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音楽02:クラシック

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しばらくぶりの日記です。
話題は音楽演奏ですけど、主眼は、どんな表現行為にも通じる「技巧誇示」について。
軽い覚書なので、軽く読んでくださいね。

近頃、クラシックでもポップスでもYouTubeなどで自分の演奏を公開している人がたくさんいる。
そうした演奏を聴いて、あるネットフレンドが書いた感想から思ったことです。
彼は、ネットに公開されるアマチュアの演奏が、しばしば速すぎる、と言うのです。
もう少しゆっくり演奏すれば、ずっと良い演奏になるだろうに、と。
そして彼の友達たちも、それに同意のコメントを書いていた。
ボクも、基本的に同意します。良い演奏とは、速い演奏とイコールではない。
それはそうでしょう。
でも、ここには、面白い問題が含まれているように思えるんですね。

表現するという行為には、
純粋に美的な経験の実現に伴う美的快だけでなく、
高度な技術を達成するということの運動感覚次元での快感や、
それを人に魅せ付けるという対他的な欲望も、含まれる。

演奏だけでなく、作曲にも、絵画や彫刻や詩にも、小説論文制作にさえ、
そうしたものが絡みあっている。
しかし、特に音楽演奏やバレーやダンス、フィギュアスケートなど
パフォーマンス表現には、特にそれが伴うでしょうね。

アマチュアの場合、発表会などでも、
こんなにできるんだぞ〜っていう技巧自慢をしたくなりがち、
という傾向は大きいんでしょうね。
だから、ピアノ教室など音楽教室系のアマチュアには、アルゲリッチやポリーニなど絢爛な演奏家が人気になりがちだし、
リストやチャイコフスキーらロマン派系の音楽の人気の高さの一面は、
絢爛豪華な技巧性にあるのも間違いない。

ロマン主義の頃は、知的な作曲家にあってさえ、
過剰な技巧表現が、その過剰さゆえに過剰な感情表現に結びつくはず、
という短絡的な共通感覚に、かなり制約されていたようにも思えます。

それはしかし、一見クールな音楽のモダニズムにまで通じていた、
いや、音楽のモダニズムの陥穽の一つが、
実は、演奏への過度の技巧要求を、楽曲内容の高度さと短絡させてしまうという点もあった。
モダンジャズなどにも、似た面がある。

むろん、技巧追求は、作曲でも演奏でもマイナスだけでなく、
それによってこそ達成されるプラス面もすごくあるのだけど、
アマチュアが技巧に惹かれる、ということには、
やむを得ない面もあるようにも思えます。

ボクも、高速演奏に挑戦したくなるような楽曲、
たとえばバッハのフルート・ソナタ、ハ長調BWV1033などは、
最速のランパルより早く吹いてやる、って
ストップウォッチで競争したことあるし(^^;
速さだけは、ランパルより速く吹けました!
でも、好きなのは、ゆっくり堅牢で神話的なグラーフの演奏ですけど(^o^)

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左図:ハッカー『シランクス』  右上図:ベックリン『牧神の音』 下図:『シランクス』収録推薦CD:文末で紹介♪

春になってきましたね。今年の春のファサードは、このブログのニックネーム「シランクス」を巡って。

★シランクスという名は、ギリシア神話にいる綺麗なニンフ(Nymph:精霊)の名前です。
エッチな牧神パンに迫られて、葦の茂る川辺で葦に変身しちゃうんです。
牧神はその葦を持ち帰って笛にして、フられてしまった失意の曲を吹いたのだそうな。
エロいけれど、けっこう器用でアートセンスも持ち合わせたパンくんですね。

その牧神パンの夢想を、19世紀末の詩人マラルメが『牧神の午後』という詩に結晶させました。
シランクスちゃんを追う話ではないのだけれど、アルカディアの森の木漏れ日の挿す昼下がり、
牧神が官能的な夢を見る。つまりエッチな幻想なんだけれど、緻密で前衛的で超ハイブローな詩です。

★その詩にインスピレーションをえて、マラルメの友人だったドビュッシーが作った
『牧神の午後への前奏曲』という音楽、聴けば誰でもどこかで聴いたおぼえがあるでしょう。
                               
・フルートの妖しく神秘的なメロディーに、木漏れ日のようなハープのアルペジオが絡むと、
一瞬に神話的世界が広がる。
ホルンが角笛の音を遠く響かせ、弦が葉群れを渡る風をそよがせ、
牧神の笛が幻想を深めていくと、それはギリシア神話そのもの響き、と思えるのに、
しかしもちろん、そんな音楽が古代ギリシアにあったわけはない。
それは全宇宙で誰も聴いたことのない、前代未聞の、開闢の音楽でした。

