|
智恵を磨くべき今年(平成08=開智稔の実蘇華)の最後に、最後の晩餐の暗号と聖書がばっちり繋がったことは、閃きの秀思學の不思議と緊張感を覚えます。
この絵と聖書の結論を先に述べます。
魂の収穫の晩秋に魂のアセンションの火の洗礼(十字架刑)が起こされるが、その時、救いの真理を表すもの(イエス=聖書の奥義)が現れる。しかし、今日までの教会の教えに反目するので、人々はこれを認めない、か、つぶしにかかるであろう。
つまり、現今の教会の聖書解釈を読み変えらせなければ、ハルマゲドンを乗り越えられない、と予言されているのです。
この根拠は、天国の鍵を預かったと聖句にあるペテロ(初代教皇=教会のシンボル)が右手と左手で二つの鍵を持っていることです。
これは合う鍵の迷いを表しており、弗の二本矢で、合理主義で宗教を疎かにしている「イエスは、私は渇く=ドライ、と言った」、に通じています。
左手の鍵は腕に引き金が隠れており、イエスに標準を合せた鉄砲に見えます。
そして、ペテロは険しい顔をしています。
画面全体は髑髏を表しており、基底部の中心には十字架に賭けられたイエスがありますから、髑髏の丘の十字架刑の未来図であると読めます、そして、画面左側が救いと救われで、右側は無神向者と刑罰、とに中心線で二分されています。
ペテロ(教会)は右側ですから、反神者としてあるのです。
ペテロのすぐ隣にパウロがおり、同類の反神者である、で、イエスが蘇えったことにビックリしている、ということは、聖書を本当には信じていなかったということです。
イエスは生前ペテロにこういっています。「あなたは、はじめは自分で腰紐を結んでいるが、やがて、他の人々があなたの腰紐を結ぶようになり、あなたは自身の意に沿わないところへ連れて行かれるであろう」
パウロは救いは祈りにありという理解であり、ペテロは実践しなければ救いはないという考えで、対立します。そして、大衆の受けはパウロの方にあり、ペテロもこの方向に教えを変えて行くとあります。
秀思學の髑髏の丘の十字架刑のメッセージは、我利を反省して、世間から与えられる苦労を母神様の与えられる魂のパンであるとする、苦労を食っていく実践がすべてであるとしか読めないのです。つまり、ペテロの理解です。
これをテレビ伝道などでは、イエス様は私達の罪のために死んで下さった。私達の罪は許されて神の前で、汚れのない者となったのである、と、これを聖書の眼目としています。
で、四つの福音書には「私達の罪のために死んだ、罪は許された」などとは一言も無いのに、と思って調べてみると、この言葉は、コリント、ローマ、ガラテア人の使徒への手紙の三書で、三書ともパウロの書であるのです。
ですから、これは実践宗教ではないパウロの理解であって、イエス様がペテロに注意した「意に沿わない、ダメな解釈の宗教」であるということです。
これでペテロ(10)が鍵を二つ(弗)持ち、パウロ(9)と共に反宗教の側に立って、救いに天から蘇るイエスを睨みつけている、銃口を向けている意味が、確り理解できました。
(荊冠頭=棘のある考え=合理主義=ドライ)のイエスは「私は渇く」と言った、それは聖書が全うされるためであった。
そしてイエスは人々の差し出す酸い葡萄酒を受けたことによって、すべてを終えられたので、天国に迎えられた。
救いは祈るだけではだめである。これでは穴の開いた羽(パウロ=羽洞)で、天に飛ぶことは出来ない。
苦労の人生を親神様の与えるパンであると理解して、受け止めて汗を書いていく先に幸せ(天国)はある=外撥ねして預羽(ヨハネ)することが主に適うことである、で、ヨハネ(5)は左側におり、獣の衣(殻田=物品主義)を脱いでいる姿で描かれているのです。
救いはヨハネにあり、で、48音のアイオーンの光る雲がノアの箱舟の正体であり、日本語の言霊と漢字を諏訪すれば主に和すことができる。と秀思學は結論しています。
このダヴィンチの最後の晩餐に秘められた暗号を何回かに分けて解説しようと思います。が、一番大事なのは上記に述べたことであり、自分が反省して生活を切り替える実践によってしか、救いはないということです。
漢字、地理、歴史、天地一切果神の声
最後の学問「秀思學」のすすめー2008年12月29日(日本は30日)
|