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			<title>主の羊クリスチャン教会のブログ</title>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>主の羊クリスチャン教会のブログ</title>
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		<item>
			<title>２０１７．０８．２０　主日メッセージ「神の大きな力　」</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/05/14621705/img_0_m?1503241827&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; style=&quot;width:315px;height:225px;&quot; class=&quot;popup_img_341_255&quot; width=&quot;360&quot; height=&quot;400&quot;/&gt;
&lt;div align=&quot;left&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;神の大きな力　創世記１２章　　&lt;/font&gt;&lt;br&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;創世記１２：４－５　　&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
エンジンのついた船は、川上にも川下へも右左どの方向にも進んで行けます。&lt;br&gt;
しかし、一番進みやすい方向は、川の流れに沿った方向です。&lt;br&gt;
この世の流れは、信仰者にとって逆流のように思えることが多々あります。&lt;br&gt;
この世の流れに必死に流されまいと抵抗しても、人はいつしか力尽きて流されてしまいます。&lt;br&gt;
信仰にとって、必要なのは自分以上に大きな強い力、神さまの働きかけがあることを知ることです。&lt;br&gt;
つまり、霊の目を開けば、この世の流れ以上に神さまの流れの中に私たちは歩んでいることを知る。&lt;br&gt;
そこに、信仰の強さがあります。&lt;br&gt;
神さまの強い力が自分を引っ張って行こうとする方向を知るならば、私たちの歩みは強いものとなります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;創世記１２章はたくさんの出来事がパンパンに詰まっていてます。&lt;br&gt;
まず、アブラハムがまだ「アブラム」と呼ばれていた頃、彼は神の語りかけにすぐに応答しました。&lt;br&gt;
アブラハムはウルという都市で父テラの代よりの生活の基盤をもっていました。&lt;br&gt;
ところが、突如アブラムが神の語りかけに応答して「カナン」に向かったのです。&lt;br&gt;
このことにより、部族としてのイスラエルの歴史が始まります。&lt;br&gt;
私たち一人一人は個性も生活環境も顔も形も違います。&lt;br&gt;
それと同じように、私たちは神から与えられた命にあって、一人一人に自分の生きる意味、使命、役割があります。&lt;br&gt;
神の御計画にあって、その人でなければできないこともあります。&lt;br&gt;
いや、むしろ他の人で代用が効かないことばかりです。&lt;br&gt;
そんな一人ひとりですが、皆さんが神に応答したときから、皆さんの本当の御計画の意味を知る道が開かれたといっていいでしょう。&lt;br&gt;
アブラハムは神の語りかけを受け入れカナンへ向かうところから、信仰の道が開かれました。&lt;br&gt;
マリアは受胎告知を受けたときから、イエスの母としての歩みを始めたのでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;＜苦難＞創世記１２：１０－２０&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
アブラハムが約束の地カナンに入ったとき、決して楽ばかりではなかったことがわかります。&lt;br&gt;
せっかくカナンに入ったのに、数年後にはエジプトへと避難せねばならなくなりました。&lt;br&gt;
エジプトに行けば、エジプトの決まりやしきたりがあります。&lt;br&gt;
アブラハムは妻サラ（サライ）を妹であると偽ったために、余計なトラブルを起こします。&lt;br&gt;
起こったことを後になってとやかく言うのも何ですが、もしかしたら、そんな心配や気遣いは無用だったのかもしれません。&lt;br&gt;
神さまの大いなる力が包んでいることを知るならば、アブラムはトラブルに巻き込まれなくてもよかったのかもしれない。&lt;br&gt;
ただ、大いなる神さまの力が働いていることに無関心であればあるほど、要らぬことを考えたり、打算したりしかしなくなることは確かでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;創世記１２：２０&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;　彼らは彼を、彼の妻と、彼のすべての所有物とともに送り出した。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;結局、パロはアブラハムに対して決して害を与えることなく、彼らを送りだしました。&lt;br&gt;
神の働きかけと守りがあったのでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/05/14621705/img_1_m?1503241827&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; style=&quot;width:339px;height:218px;&quot; class=&quot;popup_img_2544_1696&quot; width=&quot;400&quot; height=&quot;360&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;＜出エジプト＞　マタイ２：１３－１５&lt;br&gt;
これは、主が預言者を通して、「わたしがエジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われた事が成就するためであった。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この預言はホセア１１：１の成就として語られたものです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」（ホセア１１：１）&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イエスさまはイスラエルの歴史をご自身で繰り返しておられます。&lt;br&gt;
先ずはアブラハムが出エジプトをしました。&lt;br&gt;
それはモーセがエジプトからイスラエルの民を引き出す型となりました。&lt;br&gt;
そして、これはイエスが誕生されたときの型にもなったのです。&lt;br&gt;
よく聖書におけるエジプトは、罪の世を象徴しているといわれていますが、罪の世からの引き出されたのであれば、イエスが「エジプトから、わたしの子を呼び出した」と言われるように、私たちもまたこの罪の世から引き出されたのです。&lt;br&gt;
アブラハムが悩んで通った道ですが、それがモーセおよびイスラエルの通る道となり、イエスさまが通ることで預言が成就される道となったのです。&lt;br&gt;
イエスさまが通るとき、私たちはその道の意味を知ります。&lt;br&gt;
また、私たちが通った道が神のものであることを知ります。&lt;br&gt;
アブラハムの失敗や過ち、逸れたことも、歪んだことも、すべてを神さまは用いて神のご計画となさいました。&lt;br&gt;
私のたちの失敗や過ち等々もまた、神は全てを用いて私たちに最善をなしてくださいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;ローマ８：２８&lt;br&gt;
神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/14621705.html</link>
			<pubDate>Sun, 20 Aug 2017 23:57:03 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>２０１７．０６.１８　主日メッセージ「神を知ること」</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;神を知ること　&amp;#8545;コリント１２：１－１２&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;聖書は「光よあれ。」から天地万物をつくり、人類の堕落、十字架の贖い、福音宣教、終末に至るまでの壮大な神のご計画について書かれています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これを神の摂理と言います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;しかし、この神の摂理は、必ずしも御心と一致しているようには思えません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;この神の摂理の中、御心はどれほど痛み、悲しみ、傷を抱えているでしょうか。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;それは御子を十字架にかけることにおいて明らかです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;父なる神は子が殺されることを悲しみました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちは摂理の中に神の御心を知らねばなりません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この神の御心の中で、私たちはそれぞれが主からの使命をえます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;というのも、御心に対する応答が使命を生むことにもなるからです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;預言者たちはみな神の痛みと苦しみを知り、その働きをしました（イザヤ６：８）。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt; さらに、その使命ゆえに、神の導きを受けて、神を知ることになります。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/14/14509114/img_0_m?1497803338&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_400_300&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;160&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;strong&gt;＜神を知る　４つのポイント＞&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神を知ることについて５つのポイントを話します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;１、「知る」とは御霊の啓示によります。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