・というわけで、シランクスと牧神の物語の周辺から、文学と音楽のモダンアートは誕生した、とも言えるのですね。
しかし、実はその二つこそがモダンアートの最高峰だった、とも言えそうなのだけど、その話はまた別の時に…。

・ドビュッシーは後に、『シランクス』というこれも神秘的な、前代未聞、風前絶後のフルート独奏曲を作ります。
当初『パンの笛』と題したのだけど、同名の歌曲も作っていたので『シランクス』と名を変えた、小さな傑作。
一本の笛だけで、一瞬にして幻想的で異様に妖しい世界が出現するんだよね。
この雰囲気では死の間際にもう1曲、『フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ』、
室内楽の超傑作を遺してくれました。ドビュッシーの美学が結晶した曲です。
(※この3曲を含んだ推薦CD、本文の末尾で簡単に紹介します)

★画家たちにも、このシランクスの物語はしばしば取り上げられています。
・左の絵は、シランクスの絵の中でもっともチャーミングなもの。
1892年、ちょうどドビュッシーが『牧神の午後への前奏曲』を構想していた頃描かれました。
アーサー・ハッカー(Arthur Hacker,1858-1919) は、あまり知られていないけれど、
ロマン主義から耽美主義、象徴主義へ続くイギリスのラファエル前派の流れにある画家。

・右上は、象徴主義絵画の巨匠のひとり、ベックリン(Arnold Boeklin,1827-1901)の『牧神の音』。
景色が葦の生える水辺ではないので、「牧神とプシュケー」の物語かもしれないけれど、
右上の岩陰で笛を吹く牧神が消えてしまったシランクスを幻想してる、というイメージも重なっているかも。

・この二つの絵はどちらも、形式上は、マラルメの詩やドビュッシーの音楽のような先鋭的なものではないけど(だから、今や古臭い旧来の近代美術史ではマイナー扱いだったけれど)、
内容的には、マラルメやドビュッシー同様、19世紀末〜20世紀初頭の象徴主義的な美意識を反映しています。

・とはいえ、この2枚、ぜんぜん春っぽくないですねえ(^^; どちらの絵も“薄着"なのに…♪
ベックリンはドビュッシーというより、ワグナーやらの後期ロマン主義音楽っぽいテイストだし…。

・ところで、なんでシランクスちゃんハダカなんだろ?
神々の森アルカディアったって美少女がハダカで歩いてたらヤバですよねぇ、って、
神話世界って、おねえさんもおにいさんも、だいたいハダカ・・・・・さすが神々!(ま、理由はあるんですけど)

・シランクス物語の絵は、むろん他の時代にも描かれていて、バロック巨匠の絵などもあるのだけど、
そうしたものとの比較は、別の日記でちょっと小難しく論じてみちゃう予定です。

★『シランクス』『牧神の午後への前奏曲』(フルート&ピアノ版)を含む、お薦めCD2枚。
・中下図は、天才フルーティスト、ゴールウェイのアンソロジー中の「近代フランス曲集」で、
上記3曲(牧神はフルート&ピアノ二重奏版)の他、フォーレのソナタなどが入った2枚組みの超お買い得盤。
・右下図、瀬尾和紀くんのアルバム『シランクス』には、『牧神…』(これも二重奏版)と『シランクス』の他、
これもファンタジックなピエルネのソナタなどが入った幻想的なフランス曲集。
ゴールウェイは最高の技術と磨き上げられた響きで超ゴージャス。でもドビュッシーにはちょっと華麗すぎ。瀬尾くんの端整な演奏の方が、天使的な美しさがある。Amazonのレビューリストマニアでもう少し詳しく書きました。お気に召されたらポチってしてやってください。*^o^* 『牧神…』は高木綾子さんの官能的な演奏も素敵です。

別のブログ村でのこと。トマくんが、楽曲演奏(=上演・再現)において、楽譜の解釈の妥当性がどのように評価されるべきか、といった問題を、オイラが以前に書いた音楽美学や記号論を参照して考察していた。しかしその考察は錯綜し、あげくデリダのエクリチュール問題にまで思いに至り、考察は迷宮に入り込んでいた。
で、以下は、お声も掛けられていたのでお応えしたコメントをリライト。

