ポルトガルのリスボンに生まれた。15歳のときにアウグスチノ会に入り、司祭となったが、アフリカ宣教の望みを抱き、長上の許可を得てフランシスコ会に入る。殉教の覚悟でアフリカのモロッコに渡ったが、まもなく病気になり、帰国した。その後、フォル市郊外のモンテ・パオロで、修道司祭として生活した。あるとき、市の新司祭の祝賀会の席上、アントニオは長上から即座に演説を命じられ、よい話をした。これを機に説教家として彼の才能が認められた。イタリアやフランスを巡って福音を伝え、多くの人々を回心に導いた。 36歳の若さで亡くなり、その遺骸はパドバの聖堂に安置された。その墓で多くの奇跡が起こったといわれている。 アントニオは、紛失物を捜すときの助け手、婚姻・花嫁の守護の聖人として知られている。 |
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2010年02月22日
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12使徒の1人で、使徒の頭であった聖ペトロは、キリストから「あなたはペトロ。わたしはこの岩(ペトロ)の上にわたしの教会を建てる」(マタイ 16.18)と言われ、教会の礎としての使命をゆだねられた。彼は教会の最初の司教としてアンチオキアに使徒座を置き、その後ローマへ宣教に行き、バチカンの丘に使徒座の基礎を築いた。 古代ローマでは、2月22日には亡くなった家族を記念する習慣があり、初代教会もその慣習を取り入れ、教会の礎である聖ペトロを記念していた。4世紀に、 聖アンブロジオ(12.7参照)は「ペトロがいるところに教会がある。教会があるところに、キリストがいる」としてこの日の意味を明確にし、最高牧者としてのペトロの使命を浮き彫りにした。 聖ペトロの使命は、今日まで代々の教皇(現在265代教皇ベネディクト16世)に受け継がれている。
第1朗読 ペトロの手紙一 5章1〜4節 さて、わたしは長老の一人として、また、 キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。 あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。 強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。 卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。 ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。 むしろ、群れの模範になりなさい。 そうすれば、大牧者がお見えになるとき、 あなたがたはしぼむことのない栄冠を受けることになります。 福音朗読 マタイによる福音書 16章13〜19節 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。 弟子たちは言った。 「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。 ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 すると、イエスはお答えになった。 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 わたしも言っておく。 あなたはペトロ。 わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。 あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。 あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 |

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親愛なる兄弟姉妹の皆様。 毎年四旬節にあたり、教会は福音の教えに照らして生活を真摯に振り返るようにわたしたちを促します。今年は、「神の義はキリストを信じることにより示される」(ローマ3・21-22参照)という使徒パウロの確信に端を発する正義という重要なテーマについて、いくつかの考え方を示したいと思います。 正義―「その人のものをその人に与えること」(dare cuique suum) まず、「正義」ということばの意味から考えてみたいと思います。正義は、紀元3世紀ローマ時代の法学者ウルピアヌスの有名な表現に従い、「各人のものを各人に与えること」と一般的に定義されます。しかし、この古典的な定義は実際、各人に与えられる「もの」が何であるのかを明らかにしていません。人間がもっとも必要とするものを保障できるのは法ではありません。人生をまっとうするには、まさにたまものとして与えられる、より内面的なものが必要です。神は人間をご自身の似姿として創造しました。したがって、人間は神だけが伝えることのできる愛によって生きているといえます。物的財は、確かに有益で必要なものです。実際、イエスご自身も病人をいやし、従う人々に食べ物を与えることに努めました。そして、食料、水、医薬品の不足により何百万もの人々を今日も死に追いやっている無関心を非難しているに違いありません。しかし、「配分的」正義は人間に、その「当然与えられるべきもの」のすべてを与えるのではありません。人は糧を必要とする以上に、神を必要とします。「正義は各人のものを各人に配分する徳である」なら、「人間自身を真の神から遠ざけるのは人間の正義であろうか。」(『神の国』19・21〔松田禎二・岡野昌雄・泉治典訳『アウグスティヌス著作集15』教文館、1983年、77頁〕)と聖アウグスチネスは指摘します。 不正の原因とは 福音記者マルコは、清いものと汚れたものに関する当時の論議の中で、イエスの次のようなことばを挿入し伝えています。「外から人のからだに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。……人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」(マルコ7・15、20-21)。ファリサイ派の人々の反応を見ると、食べ物に関する直接的な問題とは別に、人間には悪の源を外的要因に据えようとする誘惑がつねにあることが分かります。現代のイデオロギーの多くは、その根底に次のような前提をもっています。