神の啓示なくして、私たちが「知る」ことはできません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１２：１にあるように、バラダイスがパウロに開かれたことは、「幻と啓示の御霊」でした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは啓示なしには人間には開かれないものであるゆえに、たとえ啓示なき正しい知識がどんなに優れていようと、真に知ることにはなりません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;２、「知る」とは霊の目が開かれるということです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神は霊です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ですから神のなさることは、私たちの肉の目では見ることはできないことばかりです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;もし霊の目が開かれたら、おそらく何千何億という天使たちが私たちと共に礼拝していることが見えるでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、もし私たちがもし全て霊の目が開かれて神の見ているモノを見れるようになったら、私たち人間は「この世に対する神の悲しみと痛み」に耐えられず潰されてしまうでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神さまはやせ馬にムチを打つようなことはなさいません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、時としてやせ馬にムチを打つことをします。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そのとき、キリストの十字架の痛みを皆さんには少し分けてくださったのかもしれません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;本当に親しい友には、人には言えない自分の「悲しみと痛み」を語ります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神さまも「神の悲しみと痛み」をほんの少し私たちに語ったのかもしれません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その「悲しみと痛み」が十字架でのキリストの痛みと悲しみに重なったとき、私たちは「使命」を持ち、語るべき言葉を持つのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;時としてやせ馬にムチを打たれるようなとき、神さまがほんの少しだけ十字架の痛みを私たちに教えてくれているのかもしれないと思って、祈りましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;strong&gt;&amp;nbsp;&lt;/strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/14/14509114/img_1_m?1497803338&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_630_473&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;160&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;３、「知る」とは体験するという意味です。&lt;/div&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;パウロは、神の啓示にあって、霊の目が開かれ、パラダイスを体験したのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;本当の意味で心に落ちなければ、私たちは神さまを知ることはできません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、キリストと出会うことが必要なのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちは生きるなかでキリストを体験する必要があります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;４、「知る」とは関係があるという意味です。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ではどうすれば体験できるかということで、「関係」を持つということになります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神はモーセに「『わたしはある』というものである。」とご自身を表しました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、「わたしはある」というだけでは、私たちとは関係ありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは超越的に存在しているというだけの話です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、私たちが「主よ、私は貧しい者です。」というとき、神さまは「わたしは【富んでいる者】である。」と御自身を啓示してくださいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちが「主よ、助けてください！」と叫ぶとき、神さまは「私は【助け主】である。」とご自身を啓示してくださいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちが自分の足らない部分、ダメな部分、弱さも、失敗も、欠点も、神さまの前に差し出すときに、神さまは「わたしは【救い主】である。」とご自身を臨在させてくださるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「わたしはある」というだけでは、私たちとは関係ないのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ここでもパウロは霊の目が開かれのですが、このことで「肉体に一つのとげをあたえられました。」と言っています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、パウロは神さまから「わたしの力は、弱さの内に完全に現れるから」(9)と言われています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;パウロが「主よ、私は弱いです。」と告白するたびに、神さまは「わたしは【あなたの力】である。」と語り続けたのでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;５、「知る」とは、＜神に知られる＞　という意味です。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;マタイ７：２２－２３&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt; &lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;『主よ、主よ。』と祈っていた。悪霊を追い出した。奇跡をたくさん行った。&lt;br&gt;
しかし、「わたしはあなたがたを全然知らない。」と主は言います。&lt;br&gt;
ここでいう「知らない」とは、関係をいっています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イエスさまは、まるで記憶喪失のように、彼らを知識的に「知らない」といったのではありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「わたしはあなたがたを全然しらない。」とは、「私とあなたは関係ない。」と言っているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、それを反対に言えば、皆さんは神さまと「関係」を持ち、神さまに知られているということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;皆さんは、神さまの知られ、その視線の中で育まれています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;たとえ、神さまが遠く離れているように感じる時があっても、皆さんは神さまに知られています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神さまに知られているものは、御霊が神を教えます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/14/14509114/img_2_m?1497803338&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_295_295&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;160&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;＜神を知るものたち＞&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神を知る者たちは、闘い方が変わります。&lt;br&gt;
ヨルダン川を渡る前のイスラエルの民は３８年の間、荒野をさまよいました。&lt;br&gt;
ところが約束の地においては、イスラエルの民は戦い方がまるで変わります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;モーセにあっては、罪の世としてのエジプトから逃げるために紅海が割られ通りました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;過去からの脱出です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、ヨシュアにあっては、約束の地で住まうためにヨルダン川が割られ通りました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは未来を切り開くものでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヨルダン川を渡ったとき、イスラエルの民は御国をもたらす力強い働きがなされました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たち神を知る者たちは、キリストにあって生き方が違います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;信仰者は、この世での闘い方は違ってくるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/14509114.html</link>
			<pubDate>Mon, 19 Jun 2017 01:22:56 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>２０１７.０６．１１　主日メッセージ　「賛美の中の賛美」</title>
			<description>&lt;div&gt;2017年6月11日　主日礼拝メッセージ　　『賛美の中の賛美』　　雅歌１：１－４&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;『雅歌』はべブル語では「シール・ハッシ―リーム」と呼ばれ、「もろもろの歌の中の唯一の歌」すなわち「最も優れた歌」の意味です。&lt;br&gt;
クレルヴォ―のベルナルドゥスが言うには、この「賛美の中の賛美」の教えは、霊の眼と霊の耳が無ければ理解できないということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
