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哲学02:精神分析系

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ラカン、あるいはジジェクやその周辺の、精神分析学そのものより、その哲学的展開を巡っての哲学的覚書。
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儀礼的コミュニケーションの日本的特殊性?

 日常のコミュニケーションの大部分は、実は、儀礼的なものだ、ということは、
少し考えれば、なるほどそうだね、と思いいたる場面、多いですね。
 2ちゃんねるのウップン晴らしめいた罵詈雑言の応酬も、携帯のメールやミクシィなどの無内容なコメントの交換も、その多くは、コメントのヤリトリで、仲間であることを相互確認し合う儀礼的機能がコアにあるようだし(だからこそ、悪態でなくとも空気を読まない発言は、場違いな荒らし同様、ウザがられる)、冠婚葬祭の物品や言葉の受け渡しなどは、「交感的言語使用」(ヤコブソン)こそがコアにある。

 というわけで、コミュニケーションとは内実のある意味のヤリトリだ、と信じていすぎるのは社会的には病んだ態度なんだよと、ジジェクはのたまう(西洋でも、儀礼的応答こそが言語活動のコアだというわけですね)。 もちろん、ジジェク自身は、発言の内容に加重する側、つまり社会病質者の方。ただし、その内容に、外箱の面白さ(儀礼性)から引き込もう、という狙いもあって、あのエキセントリックな表現スタイルとなってもいるのでしょう。

 だとしても、日本的なコミュニケーションというのは、特にこの儀礼的な面が重視される、ということもよく言われるし、ジジェク自身、『ラカンはこう読め!』の日本語訳序文に、黒澤明の『羅生門』を枕に、日本人こそこの儀礼性に極端な感受性を持っている、と、お世辞だか皮肉だか分りにくい、それこそ儀礼的な挨拶を寄せている。
 まあ実際、引き出物などに典型的な儀礼的交流では、箱の中身より、箱の受け渡しそれ自体が担う重みが大きいですね。そこでは、中身の空虚以上に、その儀礼に参加したかどうか、こそが問われる。参加しないと社会からはみ出しもの扱いされかねない不安が、空虚な儀礼を反復させて、儀礼と作法が支える日常を維持しちゃう。
 ここで重要なことは、誰もがその内実の空虚さやバカバカしさを分かってはいても、それでもやってしまう、という点にあった。みんな引き出物もらうたびに、中身のツマラナサに文句言ったりしながら悦んでいる(享楽している)のだもの。文句言いながらも、お互いにやり合っている。ということは、「やらない」ことの方が「嫌」だということで、無意識的にであれ、実は「望んでやっている」わけです。
 こうして、王様が裸だということは、子供に言われずともみんな知っているのに、それでも王様はハイファッションであり続けているってことですね。

 この王様を支える存在が、精神分析で言う「大文字の他者」、象徴界≒日常規範の代表者というヤツ。
 もちろんこの「(大文字の)他者」というのは、神様だとか大儀だとか特定の理念に集中していることもあるし、王様や指導者やヒーローに重ねあわされることも多いけど、けれど、そうした実在や表象がなくとも、「そういう者がいる」と信じているから、それに応じて行為しちゃう、という点が、象徴界をわざわざ大他者という点で特徴付けることのキモ、ですね。
 そう信じている誰か(他者)がいるのだから、そうしないわけにはいかない、だから自分は信じていないんだけど、やらなくっちゃ、と信じてみんなやっちゃうから、社会規範が維持される。
 クリスマスプレゼントする親は子を、「サンタを信じている主体」と見なす。もちろん子は親のことを、「子がサンタを信じている」って信じてるんだよねウチの親は、と見なして、サンタを信じているフリをする。そうしてプレゼントをちゃっかりせしめて、「サンタさん、ありがとう!」ととぼける。親は親で、それを喜ぶ。

 でも、そうであるなら、西欧的コミュニケーションはもっと実質的、というわけでもないね。そして日本的儀礼性というのは、どうもこの基本構造のレベルではなくて、より特殊なレベルに特徴がありそうですね。
 そこでは、儀礼的コミュニケーションそのものが、儀礼的に使用される。
 儀礼と作法が累乗化しながら作り出される高階の儀礼性。
 儀礼的なパフォーマティヴそれ自体が、内容になっている、これは日本の伝統美術や文学の構成原理にも見いだされでしょう。

ラカン3界図式、再考

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ジジェクと奥方:怪人と美女、だね! 崇高と美のカップル?

   ★ラカンの3界図式(ISR)再考
 「象徴界」とは、簡単に言えば、言語を中心とした世界把握の枠組み、ということですね。知覚や感情や行為のあり方を方向つける、式とかアルゴリズムといったもの。脳や身体というハードウェアの働きをコントロールするソフトウェア。世界はそれを通して、知覚や認識、感情などの現象として現われる。
 そうした経験の枠組みは、経験にとってはアプリオリ(先にあるもの)だけれども、存在においては先天的なものではなく、後天的(アポステリオリ)に獲得されたもの。その形式獲得のプロセスを、フロイトはエディプス過程としてモデル化し、ラカンはそのエディプス過程を鏡像段階をはじめとした衒学的なモデルで緻密に再モデル化した。
 ここで、現象を式・文法がどのように規定しているかは、決定的なものではなく確率的なものですね。一義的な制約ではなく、ブレの範囲は小さくない。しかも、カントの主観形式を間主観性として改釈した構造論〜物象化論的理解とも異なり、ラカンのモデルでは、その反照的屈折(大他者への与信とその反照による去勢)のダイナミズムが重要となる。
 ともあれ、そうしたダイナミックなプロセスとしての象徴界という式が、現実界という素材に具体化して、世界が現前する。