すなわち、不正は「外から」来るものであり、正義を実現するには、その達成を阻む外的要因を取り除けばよいという前提です。キリストが警告するように、このような考え方は浅はかで短絡的です。悪の果実である不正は、もっぱら外的要因によるのではありません。その源は人間の心の中にあります。そこでは、不正の種が悪と神秘的に協力しています。詩編作者は悲痛のうちにこのことを認識します。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51・7)。実に、他者と交わる能力をそぐ強い力によって、人間は弱められているのです。 人間は生来、寛大に分かち合うことに開かれています。しかし、人間はその存在のうちに奇妙な引力を持っています。その引力は人間を内向きにさせ、他者に対して上位にあり対抗するべき関係にあると確信させます。これが原罪の結果である利己主義です。アダムとイブは悪魔の嘘にそそのかされ、神の命令に背いて禁断の果実を採り、愛のうちに信頼する論理を疑いと競争の論理に置き換えました。すなわち、神から受け、信頼して神に期待する論理が、不安のうちに奪い、自分勝手に行う論理に取って代わったのです(創世記3・1-6参照)。その結果として、不安と疑いという感覚を体験します。どうしたら人間は、この利己的な力から自己を解放し、愛に向けて自らを開くことができるのでしょうか。 正義と「ツェダカ」 イスラエルの英知の真髄において、「乏しい者をあくたの中から高く上げ」(詩編113・7)る神への信仰と、隣人に向けた正義の間には深いつながりが見られます。正義の徳を示す「ツェダカ」というヘブライ語のことばそのものが、このことをよく表わしています。実際、「ツェダカ」は、イスラエルの神のみ旨を完全に受け入れることを意味する一方で、隣人、とくに貧しい人、寄留者、孤児、寡婦(申命記10・18-19参照)との関係における公平さ(出エジプト20・12-17参照)も意味します。しかし、この二つの意味は結びついています。なぜなら、イスラエルの民のために貧しい人に与えることは、ご自分の民の苦悩をあわれむ神から借りているものを返すことに他ならないからです。シナイ山でモーセにおきての板が与えられたのが、紅海を渡った後であったことは、偶然ではありません。おきてを聞くことは、神への信仰を前提とします。神はまず民の「叫び声を聞き」、それから「エジプト人の手から彼らを救い出すために降って行きました」(出エジプト3・8参照)。神は貧しい人の叫びに心をとめ、そのこたえとしてご自身に耳を傾けることを求めます。神は貧しい人(シラ4・4-5、8-9参照)、寄留者(出エジプト22・20参照)、奴隷(申命記15・12-18参照)への正義を求めています。ですから、正義を実現するには、閉ざした状態の深みである自己充足という幻想から離れる必要があります。それは不正の根源なのです。言い換えれば、神がモーセとともに成し遂げた脱出よりもさらに深い意味での「脱出」、おきてのみでは実現不能な心の解放が必要とされているのです。さて、人間には正義への希望がいくらかでもあるのでしょうか。 神の義であるキリスト キリスト教の福音は人間の正義への渇きに明確にこたえます。聖パウロはローマの信徒への手紙の中で断言します。「ところが今や、律法とは関係なく、……神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによるあがないのわざを通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3・21-25)。 それでは、キリストの正義とは何でしょうか。それはまず何よりも、恵みから来る正義です。そこでは、自らと他者を回心させ、いやすのは人間ではありません。「償い」はキリストの「血」から生ずるという事実は、人間が自らの犠牲によって過ちの重荷から自分を解放するのではなく、神の愛のわざが人間を解放するということを意味します。神は、自ら人間の「呪い」を引き受け、神の「祝福」を与えるほどに、ご自身をこの上もなく開かれます(ガラテヤ3・13-14参照)。しかし、これに対して即座に次のような異議が唱えられます。正しい人が罪びとのために死に、その代わりに罪びとが正しい人のおかげで祝福を受けるという正義とはいったい何なのか。それは、一人ひとりが「当然与えられるべきもの」とは逆のものを受けることを意味するのではないのか。実に、ここにわたしたちは神の義を見いだします。それは人間の正義とは深遠な意味で異なるものです。神はわたしたちのために実に膨大な代償を御ひとり子において支払われました。十字架において示された正義を前にして、人間は反発するかもしれません。なぜなら、人間が自己充足的な存在ではなく、完全に自己実現するためにいかに神を必要とするかが、それによって明らかになるからです。キリストへと回心し、福音を信じることは、究極的に次のことを意味します。それは、自らが他者と神を必要とし、神のゆるしと神の親しさを必要としていることを悟り受け入れるために、自己充足の幻想から脱することです。 ですから、信仰が、感覚でとらえやすいあたりまえの明白な事実とはいかにまったく異なるものであるかが分かります。つまり、「自分のもの」から自らを解放し、「神のもの」を無償で頂くために神を必要とすることを受け入れることが、謙虚さには求められているのです。このことは、ゆるしの秘跡と聖体の秘跡において顕著です。キリストの行為のおかげで、わたしたちは「もっとも偉大な」正義に分け入ることができます。それは愛の正義(ローマ13・8-10参照)であり、どんな場合においても、貸し手側というよりは借り手側として認識される正義です。なぜなら、予想もしなかったほど多くのものを受けたからです。 まさにこの経験に強められて,キリスト者は義にかなった社会の建設に貢献するよう促されます。それは、すべての人が人間の尊厳のうちに生きるために必要なものを受け、愛によって正義が活性化される社会です。 親愛なる兄弟姉妹の皆様。四旬節は「過越の聖なる三日間」において頂点に達します。今年もその期間に、愛の充満、たまもの、そして救いである神の義を祝いましょう。すべてのキリスト者にとってこの償いの季節が、真の回心の時であると同時に、あらゆる正義を達成するために来られたキリストの神秘についての知識を深める時となりますように。これらの思いを込めて、わたしは皆様に心から使徒的祝福を送ります。 バチカンにて 2009年10月30日 教皇ベネディクト十六世 |
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