つまり、雅歌は大人の霊的食物です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ミルクではなくパンにおいて養われる必要があります（ヘブル５：１１－１４）。&lt;br&gt;
ただ、このパンはイエスさまに割いていただかねばなりません。&lt;br&gt;
主イエスの他に、だれがこの雅歌のパンを裂くことができるでしょうか（ベルナルドゥス）。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/17/14496617/img_3_m?1497803316&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_1600_1200&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;160&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;なぜなら、この書はソロモンが知恵と経験をもって世を探った末の賛美であるからです。&lt;br&gt;
ソロモンの記した書は、『箴言』『伝道者の書』そして『雅歌』です。&lt;br&gt;
ソロモンは『箴言』において、知恵を語りました。&lt;br&gt;
また『伝道者の書』にて、ソロモンはこの世におけるありとあらゆる出来事を見てきました。&lt;br&gt;
その後に、ソロモンは『雅歌』を歌うのです。&lt;br&gt;
いわば、この『雅歌』はソロモンの知恵（箴言）と経験（伝道者の書）の総合的な成果より、ついに時熟して神に向かって歌われた賛美の中の賛美です。&lt;br&gt;
この書には「神」「主」という言葉は一切使われておらず、その意味で神については全く沈黙しており、人間の男女の愛の賛歌で全編が飾られているように見えます。&lt;br&gt;
律法を打ち出す旧約聖書の中では異例なものが挿入されているかのようです。&lt;br&gt;
そのためにまったく理解できない人も多くいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ソロモンとは「平和をつくりだす者」の意です。&lt;br&gt;
その名のとおり『雅歌』は、平和のしるしである口づけをもって始まっています。&lt;br&gt;
本来、このようなクライマックスは最後にもってきます。&lt;br&gt;
しかし、本来最後であるものが、始まりです。&lt;br&gt;
この書き出しからしてすでに、ある程度の知恵（箴言）と経験（伝道者の書）を通った魂を読者として招待していると言ってもいいかもしれません。&lt;br&gt;
多くを経験し生きた者にとっては、本当に必要なものはわずかです。&lt;br&gt;
若い時はたくさんの人に愛されることを願ったかもしれません。&lt;br&gt;
しかし、歳を重ねると一人でもいい、真実に愛されることの方が尊いと思えます。&lt;br&gt;
『雅歌』においてソロモンは、神を「私の愛する方」（１６）としています。&lt;br&gt;
「私の」とは、ちょっとした独占ともいえます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/17/14496617/img_1_m?1497803316&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_1024_680&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;160&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;＜クレルヴォーのベルナルドゥスの導き＞&lt;br&gt;
ラテン語聖書　雅歌１：１－２&lt;br&gt;
ソロモンの雅歌が、ここに始まります。どうか、あなたの口の口づけをもって、わたしに口づけしてください。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;クレルヴォーのベルナルドゥス（1090年 - 1153年）は、ルターが最も尊敬した修道士で、彼の『雅歌講解』はキリスト教会の霊性に最も大きな影響を与えました。&lt;br&gt;
そこで、彼の導きを少し見てみたいと思います。&lt;br&gt;
ベルナルドゥスは口と口の接吻に至るまでの三段階の口づけを語ります。&lt;br&gt;
『雅歌』は『箴言』と『伝道者の書』を経たのちに来るものだからなのかもしれません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9312;　足元への接吻・・・霊的生活の始め&lt;br&gt;
「霊魂は、厚かましくも、花婿イエスの御口を口づけしようと背伸びしてはいけません。むしろ、わたしとともに、聖なる恐怖にとらわれて、きびしい救い主の足元にひれ伏すのです。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・取税人のように（ルカ１８：１３）&lt;br&gt;
いと高き神の威光と輝きに打たれて、もっと深い闇に包まれないように。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・ベタニヤのマリヤのように（ヨハネ１２：３）&lt;br&gt;
　　マリヤにならって、あなたも地面にひれ伏しなさい。そうしたら、どんな悲惨な者であってももう悲惨なものではなくなります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9313;　御手への接吻&lt;br&gt;
「主の御足に口づけすることから霊的生活を始めたあなたは、いきなり主の御口に口づけするような思いあがりをおかしてはなりません。主の御口に口づけする前の段階として、主の御手に口づけせねばなりません。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;・ぶどうの木のたとえ（ヨハネ１５：５）&lt;br&gt;
　　罪の泥沼から私たちを引き上げてくださるその手に口づけしなさい。私たちをつかんでくださるその御手に口づけしましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;#9314;　御口への口づけ・・・信仰の奥義&lt;br&gt;
「イエスの御口への口づけの中にこそ、神の最高のおおらかさと言語に絶する甘美さの神秘がかくされているのです。」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;もう神さまが直接語ってほしい。口と口をもって語ってほしい。神の言葉を語るにはモーセは口下手すぎる。イザヤは唇が穢れている。パウロは未熟すぎる。もう誰からも聞きたくない。ただ口と口をもって語ってほしい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これがベルナルドゥスの語る「口の口づけ」です。&lt;br&gt;
そして、この究極的な神の接吻がイエスさまご自身であると語ります。&lt;br&gt;
イエスは神であり人です。&lt;br&gt;
唇と唇が触れているとき、相手の唇と自分の唇との境はなくなり、その意味で相手の唇が自分の唇となり、自分の唇が相手の唇となります。&lt;br&gt;
まさに、神が人類に口づけした接吻が、イエスさまご自身であるということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/17/14496617/img_2_m?1497803316&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_400_347&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;160&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;＜奥の間への扉＞&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;雅歌１：４&lt;br&gt;
私を引き寄せてください。私たちはあなたのあとから急いでまいります。王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「私を引き寄せてください」&lt;br&gt;
キリストが天に昇った後、教会もまた天に挙げられます。&lt;br&gt;
「あなたのあとから急いでまいります」&lt;br&gt;
私たちは天がこの地になるようにと祈ります。&lt;br&gt;
それはキリストの足跡をたどることによってです。&lt;br&gt;
それは自分の心（特に痛み）をキリストの心に重ねることによってかもしれません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちは「弱い」から「引き寄せてください」というのかもしれません。&lt;br&gt;
引き寄せられて向かっていくペースもあります。&lt;br&gt;
キリストの香りに引き寄せられて走るとき、この香りをかいだだけで喜びで有頂天になってひた走るとき、大空高く飛ぶことができるでしょう（イザヤ４０：２８－３１）。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;＜神との関係＞&lt;br&gt;
雅歌１：１２－１３&lt;br&gt;
王がうたげの座に着いておられる間、私のナルドはかおりを放ちました。私の愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;１２節では「王はうたげの座」にいます。&lt;br&gt;
私たちから遠い存在で、王は王であり、神は神です。&lt;br&gt;
ところが１３節では、神さまは私たちの「乳房の間」におられます。&lt;br&gt;
神は人と「契約」を結びました。&lt;br&gt;
だから、その「契約」が有効に働き、何か「神の法」のようなものにこの世が支配されているかのごとく世界を見て、独自の世界観や信仰観を作り上げてしまいがちです。&lt;br&gt;
しかし、それは表面の覆いの部分です。&lt;br&gt;
そもそも「契約」とは、本来何か対等なものを持っているもの同士が結ぶ形式的なのもので、対等なものが何一つない「神と人の関係」という意味では、その形式は完全に崩れています。神の為した「契約」というのは、もっと生きた感情のある何かです。&lt;br&gt;
たとえるなら、それは恋愛関係に似ています。&lt;br&gt;
別に籍に入って法律関係が成立したから、家事育児は妻の仕事で、お金を稼ぐのが夫の仕事ではありません。&lt;br&gt;
そこに形式的な「契約」という概念などはありません。&lt;br&gt;
１３節においては、王の面影や神の威光などはありません。&lt;br&gt;
完全な愛の前に、四角ばった礼儀作法は通用しないのです。&lt;br&gt;
ですから、純粋な信仰（恋愛関係）が現れるところでは、教理も神学といったようなムードの無いものは消え失せねばなりません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;追加ですが。&lt;br&gt;
先週はぺンテコステ礼拝でした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;聖霊派はよく、「聖霊のバプテスマ」と「聖霊によるバプテスマ」を分けて考えます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;信仰者は信じるときに聖霊の内住を伴います。&lt;br&gt;
