨き上げられつつ、悦びの糧ともなりうる。

人間存在の超越論的マゾヒズム。

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