トマ本文が暗に求めている問題の真の方向wは、二つ。
A:解釈の「妥当性」B:美的価値

Aは、記号論や現象学的な間主観性から解釈学的循環といった問題圏で論点整理できる。
しかし日記本文後半やSさんとのやり取りには、楽曲自体(物自体っぽい)と演奏それぞれにおける美的価値の問題がかかわり、A的問題だけでは片付かないでしょう。

デリダのエクリチュール問題は、関わるって言えば関わるけど、…ちょっと別の方に広がっちゃうなあw まずはその点の解説一言だけ(^o^)

あの論点は、思いっきり砕いて言えば、表現の前に内面はない!って論点なんですね。
表現は、エクリチュール、形式、マニエラ、
内面は、思考や感情、内容、などと置き換えられる。

で、プラトンからハイデッガーまで多くの学は、
真理を、「心に直に現れる=現前する」内容で確認しようとし、
それゆえ「外面的な表現記録」である文字(エクリチュール)より、
思考という「内なる声」と連続した「声による表現」(パロール)に優位を与えた。
しかし、その「思考=内なる声」だって、実は言語形式という「外的な媒体」があるからこそ可能じゃないか!
だから、心の内だって天界の理念だって、言語という人為的形式の効果なのだ。
形式や表現がなければ、内容や内面だって生まれない!
その比喩的表現が「声=パロールに先立つ文字=エクリチュール」ってお話で示されている。

トマ論点につなげば、
楽譜に書かれなけりゃ、バッハの音楽も存在しなかった、
演奏されなけりゃ、ドルフィーのジャズも在りえなかった、などなどとなる。

そこから敷衍すれば(つながるじゃんw書いてみるもんだねw 正に、書かなけりゃ思考も生まれない、を自己言及してる♪)、
フルトヴェングラーのロマン主義的演奏で現われたベートーヴェンの「真髄」とは、前もって在ったものではなく、
フルヴェンの演奏(エクリチュール)によって初めて出現し、
且つ‶それと同時"に、「ベトの真髄」として「‶元々"楽譜に潜んでいた真理」と成った(フルヴェンのエクリチュールによって、‶後から"遡及的にそう成った、にも関わらず:cf.永井『翔太と猫のインサイト』など)。
しかし、トスカニーニの即物主義的演奏(もう一つのエクリチュール)が、ベトの「別の真髄」を創出すると、ベトの真髄が分裂する。
ここで、ベトを巡る「神々の争い」が勃発する。

ここで争われているのは何か?

しかもトスカニーニの「即物主義」は、楽譜に忠実な原典主義のはずだった。にも拘らず、フルヴェンの恣意的な表現の方が、後々「ベトの真髄として(さえ)」優勢となる。
さらにカラヤンの「機能主義的耽美主義(こう書くとケッタイだねw)」が大ヒットしつつも、フルヴェン派からもトスカニーニ派からも「通俗的歪曲」として見下される。
加えて、アーノンクールやブリュッヘンら古楽派の「前衛的原典主義(これまたケッタイだなあw)」のベト解釈が、
トスカニーニの「即物主義的原典主義」以上の原典主義を謳いつつ、他面で珍妙な真髄を見い出し、その潮流が優勢ともなる。

さらに他方、そうした新原典主義がブルックナーやマーラー解釈にまではびこる中、
グールドのバッハのような、「かつての超前衛的解釈」が「前衛的」という印象は今も残したまま、バッハ解釈の本道(しかも後に続くもののいない!)となるようなケースもある。
グールドと言えばもちろん、マニエリスム美学の極致でもあり、分散和音に砕け散る和声など音楽の「撒種」でもあってw(今日はここまでで時間切れw またね♪)

メニューインの「天才崩壊神話」って、どう考えるのがよいのだろう?
基礎訓練の不十分、って必ず言われているけど、年経るに従って巧くなる人や、シゲティのように技巧が落ちてもむしろそれゆえの表現力得る人だっているしね。
シゲティ好きが、精神性を言い過ぎるから、技巧主義の人に精神主義の幻想って批判されるけど、
理論的にきちんと考えれば、「技巧」というのは指の運動能力に還元できない。
晩年のシゲティで言えば、指の精密な運動能力は落ちたけれど、
フレーズの組立や、あの荒れた音色の美的昇華といった「技巧」は、
比類ないものだった、というように考えれば、精神主義に陥らずに、
「別次元の技巧=マニエラ=エクリチュール」というところで語れるし、それが良いことだと思う。

にしても、メニューインには謎が残ります。
★未完

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