聖霊によらねば「イエスは主」と告白できないからです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これは「聖霊によるバプテスマ」によるものです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、聖霊派は「聖霊のバプテスマ」とは、その聖霊の油に火がつくようなものだと語ったりします。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その真偽は置いておくとして、せっかく聖霊に燃えても、「リバイバルのために何かせねばならない！」&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「神さまのために奉仕をしなければならない！」「伝道しなければならない！」とやっていると、なぜか長続きしません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;まるで聖霊の火が消えたようになります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;しかし、聖霊の火は消える必要がないものです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;おそらく、他のことに燃やそうとするからです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちが聖霊の火を消さないためには、私たちが神を愛することに燃えることをちゃんと理解すればいいのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;イエスさまを心から愛することにおいて、その火は激しくなることはあっても、冷めることはないでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/14496617.html</link>
			<pubDate>Mon, 12 Jun 2017 02:22:05 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>２０１７．０１．０８主日メッセージ　「神の御手の中で」</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
ローマ５章１２－１８節&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;こんな内容の話をしました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;思い出して書き起こしました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/67/14192067/img_0_m?1483897797&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; style=&quot;width:210px;height:186px;&quot; class=&quot;popup_img_384_384&quot; width=&quot;384&quot; height=&quot;384&quot;/&gt;
&lt;div align=&quot;left&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;曹洞宗の道元という人が只管打座ということをするんですね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ひたすら座禅をするという禅宗を日本につくった人なんですが、彼は民衆に非常に受け入れられたんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ひたすら禅をせよ！というんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それにしても　、しかしこんなことを言う人がよく民衆に受け入れられたなあと不思議だったんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ひたすら禅をせよ！というんですが、ところが反対なんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この人はすでに人間は仏性を持っているという前提に立っていて、なぜ人は仏性を持っているのに、わざわざ修行をするんだ？と悩んだのでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;みんなが一生懸命に、座禅しているのを見て、何でこんなことばかりしているんだ？と考えたわけです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;実は、この道元と言う人は、禅（修行）とは生活をするなかでするものだと言ったんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;つまり、現代で言えば、主婦は子育てをすることが禅の中にあり、仕事をしている中にあって禅をしている。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;学生さんは学校へ行くことにあって、座禅している、と教えるんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そのように日常生活において、禅の中にあることにおいて、だれもが仏性が証しされていくと考える。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;かつて先代の牧師が「『ディボーションしていますか？』などとクリスチャンに言うのは失礼だ。」といった言葉を思い出しました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;クリスチャンはすでにディボーションの中にいるというんですね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「祈ってますか？」という事についても同じようなことを言っていました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;クリスチャンというのは、その存在そのものが神への祈りの存在です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、クリスチャンに対して「祈ってますか？」というのは、「あなたは息していますか？」と言うのと同じくらい失礼なことだと。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちが本当にすべきことは、生活の中で、それぞれの職場や家庭の中で、生きる中で日々神さまの訓練を受けているということを私たちが認めない限り、特別な訓練を受けなければならないと勘違いしてしまいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;大切なことは、私たちがディボーションそのものであることを知ること。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちが神への祈りそのものであることを知ること。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;主の弟子となろう！ではなく、すでに主の弟子であることを知ること。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;すでに神の子であることを知ることです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;確かに、生活の中でイエスさまを忘れてしまうことがあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、そんな中にあってイエスさまはともにいてくださったということを知らされていく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちは神の愛のうちにいたんだということを気づいていく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;いつも神に愛されている。大きな愛のうちにいることを知らされていく。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ここの恵みと喜びが常にある。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、どうすればそれが解るか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;どうすれば、神の子であると分かるか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それは結局、神さまに神の子として取り扱われることによって証しされていくということなんだと思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神さまが神の子として扱ってくださるので、だから私たちは神の子なんです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちが神の子らしくするからではなく、神がそう取り扱うので神の子であるということです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;今年一年、新しい年、私たちに対する神さまの取り扱いを知るものとなりましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/14192067.html</link>
			<pubDate>Mon, 09 Jan 2017 02:45:28 +0900</pubDate>
			<category>その他人文科学</category>
		</item>
		<item>
			<title>２０１６．１２．０４主日メッセージ　　Ⅰ列王記８章１０－２１節</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;&lt;strong&gt;＜こういう人に私はなりたい＞　&amp;#8544;列王記８：１０－２１&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ずっと&amp;#8544;列王記を読みすすめていますが、今日は８章に入りました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ソロモンが神殿と宮を完成させて、ついに契約の箱を運び入れる場面です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神さまが語った事として、父ダビデについてソロモンはこんなことを言っています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/70/14119970/img_0_m?1480873892&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_2560_1920&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;150&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&amp;#8544;列王記８：１６&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;「わたしの民イスラエルを、エジプトから連れ出した日からこのかた、わたしはわたしの名を置く宮を建てるために、イスラエルの全部族のうちのどの町をも選ばなかった。わたしはダビデを選び、わたしの民イスラエルの上に立てた。』」&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神さまは、何か強い集団や組織を選んだのではなく、強い部族を選び出したのではなく、たった一人に目を留めました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そして、彼に全イスラエルを任せたのでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ダビデがサムエルを通して油注がれたシーンがどんなであったか、もう皆さんご存知ですね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;権威があったわけではなく、特殊な武術を身につけた兵士でもなく、帝王学を学んだのでもなく、ただの小さな羊飼いでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、この羊飼いは、一匹の羊のためには命をかける羊飼いでした。