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キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、経典に於いて一致しています。何の矛盾もないのに聖地争い等をしているのは、夫々が経典読めていないだけなのです。
この三者が同胞であることに目覚めれば、世界の宗教人口の50パーセント以上を占めます。世界は、平和に、穏かになるに違いないのです。まことにもったいないことです。
クリスチャンの聖書の読み間違いを秀思學は訴えてきましたが、ムスリムのコーランの読み間違えも指摘して、両書が同じ神に縁る指導であって、両者は同じ釜のめしを食って育てられている兄弟であることに覚醒してもらいたいのです。
ここで最大の力を発揮するのが、十字架刑の双方の記述と解釈です。2、300字をクリヤーすればよいだけです。これだけで、1500年(?)の対立が解消し、兄弟としての和の未来が開かれるのです。
どうか、秀思學の解釈を検証してください。そして、間違いない、両書は同じことを言っているのであることを掴んでください。
読み間違いの結論を述べておきますと、クリスチャンは、荊冠がイエスがユダに仮装した姿であることに注目していない、ゆえに、罪のないイエスが私達の罪を背負ってくれたという贖罪論になってしまっているのです。
ユダの角のある考えでは必ず十字架刑(火の洗礼=魂の浄化)にかけられる、夫々が自身を反省して、生活を神向きに改めなければ救いはないと、いうコーチとしてのサンプルを演じられたのです。
ムスリムは、十字架刑はなかった、あるいは、イエスの身代わりがかかったのであると解釈しています。イエスはユダの身代わりとしてかかった、そして反省してイエス(聖書)の教えに従って生きたので天国に迎えられた、と書かれているのです。こう読めば、聖書にピッタリと合っていると思われませんか?
ヨハネ福音書では、十字架刑は聖書の全てであると書かれています。
十字架刑の啓示を制すれば、聖書、コーランを踏破したということです。そして、精神と肉体の十字を組む工夫が天国への道であることを理解すれば、アダムとエバの例えも理解されます。
そしてなお、「クム、クフの白い王冠の力は強大だ」の大ピラミッドのメッセージが「皇」の字で「目のあるピラミッド」を示唆しているという、世界のすべての謎に光を与えることになるのです。
両書の聖句を掲げ、 秀思學の解釈でその一致を指摘しました。これを世界観の芯として刀を振るえば、面白いように目の前が開けていくことを確信しています。
聖書;
(荊冠=考えに角=腹黒=腹の虫の蝮=憂蛇野=ユダヤ頭)のイエスは、「私は渇く=ドライ心」と言った。●それは聖書が全うされる為であった。そして人々の差し出す酸いぶどう酒を受けたので、天国に迎えられた。
これはパウロが広めて「現代の定説となっている贖罪論ではなく」消されたペテロの初心の反省説です。人は自分の腹の虫を反省しながら生活することで育つ。、
イエスは反省(見返る=ミカエル)と人生を現実の損得でドライに考えずに霊的に受けること(運命を神の声として噛み付いていく=ガブリエル)の手本を見せた。
ユダの獣心(荊冠)であるから、十字架刑(火の洗礼に架けられるの予言)が待つ、反省のイエスの知恵に開眼して神向生活に入れば、天国に迎えられる道は開かれると教えられた=土黒(腹=髑髏の丘)→お洒落頭=語瑠午建
コーラン;女人の章157節
「わしらはイエスを殺したなどという、どうして殺せるものか、ただそのように見えただけのこと、かれらに確りした知識があるわけではなく、ただいいかげんに憶測しているだけのこと、いや、かれらは断じてイエスを殺しはしなかった。
コーランは天使ガブリエルからモハメッドが啓示を受けた(AC600年頃)とされ、ミカエル大天使の名もありますから、同じ創造主の教えです。
ガブリエルは主が卸した聖書の教えが誤解されて「贖罪説」になってしまっているために、修正の教えに再び遣わされたということです。
ですが、上記の聖句を、イエスの十字架刑はなかったと解釈してしまっているのがイスラム(意が荒廃)教です。
ガブリエル=受胎告知の天使=神と人の和合(ガブリ四つ)によって真珠の魂をつくり、天国に誕生させることができることを教える。
「みえた」とありますから、十字架刑はあったのです。続く158章には、神がかれを身元に引き上げたもうたのである、とありますから、イエスはその場にいたのです。
そして、クリスチャンはいい加減な憶測をしている、あなたがた(イスラムの人々)はこの演出(からくり=身代わり劇)を看破しなければならないと戒められているのです。
あなたがたは行われた十字架刑を確り理解しなければならない=わしら(ユダヤ=腹の虫=肉体の獣性の知恵)はイエス(主の心=真理)を殺せない=神真理は必ず復活して世界の前に現れるであろう、です。
荊冠が全ての鍵で、これを議論すれば一発で真理が現れますが、双方とも誰も話題にしない、秀思學だけであるのは不可解です。
生きる=牛(ブル)を地で培う(バイ)=憂思(憂蛇野=ユダヤ=腹の虫の蝮)の角を丸めれば午(うま)い=荊冠→観音の白い蓮華の花冠=皇=クム、クフの白い王冠の力は強大だ(クフ王のピラミッドの言葉)=ヒエログラフの蛇は角がある
身代わり説は、「神が彼をひきあげたもうたのである。神は威力ある聡明なお方」と続く言は、イエスがその場で天に上げられたことですから、論外です。
神の聡明(複雑)な十字架刑の見極めが付かなかった。
ユダ(荊冠頭=身代わり)として、十字架刑にかかり、反省して神真理(イエス人=復活)に生きたので天に引き上げられた。
以上、如何でしょうか?
続いて「復活の日には、彼があの者ども(十字架刑を理解しない者)に不利な証人となるであろう。」とあります。
十字架刑は世界が晩秋の魂の復活のために必ず迎える火の洗礼(ハルマゲドン、ノアの大洪水、フォトンベルトの光風圧の洗礼)のことでもあります。
あの者どもとは、幽界にいる死者も含めた全人類のことであり、知らなかったとはいえない、無知が許されない厳しいものであることを知るべしと警告されているのです。
最後の学問「秀思學」のすすめー2009,9,2
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