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https://blogs.yahoo.co.jp/IMG/ybi/1/06/53/banecyun/folder/747013/img_747013_27168783_0?20101115155219


↑Soul Mate 君がいるから ♪ 久保田利伸


  愛は聖なるもであり、 神から来たるものであるけれども、 それには色々の段階があり、 その夾雑物(きょうざつぶつ)の 程度にしたがって其の 神聖性も異なって来るのである。 互いに平等の発達程度の 人同士が愛する ”愛”には兄弟の愛があり、 或いは男女間では恋愛があり、 抽象的な愛には人類愛 というようなものがある。 ところが母と子との間に 生ずる愛というものは、 殆ど無力の幼い子供と、 幼い子供から見たならば 殆ど全能とも思われる大人との 間に起こる愛である。 幼い子供はあらゆる方面に 母親から護られ助けられ養われる ことを要するのであるから、 自然、母親に倚(よ)り すがろうとするのであり、 母親は、 その全面的な倚りすがりを 面倒だとは思わずに、 却って可愛く感じて、 自分の肉体や健康の ことなどは考えないで、 無条件に、 その子供を護り育て ようとするのである。 それが無条件である点に於いて、 それは夾雑物がないがゆえに 最も神聖なる光を 帯びているのである。 女性の本能は母親となることを悦ぶ、 そして新たに生まれた子供の側に いるだけで楽しいのである。 母の愛は無条件に愛する愛である。 何物も彼女は子供から 求めないようだけれども、 子供の幸福と健康とだけは求める。 それは与えてやまない純粋の 愛であるけれども、 それは本能的であって 他の動物の母親に於いても 見られる愛である。 それは自己愛の変形だと 観られないこともない。 何故なら母親はその子供が 自分の腹の中から出たものであり、 自分の延長で あるという自覚があり、 その赤ん坊を愛するのは 自分自身の延長を愛するのと 似たところがあるのである。  







愛はかくして完成す 谷口 雅春著

転載元転載元: climb a door 幸せは, まず家庭から。記事は本を引用

何を第一にするか

http://www.youtube.com/v/Rq2giB9Jyr4?fs=11&autoplay=1&loop=1
↑藤澤ノリマサ「君に逢いたい」





  人はある一定の時間に、 同時に2つのことは 出来ないとされている。 ただし簡単なことなら出来る。 例えば 食事をしながら、 テレビをみるとか、 字を書きながら 音楽を聞くなど。 これは時間が 一次元の尺度だから、 難しい仕事は、 ある時間には1つに 限られてしまうのだ。 これでは 『人間は無限力だ』 と言えないというかも知れないが、 この場合の『無限力』は 実在界の話である。 つまり 『神の子・人間』のことで、 肉体人間のことではない。 肉体は三次元的物質だから、 どうしても ある程度の制約を受ける。 その代表的な制約が 『生と死』の限定である。 それに伴なう、 各種の限界もあるが、 それは現象という 仮の世界の話である。 ところで平成6年8月3日の 『読売新聞』の ”編集手帳”に次のような 記事が載ったことがあった。 『飢えた少女が伏している 背後に、その死を 待つハゲワシ・・・。 スーダンの飢餓を伝えた 衝撃的な写真を 最初に掲載したのは、 去年3月の ニューヨーク・タイムズ紙だ ◆「その後、少女はどうしたのか」と 読者の反響は大きかった。 「まず助けるべきだった」と 撮影したフリーカメラマン、 ケビン・カーター氏は(南ア) を非難する声も相次いだという ◆同紙の取材に、 カーター氏は答えている。 撮影後、ハゲワシを追い払った。 立ち上がった少女は 食料配給センターの 方へ歩いていった。 残った氏はそばの 木の下に長い間、 座り込み、 たばこを吸い、 泣き続けた・・・ ◆カーター氏がなぜ自殺した のかは分からない。 ヨハネスブルグで 行われたその葬儀で、 東京・第6日暮里小学校の 6年生約20人から 届いた作文(英訳)が 紹介されたそうだ ◆あの写真を見ての感想文だ。 「悲しい事、つらい事も、 写真を思い出して乗り越えたい」 「給食も好き嫌いなく食べようと思う」 などと、素直な表現が 参列者に感動を与えたと 共同電は伝えている ◆報道カメラマンの使命を思う。 きょうもルワンダで、 ソマリアで、 ボスニアで、 多くのカメラマンたちが カーター氏と同じように 悩みながら シャッターを押して、 あるいはまた泣いて いるかもしれない』 カーター氏も自殺は、 この『ハゲワシ事件』が 直接関係しているか どうか分からない。 しかし彼がこの少女を まず写真に撮ったことが、 彼のピュリツァー賞にもつながり、 同時に『どうしてすぐに 少女を助けなかったのか』 という非難をも巻き起こした ことを思えば、カーター氏が この事件で悩んだことは 間違いない。 彼はこの時、 同時に『少女を救うこと』と 『写真に撮ること』を やりたかったのだろう。 しかし現実には、 継続して 『一次元の時間』に やるほかなかったのだ。 そうでもなく もし逆の順序にして、 『少女を救った』 のが先だったら、 『この写真』は 撮れなかったからである。 さらにもし彼が 『ハゲワシを追い払って、 少女は食料センターの 方へ歩いていった』と 言うのが嘘だった場合は、 彼の苦悩ははるかに大きな ものだったに違いない。  