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;その小さな羊飼いを選んで、神さまは全イスラエルを任せるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;神さまが選ぶのは、人の目による見栄えではありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;この世は「立派な人になるように！」「誇れる人になるように！」と教育します。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;キリスト教会でもそんなことをやりだすので、弟子訓練だ！とかやってしまう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そうやって、いわゆる「高い志（こころざし）」を壁に書いて、「こうなりましょう！」とやる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;むかしは、「１００人礼拝！」とか一年の教会の目標を掲げたりもそうですかね。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、イエスさまが「オレは立派に十字架にかかるような人間になる！」とかやりました？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ダビデも同じです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ダビデは「神殿を建てるぞ！」ってやっていたのではなく、おそらくダビデは思いっきりイスラエルの民と一緒に神殿に向かって賛美をしたかったんだと思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;みんなで安心して礼拝を捧げる場がほしかっただと思います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/70/14119970/img_1_m?1480873892&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_350_233&quot; width=&quot;200&quot; height=&quot;133&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そうしてみると、１７節、１８節に書いてあるそのままです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;１列王記８：１７－１８&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;それで私の父ダビデは、イスラエルの神、主の名のために宮を建てることをいつも心がけていた。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;ところが、主は、私の父ダビデにこう仰せられた。『あなたは、わたしの名のために宮を建てることを心がけていたために、あなたはよくやった。あなたは確かに、そう心がけていた。 &lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず・・・そういう人にわたしはなりたい。」という文章があります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そのときの「そういう人にわたしはなりたい。」と、高い志を壁にかけて「こういう人に私はなりたい！」というのは、全然違います。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;よく「ダビデのようになろう！」とか・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私はフランシスコの霊性を学びに修道院に行っているけど、絶対に「フランシスコのようになろう！」なんて思わないです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だって、フランシスコってのはイエスさまがこの世で受けた肉体の苦痛を自分も受けたいと願った人ですから。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だからハンセン氏病の人にだって接吻して抱きしめることができる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私なんか、痛いの嫌だし絶対に無理です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;でも、私は私に与えられた神からの使命は全うしたいです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「フランシスコのようになろう！」なんかよりも、私にとってそれは神さまからの大切な命令ですから。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;皆さんもそうではないですか？&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;宮沢賢治さんも、「そういう人にわたしはなりたい。」と言ったとき、壁に掲げて「こうなろう！」というのではなかったでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;「雨にも負けず、風にも負けず・・・そういう人」の姿に心を魅かれて、そう語ったのでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;何か立派でも何でもない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;すごい何かでもない。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ただ、一歩一歩、神さまのご用とあらば、「雨にも負けず、風に負けず」って。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;そんなダビデを神さまは選んで、全イスラエルを委ねました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/14119970.html</link>
			<pubDate>Mon, 05 Dec 2016 02:46:58 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>２０１６年２月２４日　水曜礼拝メッセージ　</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;ヘブル１１：１－１０　　パワー　オブ　ビリーフ&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;4&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/94/13422694/img_0_m?1456335379&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_300_161&quot; width=&quot;300&quot; height=&quot;161&quot;/&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;div align=&quot;left&quot;&gt;&lt;strong&gt;&amp;nbsp;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;strong&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;div align=&quot;left&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/font&gt;パウロが見て喜んだもの、パウロがそれゆえに苦難をも乗り越えて、伝道旅行に出たパウロの力の源は、御霊の実であったように思います。&lt;br&gt;
御霊の実とは私たちであり、皆さんでもあります（ローマ１：１１－１３）。&lt;br&gt;
パウロの時を越えた伝道旅行が、パウロの手紙です。&lt;br&gt;
私たちを喜びとし、分かち合うために、これを得るために、パウロは教会を訪れ、訓戒し、指導し、幾多の試練も乗り越え、手紙を書きました。
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;さて、私たちは聖書において偉大な信仰の先輩たちをみます。&lt;br&gt;
アブラハム（偉大な信仰者）、モーセ（偉大な指導者）、エリヤ（偉大な預言者）、パウロ（偉大な伝道者）です。&lt;br&gt;
彼らを＜偉大＞と表現しましたが、偉大というのは本来は適切ではありません。&lt;br&gt;
彼らの弱さは聖書に記されているとおりだからです。&lt;br&gt;
つまり、彼らの偉大さは、彼らのものではありませんでした。&lt;br&gt;
彼らの偉大さを生み出すものは＜信仰＞であったことが、ヘブル１１章には書かれています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;どこぞの伝道集会や聖会のように、「信仰だ！」と言って何か「勇んで何かをせよ！」というのではありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;むしろ、反対なのかもしれません。&lt;br&gt;
なぜなら、＜信仰に立つ＞というのは、私たちの力ではないからです。&lt;br&gt;
この世との戦いになくてはならない力は、大きな組織に立ち向かう強い意志でも勇気でも信念でもないです。&lt;br&gt;
私たちに与えられたのは＜信仰＞です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
信仰とは＜信じて仰ぐ＞と書きます。よい表現だと思います。&lt;br&gt;
ヤフー辞典で調べると「１ 神仏などを信じてあがめること。２ 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと。」とあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;では、&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;ヘブル１１：１－３&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;を読みましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;昔の人々はこの信仰によって称賛されました。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;ヤフーの定義は原因と結果が逆です。&lt;br&gt;
信仰が与えられて初めて、堅い土台を知り、絶対のものと疑わない結果が生まれるのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;信仰という土台の上に「信じる対象」が現れるのです。&lt;br&gt;
つまり信仰をもってはじめて絶対者を知り、「絶対で疑えない」という話になります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
まず信仰が与えられたところから、「神を信じて崇めること」が始まります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちは目に見えないものに焦点を当てる必要があります。&lt;br&gt;
見えないのだから、大切なのは方向です。&lt;br&gt;
福音理解もまさにそれは方向です。&lt;br&gt;
私たちが向く視線でもあります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;それに向けるならば、確かに確信させてくださいます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;なぜならそこに真理があるからです。&lt;br&gt;