 では、その現象が「想像界」だ、と言えるか? そのようにしか解釈できない記述も、ラカンには多い。しかしこれもそう言いきる事はできない。斉藤タマキさんあたりは、現実界=ハードウェア、象徴界=ソフトウェア、想像界=モニタなどと例示してるようだけれど、この振り分けは比喩としては荒すぎる。こう言ってしまうと、通俗化されたカント哲学みたいになってしまい(物自体/カテゴリ〜超越論的形式/現象)、精神分析的観点こそが示しうる反省的屈折が、隠れてしまう……
 そもそも、慣用されている「想像界」という訳語が不適切だ。この「3界」は、存在性格が並列的ではない。特にimagenaireは、現象的アスペクトで捉えられることが多く、「界」という限定に馴染みにくい。「界」と限定すると、それぞれ領域的に排他的な印象が強調されがちだ。そもそもこの「3界」は、ボロメオの輪で示されるように、相互に反照的に干渉し合っているのだから。ともあれラカンの適切な訳語は定めにくい。

 ところで象徴界は、それが真実の支えとして機能するときには、それぞれの主体にとって、その式を統括する存在者が(暗黙の内にも)仮想されている。それが、「(真理を)知っているはずの他者」だった。それはしかし、本当に知っている、のでなくともよい。世の中の人々が「知っていると信じている」と想定されれば、それで十分である。だから、知っているはずの他者には、信じているはずの他者、が先行する。
 そして、そうした仮想された他者を信じることによって、象徴界は規範式として実働する。

 この象徴界という式が働いて世界を現象させるには、さらに、それぞれの主体に固有の物語でまとめられねばならない。式・文法をそれぞれの主体の生の形を誘う物語の台本=シナリオ。その物語・シナリオが、個々の主体に特有の「幻想」だった。この象徴界と幻想の関係は、構造的には、音楽の文法とそれを用いて作曲された譜面の関係にも似ている。

 そして「現実界」とは、様々な意味で、象徴界=式=文法で括り切れない剰余であり、想像界=イメージの現象に付随したり内在していても現象そのものからは剰余した何か、だった。だから、前もって実体的に実在する客観的存在ではなく、象徴界の枠付けの剰余として、象徴化の反作用や歪みとしてのみ、到来する。キシミのない現象の中に、キシミとして到来したり、顕現したりする、その限りで語りを剰余した何ものか。
 となると逆に想像界とは、「剰余していないもの(=現前しているもの?)」であり、象徴界にきちんと対応した限りでの具体的現象なのだろうか?
 いや、そうは言い切れないところに、現実界とは異質の想像界の謎めいた面白さがある。

 3界図式それ自体を、綺麗に説明しよう(象徴界に位置づけよう)とすると、ジジェクを含め誰の解釈を読んでも、むろんラカン本人の説明は言うまでもなく、いつも何か過不足を感じる。ラカンという象徴界の不整合が、ラカン学という秘教を導き、その享楽を組織する。かつてのカント学やヘーゲル学、マルクス学やウィトゲンシュタイン学などと同じ、秘教の魔力を、自ずから示している。

 ★イメージという亡霊としてのみ現象する現実界?
 ところで、特にジジェクによって示される現実界は、象徴界との関係に関して、永井さんの哲学で近頃はっきり表に出てきた累進構造と、ホモロジカルなロジックを示している(誰もそんなことを、少なくとも公けでは、言っていないみたいだけど)。
 どういうことか。ラカンの現実界も、永井の言う<私>や<今>や<現実>も、常に、「語られ損なう」限りで、<示され>る。そしてそのこと自体を語ろうとした時に、そこでまた「語られ損なう」位置に、すでに累進してしまった《現実界》の亡霊が、示される。(※)
  すると、語られ損ない、つかの間出現するその「亡霊としての現実界」の存在様相は、想像的なもの、と言ってよいか?
 思えばジジェクは ”On Bilief” の頃から、以前の一元的になりがちだった現実界解釈を自己批判し、現実界についても、それが当の3界自体と反照的・再帰的に関わらざるをえない点を強調し始めた。そうして現実界が3界と反照的・再帰的に関わる際の関係様相に関して、想像的な現実界、象徴的な現実界、現実的な現実界を区別するようになった。
 しかし上のボクの解釈だと、その3様相全てにまた、「想像的…」を加えねばならないことになる。
 だがこれは、想像的なるモノにおける累進もある、ということか?
 この展開が間違っているとしても、この着眼は、それとして広がりがありそうだ!

(※) 一時期、思想界を席巻した東ヒロキくんの説では、こうした言及不可能性で指示される何ものかを思考の中心に措くタイプの思考が、否定神学的と批判されていた。けれども、「否定神学的ロジックが否定されねばならない根拠」に関しては(自身の「撒種の正義」に関しても)、考究が不足していて、ほとんど暗黙の前提とされていた。そして昨今の東くんのポストモダン論では、ラノベやギャルゲーの可能性の中心が、否定神学的なメタ論理を用いながら示されている。

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