谷口 清超 著




門がない

http://www.youtube-nocookie.com/v/c9VVz1Cg7HA&hl=jaI&autoplay=1&loop=1
↑モーツァルト:クラリネット五重奏曲 第2楽章 k581











  ここに書かれている ”人間智”とは、 三次元空間や四次元空間に 限定された知識のことで、 それを超えた無限次元 ・無次限の神の智慧を現し 出せという教えである。 この智慧こそが 『大道』であり、 この大道は行き詰まることがない。 自我を放棄するから、 『門をくぐる』 という門がないのである。 息子を大学の門を くぐらせたいとか、 病院の門をくぐっては いけないとかいう ”門”がない。 即ち『無門』なのだ。 そのような心になると、 行き詰まる道ではなく 『大道無門』である。 現象界ではどこかの 道が詰まっていたり、 尿道や胆管が詰まって いたりするのが、 いつの間にか 詰まらなくなっている。 入学試験で、 是非OO大学に入りたい という道も門も、 いつしか消え去って、 自由自在となるのである。  


手段に引っかかる

http://www.youtube.com/v/ItJeBi9Q424?fs=1&autoplay=1&loop=1
↑真実の詩 do as infinity




  とかく人の心は何かの1点、 又は1ヶ所に引っかかると、 全体を見渡す 事が出来なくなり、 判断を誤ったり、 対立関係を深刻なものにする。 北朝鮮では金正日 (キム・ジョンイル)氏が 一切の軍事工作を命令している という話があるが、 彼自身も目先の利害に 囚われていると、 ”人道”という大道を踏み外し、 悪業を積み重ね、 悲劇的人生を終わることに なるのであるから、 もっと目を『神』『仏』の 方に振り向けな無いと、 ”バベルの塔は崩れたり” という結果になるだろう。 共産主義的唯物論では、 神を否定し、 『目的のためには 手段を選ばない』 というやり方をやるが、 『手段』は極めて大切である。 最初に上げた 『空き缶入れ』 にビニール・コップを 差し込んだ件でも、 飲みつくしたビニール・コップを 捨てるという目的が 間違って居るのではない。 誰でもそうするだろうが、 入らない大きさの孔(あな)に コップを突っ込んで、 後の人達に迷惑を与えるという ”効果”を見落とし、 自分の都合のよい 『手段』だけを 実行うしたからいけなかったのだ。 これは『目的』の 問題ではなく『手段』の 間違いである。 どの国の政治家でも、 自国民を豊かにして 飢えさせないという 『目的』は正しく、 それを実行するためにとる 『手段』が問題なのだ。 そこに陰謀や偽りや、 脅しや、憎しみや、 インチキが混乱してくると、 永久に正しい目的は達成されず、 かえって争いや不調和が 高ずるばかりである。  





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