真理のないところを見ても、確信なんぞえられません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;逆に、確信されては困るのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;問題はまず方向であって、信仰が強い弱いの問題ではありません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/94/13422694/img_1_m?1456335379&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_275_183&quot; width=&quot;275&quot; height=&quot;183&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;次に信仰の力を語るときに欠かせないものは、聖霊の満たしです。&lt;br&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;使徒行伝１：３－４&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;を読みましょう。&lt;br&gt;
使徒たちは、１０日間待ちました。&lt;br&gt;
聖霊がくださるのを祈りの中で待たされたのです。&lt;br&gt;
私たちが聖霊に満たされている時は強く、聖霊に満たされていないときは弱いです。&lt;br&gt;
だから、聖霊に満たされることが必要です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
でも、気をつけてください。&lt;br&gt;
先日話題になったので思い出したのですが、私が１年ほどおじゃました神学校では、倒れた神学生をまたいで、その屍を乗り越えていかなければ奉仕できない所でした。&lt;br&gt;
それで言われるんです。「聖霊に満たされよ！」と。&lt;br&gt;
もし、そんなので「うおっ！！！」と勢いづいたら、どんどん屍が積み上がります。&lt;br&gt;
そんな伝道集会や聖会ばかりだから、腹が立つんです。&lt;br&gt;
そんなところに、リバイバルなんて起きたら、屍の山でがワンサカできあがります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;だから、方向が大切なのです。&lt;br&gt;
何か自分が大きな者になろうとしている時は、自分の利益を追求するのでどんどん姑息な人間になって行きます。&lt;br&gt;
でも、そういったものを捨てて、小さなイエスさま、自分の命よりも大切なもの、本当に守るべき大切なものを見つけた時、人は強くなります。&lt;br&gt;
母親は子供を守るために命がけで何でもします。&lt;br&gt;
守るべき大切なものの価値をしったら、私たちは弱くても強くても関係なく、勇気があってもなくても関係ない、ただ大切なものを守るために戦います。&lt;br&gt;
その大切なものとは、最も小さい羊です。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;信仰の力とは、聖霊の満たしを求める力でもあります。&lt;br&gt;
信仰がないから求めないのではなく、信仰を用いないから求めないのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/94/13422694/img_2_m?1456335379&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_259_194&quot; width=&quot;259&quot; height=&quot;194&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;これは私の勝手な理解ですが・・・&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;人が試練に直面したとき神の臨在感がポーンと飛んでいってしまい、たちまち恐怖で支配されることがあります。&lt;br&gt;
もし、この信仰が神から与えられたものでなく、自分から出たものであれば神を捨てるでしょう。&lt;br&gt;
それは神が与えた信仰ではないからです。&lt;br&gt;
でも、そんな中でも残っているのが神が与えた信仰なのかもしれないです。&lt;br&gt;
私たちはまったく恐怖に支配されても、ギリギリ信仰だけは残っている。&lt;br&gt;
そして、その残っている信仰だけが私たちを神に向かせる。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
私たちは信仰にあって使徒たちのように聖霊の満たしを求めるのです。&lt;br&gt;
だから、私たちが勝利するコツは、私たちがどんな状況でも、信仰によって聖霊の満たしを求めることです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;ローマ８：３６節&lt;br&gt;
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;私たちが信仰に立つのは、私たちの信仰が強いからではありません。&lt;br&gt;
すでにそえられた土台が堅いからです。&lt;br&gt;
見えないもの（キリスト）にしっかりと視線が定まっているからです。&lt;br&gt;
土台が柔らかいのに、堅く立つことはできません。&lt;br&gt;
だから、方向（福音理解）が大切なんです。&lt;br&gt;
そして、視線を定めたら、聖霊に満たされましょう。&lt;br&gt;
その視線の先に天の御国は開かれます。&lt;br&gt;
聖霊の支配が私たちの内を天の御国とするでしょう。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/13422694.html</link>
			<pubDate>Thu, 25 Feb 2016 02:24:16 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>エペソ人への手紙　１章　～20150211　水曜礼拝メッセージ</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/34/12180434/img_0_m?1423851950&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_620_465&quot; width=&quot;240&quot; height=&quot;180&quot;/&gt;&lt;/div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;『エペソ人への手紙』は獄中書簡といわれていて、パウロがローマの牢獄の中から書き送った手紙だといわれています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;パウロの生涯の終期の手紙であることからも、信仰の深みを見ることができます。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;特にその１章では、私たちの想像を絶する信仰の奥義が記されています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;2&quot;&gt;エペソ１：３&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;2&quot;&gt;私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;私たちが「天にあるすべての霊的祝福」にあって「祝福」された存在であることが書かれています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;私たちはまずここを押さえる必要があります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;霊的な力が失われるのは、この御言葉を受け取っていないからです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;直ちに、そしてただ純粋にこの御言葉を受け入れる必要があります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;2&quot;&gt;エペソ１：４－５&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。&lt;u&gt;神は、みむねとみこころのままに&lt;/u&gt;、私たちをイエス・キリストによって&lt;font style=&quot;background-color:rgb(255, 191, 255);&quot;&gt;&lt;u&gt;ご自分の子にしよう&lt;/u&gt;&lt;/font&gt;と、&lt;u&gt;愛をもってあらかじめ定めておられました&lt;/u&gt;。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;「すべての霊的祝福」にあって「祝福」された存在であることを受け取ったら、次にそれを支える根拠を見なければなりません。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;５節は「みむねとみこころのままに」とあります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;つまり、私たちが「祝福」をうけたのは「御心」であるということです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;「愛をもって」ということは、愛されているということです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;さらに「あらかじめ定められておられた」ということは、&lt;u&gt;自分が「祝福」された存在であることについて、信じられるとか信じられないという前の問題です。&lt;/u&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;そしてこれらのことの目的は、「ご自分の子にしよう」です。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;神の子とするということです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;更に進んで、私が何?!と驚かされたのはエペソ１：６です。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;/font&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;2&quot;&gt;エペソ１：６&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;ここには、神の「恵みの栄光が、ほめたたえられるため」と書かれています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;つまり、これまで語ってきたことは、初めから終わりまで神ご自身の問題としてあったということです。&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;u&gt;&lt;/u&gt;
&lt;div&gt;&lt;u&gt;私たちが自分を「正しい/正しくない」、「立派/ダメ」、「優れている/劣っている」などの問題ではなく、私たちを「選び」「慰め」「救い」へと導いてくださっているのは神さまご自身の問題としてなのです。&lt;/u&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;私たちはこの世にポーンと放り出されて生命を受けたのではなく、初めから神の御腕に包まれてこの世に生まれて来たのです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;この理解を絶対に失ってはなりません。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;私たちが自分の問題として自分の内にあるものを根拠として始めたものは、必ず終わります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;でも、神さまが神の問題としてスタートしたのであれば、それは永遠に廃れることはありません。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;この土台の上に私たちの存在価値は築かれているのです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;自分だけでなく、自分たちだけではなく、兄弟姉妹とキリストが愛する人々の存在の基盤がここにあります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;2&quot;&gt;エペソ１章はかくも奥深い真理の啓示から始まっているのです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/12180434.html</link>
			<pubDate>Thu, 12 Feb 2015 11:01:58 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>Ｑ11　宗教は人間の生き方を教える意味では、有益だと思いますが、わざわざ「神」とか「仏」とか持ちださなくてもいいのではないですか。</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;3&quot;&gt;Ｑ11　宗教は人間の生き方を教える意味では、有益だと思いますが、わざわざ「神」とか「仏」とか持ちださなくてもいいのではないですか。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/50/11476050/img_0?1408214390&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; style=&quot;WIDTH:131px;HEIGHT:178px;&quot; class=&quot;popup_img_113_170&quot; width=&quot;113&quot; height=&quot;170&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　仏教の「慈悲」やキリスト教の「隣人愛」は、仏教やキリスト教を信じない人にも広く受け入れられ、よい道徳とされています。それでは道徳だけあれば、信仰はいらないのかというと、それは花だけあれば根っこはいらないというのと同じです。仏教もキリスト教も、人間というものを深く見つめた上で古来より信仰されてきたものです。今日の学校教育、特に公立学校での教育は、道徳を宗教から切り離し、「人権を尊重する」とか「他人のことを思いやる」といったことを子どもたちに守らせようとします。それがどれほど上すべりし、子どもたちの心に届いていないかということを考えてみて下さい。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　キリスト教はたしかに「汝の隣人を愛せ」と教えます。それは神から命じられた律法です。「道徳」と言ってよいかもしれません。しかし同時にキリスト教は、この律法を守れない人間の罪についても教えるのです。子どもたちがいじめをするのは、まだ道徳というものが根付いていない子どもだから、ではありません。大人の社会にもいじめはあります。大人ですから、露骨に「いじめ」と見られないように、上手にカモフラージュしているだけです。そんな大人が子どもたちに対して、「いじめはよくない」と言っても、子どもたちは大人が自分自身できないことを子どもたちに押しつけていると見抜き、聞き流すことでしょう。宗教は、道徳を守れない人間の罪、弱さをみつめるところから出発します。仏教はこの弱さを「煩悩」とよび、キリスト教は「罪」とよびます。人間はそもそも「いじめ」というものをしてしまう存在なのだ、という認識から出発するのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　とくにキリスト教は、この「罪」を人間は自分の努力によってはどうにもできないのだ、「罪」から離れようとしても離れられないのだと考えます。クラスメートをいじめるのはもうよそうと思っても、目の前にその子がいるとイライラしていじめたくなります。悪口を言うのはよそうと思っても、ストレスがたまって吐き出したくなります。そのイライラやストレスを理解しないで、「みんな仲良く」と「きれいごと」を振りかざす大人に憎しみすら感じます。宗教はきれいごとではありません。宗教から切り離された道徳はきれいごとですが、宗教は人間がけっしてきれいではないこと、それどころか罪にまみれた汚い存在であることをみつめているのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　「愛すること」は人間には不可能なことだとキリスト教は考えます。こう言われてしまうと、言いすぎなんじゃないか、と多くの人は反論するでしょう。「ウザイ奴」はいるけれど、好きな友達はいるし、彼氏彼女のことは大好きだし、両親のこともまあまあ好きだし、と。それでも私たちの「愛」は不安定で、仲の良かった友達が突然「ウザく」なったり、愛を拒絶されてストーカーになったり、ということも珍しくありません。愛する気持ちが強ければ、拒絶された時に、愛が憎しみに変わることもあります。キリスト教は、「愛」は神から出たもので、人間の中にはないものだと説きます。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/50/11476050/img_1?1408214390&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; style=&quot;WIDTH:159px;HEIGHT:195px;&quot; class=&quot;popup_img_113_170&quot; width=&quot;113&quot; height=&quot;170&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt; 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。 愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。 （ヨハネの手紙一　第4章7-8節 ）&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; 「互いに愛し合いましょう」というところだけを切り取ると、道徳になってしまうのですが、「愛は神から出るもの」ですから、神が私たちの中におられるのでなければ、私たちはお互いに愛し合うこともできないのです。自然のままの私たちには、どうしても愛せない人がいます。嘘つきであったり、人の悪口ばかり言っていたり、自慢ばかりしていたりして、どうにも好きになれない人がいます。でも神さまの目に、私自身はどう映っているのでしょうか。神さまから見ても、私はけっこういい奴なんじゃないか、ぜひ友達になりたい奴なんじゃないか、と思うでしょうか。そういう人もいるかもしれませんが、多くの人は、そう思わないでしょう。もしあなたが自己嫌悪を感じる時があるならば、「どうにも好きになれない自分」に気づいているでしょう。神さまはそんな「どうにも好きになれない」私を愛して下さいました。この事実をみつめ、この神さまが私の中に住まわれることによって、「互いに愛し合う」ことが可能になるとクリスチャンは信じ、希望を持つのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; 仏教もキリスト教も、ある意味で「自分」を殺すことを道徳の実践に不可欠な条件と考えます。仏教の「解脱」は、生きながら自分を殺すことだと言えるでしょう。聖書の「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」（マタイによる福音書10章39節）という言葉は、「自分」を放棄して神に明け渡すことを説いています。「自分を殺すこと」まで道徳は求めていません。「自分」を殺さないでも愛し合うことは可能だと考える人にとっては、宗教は「極端」だと感じられるかもしれません。どちらが正しいかは、それぞれの人が、自分自身の人生を生きる中で答えを見出していくべき、大きな大きな問いでしょう。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/11476050.html</link>
			<pubDate>Sun, 17 Aug 2014 03:39:16 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>Ｑ１０　神が存在するかどうかなんてわからないのだから、考えたってムダなのではありませんか。</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;3&quot;&gt;Ｑ１０　神が存在するかどうかなんてわからないのだから、考えたってムダなのではありませんか。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/68/11433168/img_0?1407287588&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_238_296&quot; width=&quot;238&quot; height=&quot;296&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　クリスチャンは「神が存在するかどうかわからない」とは思いません。「考えたってムダ」だとも思いません。聖書には次のような有名な聖句があります。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」（マタイの福音書７章）&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　神さまは目の前に机がある、というような仕方で私たちにその存在を明かされるのではありません。神さまは「愛」と同じように、目に見えないからです。「私は恋人に愛されている」と確信するとき、私たちの眼に見えるのは、「愛」ではなく、彼（彼女）の微笑みだけです。いえ、「微笑み」も見ることはできません。私たちが見ることができるのは、口角が上がり、頬の筋肉が上方に収縮しているという現象だけです。その現象を私たちは「微笑み」と呼び、現象の背後に「愛」を感じます。あとから色々な事実と考え合わせる時、私たちはこの微笑みを「作り笑いだ」とか「何か魂胆があったんだ」と判断して、「愛」なんかなかったんだと考え直すこともあります。恋人が自分を愛してくれているかどうか、「考えたってムダ」だから考えないという人はほとんどいないでしょう。「私を愛していると言いながら、なぜ私に暴力を振るうの？」「オレを愛していながら、どうして他の男と付き合えるんだ？」と問うのは、目の前の現象と他の色々な事実を総合し、関連づけ、恋人の行動を説明しようとし、恋人の気持ちを推し量ろうとしているのです。生きるということは、そのように目に見えるものの背後に目に見えないものの存在を感じ、その存在を信じることなしには成り立ちません。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　科学も例外ではありません。科学が目に見える世界を対象とし、宗教が目に見えない世界を対象としているというのはちがいます。たとえば「物質」は目に見えるから、物質が存在することは明らかだと私たちは考えます。しかし「紫外線」も「赤外線」も私たちの眼には見えません。「重力」も「磁力」も私たちの眼には見えません。私たちはリンゴが木から落ちるのを見ることはできますが、「重力」を見ることはできません。しかし「重力」の存在を仮定すると、リンゴが木から落ちるという現象を説明することができます。同時に潮の満ち引きも、地球が太陽の周りを回ることも説明できます。目には見えないけれど、同時に複数の現象を説明できる仮説として、私たちは「重力」というものは存在すると考えているのです。新約聖書の中でパウロは次のように言っています。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。&lt;br&gt;
（ヘブル人への手紙11章1&amp;#12316;3節）&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　見えるもの（頬の筋肉の収縮）は見えないもの（愛）からできたのであることを私たちは日常的にも前提しています。同じように、クリスチャンはこの世のさまざまな出来事の背後に神さまのご意志を確信するのです。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;いちばん最初に引用したマタイによる福音書によれば、神さまを捜すものは神さまを見出すであろうと言っています。大きな苦しみに遭った時、「神さま、どこにおられるのですか」「なぜこんな目に遭わせるのですか」と嘆き叫ぶことは、苦難の意味を問い、神さまを捜し求める叫びです。イエス＝キリストでさえ、十字架の苦しみの中で、「わが神、わが神、なぜ私を見捨て給うたのですか」と叫ばれました。私たちは善であり愛である神の存在を希求します。悪であり憎しみである神がこの宇宙を支配していることを望みません。善であり愛である神の存在を希求し、苦難に遭った時、「深い淵の底から」神さまを呼び求めた時、神さまはダビデに応答して下さいました（詩篇130章）。信仰とは「待ち望む」ことです。一方、大きな苦しみに遭った時、「神も仏もいない。正直者は馬鹿を見るだけだから、自分のことだけ考えて利口に立ち回ろう」と考えるならば、神を見出すことはないでしょう。「オレは有能だから、神なんかいてもいなくてもうまくやれるし、幸せに暮らしていけるさ」と考える人も神を見出すことはないでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; マタイによる福音書では「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」とあります。「だれであれ」というのは、善人だろうと悪人だろうと、有能だろうと無能だろうと、若かろうと老人だろうと、ということです。「求める」というのは、寝そべりながら、「お菓子をもっとちょうだい」と手だけ突き出すようなことではありません。「当たるといいな」と思いながら抽選でクジを引くようなことでもありません。「ちょうだいって言ったのに、どうしてくれないんだよ！神さまなんてもう信じるもんか！」とスネるようなことでもありません。神を呼び求めた人の叫びを聖書の中から拾ってみましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。&lt;br&gt;
主よ、この声を聞き取ってください。&lt;br&gt;
嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら&lt;br&gt;
主よ、誰が耐ええましょう。&lt;br&gt;
しかし、赦しはあなたのもとにあり&lt;br&gt;
人はあなたを畏れ敬うのです&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;わたしは主に望みをおき&lt;br&gt;
わたしの魂は望みをおき&lt;br&gt;
御言葉を待ち望みます。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;わたしの魂は主を待ち望みます&lt;br&gt;
見張りが朝を待つにもまして&lt;br&gt;
見張りが朝を待つにもまして。&lt;br&gt;
（詩篇130篇1－6節）&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;　確かに私たちの願いは、そのまま聞き届けられるわけではありません。試験に合格しますように、好きな人と結婚できますように、子供が授かりますように、病気が治りますように、という私たちのささやかな願いさえも、願ったからといって叶うわけではないということを多くの人は経験します。それでも真剣に祈るならば、神さまは必ず私たちに応答して下さいます。私たちの願いが斥けられた時、なおも祈り、「神さま、どうしてですか」と問つづけ、待ち望むならば、かならず神さまを見出すでしょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; 星野富弘さんは中学校の体育教師でしたが、クラブ活動の指導中、頸椎を損傷し、手足の自由を失いました。「神さま、どうしてですか」という問いを何度も叫ばれたことでしょう。「深い淵の底から」主を呼び求めた時、星野さんは神さまに出会ったのにちがいありません。そして神さまの愛を伝える美しい詩と絵を描きました。私もまた、願う道が閉ざされた経験を持つ者ですが、それでも祈り求めるうちに神さまに触れられたと確信する者です。人生の幸不幸が「偶然」に左右されるものであるとあきらめたり、自分の才覚によって幸せをつかめると考えたり、楽しくやれればそれでいいやと思うか、善であり愛であられる神さまが応答して下さらなければ、人生に意味はないと考えるか。神さまに出会うか出会わないかの分岐点はそこなのかもしれません。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/11433168.html</link>
			<pubDate>Wed, 06 Aug 2014 10:13:08 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
		</item>
		<item>
			<title>Ｑ９　神さまがいるなら、なぜ不正義や悪を黙って見過ごしているのですか。</title>
			<description>&lt;div&gt;&lt;strong&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot; size=&quot;4&quot;&gt;Ｑ９　神さまがいるなら、なぜ不正義や悪を黙って見過ごしているのですか。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/33/11418233/img_0?1407013581&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_170_117&quot; width=&quot;170&quot; height=&quot;117&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;　神さまは、不正義や悪をよしとされているわけではありません。それどころか私やあなた以上に、不正義と悪に憤り、踏みにじられる人々のことで、張り裂けんばかりに心を痛めておられます。それならばなぜ神さまは悪人を懲らしめ、この世の不正義を正そうとされないのでしょうか。それは神さまが人間の「行い」よりも人間の「心」に関心を寄せているからです。悪いことをすればすぐに罰が下るとすれば、人間は悪いことをしなくなるでしょう。飲酒運転をすれば罰金を取られた上に免停になり、盗みをすれば逮捕され監禁されるのがわかっているから、飲酒運転や盗みをする人は少ないです。犬でさえ、お仕置きされれば行儀よくなります。人間の中にはそれでも「見つからなければいいや」とか「見つからないようにうまくやろう」と考えて、悪事を働く人がいますが、全能の神が見ているのならば、そういう人も悪いことはしなくなるでしょう。世の中は平和になるにちがいありません。悪人は、「神さまさえいなければ自分のやりたい放題ができるのに」と不満に思いながらも、悪をなさず正しいことをするでしょう。それは一種の強力な警察国家です。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　ＣＩＡ以上の調査力を持ち、悪事に対しては即座に罰を下す厳正な裁判官、逃亡をゆるさない強い警察官のような神さまのもとでは、人間は「正しいこと」をするロボットです。戦争も虐げもいじめもなくなるかもしれませんが、それは私たちが互いを大切に思い、愛するようになるからではありません。自分が神の怒りに触れて、罰を下されたくないからです。皆が心に利己的な思いを抱えたまま、お互いを思い合う愛情などひとかけらもないままに、「平和な世の中」「正義の社会」が出来上がります。「天の御国」とはそのような世界でしょうか。神さまがそのような世界と人間のありようを求めているのではないことは、聖書を読めばすぐにわかります。神さまは常に人間の心を問題にされます。神さまが人間に求められた第一のこと、一番重要だと考えられたことは、何でしょうか。「悪いことをしないこと」「正義を行うこと」ではありません。聖書をみてみましょう。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;strong&gt;&amp;nbsp; そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』&lt;br&gt;
（マタイによる福音書22:35～39）&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;font color=&quot;#000000&quot;&gt;&lt;strong&gt;
&lt;div align=&quot;center&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-2b-bc/syunohituji/folder/264715/33/11418233/img_1?1407013581&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_170_114&quot; width=&quot;170&quot; height=&quot;114&quot;/&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;/div&gt;
&lt;/strong&gt;&lt;/font&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp; 神さまが第一に求められたのは、「愛すること」だったのです。イエスさまと敵対したパリサイ人や律法学者たちは、「正しいこと」をする人たちでしたが、その心には隣人に対する愛がなく、正義をなす動機は、「他人にどう思われるか」ということでした。イエスさまはこの人たちを「偽善者」「白く塗られた墓」「まむしの子ら」と呼びました。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;br&gt;
　私たちが互いを大切に思い、愛するならば、自然と正義や善が行われるでしょう。人間は神さまのロボットでも操り人形でもありません。神さまの罰を受けることを恐れる恐怖から正しいことをするだけの奴隷でもありません。それでは、私たちは神さまにとってどんな存在なのでしょうか。驚かれるかもしれませんが、神さまの子供なのです（ローマの信徒への手紙８章14－15節）。　だからクリスチャンは「第一子」であられるイエスさまに倣って、「天の父なる神さま」とお呼びします。しかも愛情深い父であられる神さまは、私たちが「面倒を起こさなければいい」「世間に迷惑をかけなければそれでいい」とはお考えになりません。どんなに面倒を起こし、悪いことばかりしても、神さまは見放しません。そのかわり「問題を起こさない良い子」の冷たい心もよしとはされません。神さまは私たちが父である神さまを愛し、兄弟である隣人を愛することを心の底から願っておられるのです。だからあえて強大な権力でこの世に介入し、悪を懲らしめ、不正義を正すことを差し控えていらっしゃるのです。この父のみこころについて、あなたと一緒に考えてみたいと思います。&lt;br&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/syunohituji/11418233.html</link>
			<pubDate>Sun, 03 Aug 2014 06:06:21 +0900</pubDate>
			<category>神奈川県</category>
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