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シエナの聖カテリーナおとめ教会博士 1347年-1380年 祝日:4月29日
カテリーナは、シエナの裕福な染物屋の24人の子どもの末っ子として生まれた。彼女は正規の教育を受けなかった。聖女はシエナを襲ったペストの流行により兄・姉を失い、人間の苦難について鋭い個人的意識を養っていた。同時代の伝記作者によれば、その幻視体験は7才の時から始まったという。ある日彼女はキリストの花嫁になった夢を見た。カテリーナは信仰に目覚め、それは熱心だった。あまりに熱心すぎるので心配した両親は少しでも気をそらすためにたくさんの家事を言いつけた。7歳の時に彼女は家族が反対するにもかかわらず、自分の純潔をキリストへ捧げることを決めた。カテリーナの両親は、娘に女性として普通の人生と結婚を望んだが、その願いに反し、彼女は十代後半から一生を、祈りと瞑想と独りで暮らすことに全て捧げることにした。
18歳の時、彼女はドミニコ会の会員となった。反対していた父親も祈る彼女の頭上に白い鳩がとまっているのを見て許したという逸話が残されている。会員として、カテリーナは修道院の中で暮らすよりもむしろ隠者として自宅で暮らした。彼女は女子修道院でおそらく許されたことのない禁欲の行を練習した。
カテリーナは多くの厳しい自己鍛錬の行を行い、日課として睡眠と食事を削った。カテリーナは非常に食が細いことで知られ、彼女は自分が吐き戻したものも食べていた。 彼女は、聖餐以外の生涯の大部分を断食していたことで特に有名であった。カテリーナがもっと自分で食べようとしているのを知った聖職者たちは、彼女に食べさせようとしたが、失敗に終わった。しきたりとしての断食は中世後半に普通に行われており、カテリーナの断食のやり方はキリスト教の模範と照らし合わせても突出している。
14世紀は、教会内の分裂、ペストの流行、教皇のローマからアヴィニョンへの退去などで混乱していた。カタリナはペスト患者や貧しい人々、刑務所にいる人々のために献身的に働いた。また、手紙や著書をもって教会と国家のあいだの困難な問題、特に教皇のローマ帰還、ドミニコ会の改革のために貢献した。
カテリーナの手紙は、初期トスカーナ文学の傑作の一つとみなされている。300以上の手紙が現存する。
カテリーナは1380年春、発作のためにローマで急死した。彼女は、イエス・キリストと同じ33歳で死んだのだった。シエナの人々は、彼女の遺体が戻ることを願った。伝説では、カテリーナの頭がどのようにシエナへ帰ることができたかふれている。シエナの人々は彼女の遺体全てを運んで検問を通過できないことを知り、頭部だけを鞄に詰めて持ち帰ることにした。それでも彼らは警護兵に制止されてしまい、彼らは力添えをカテリーナに祈った。もはや検問を突破できないと悟った彼らは、鞄を開けて中を見せたが、そこにはバラの花びらがたくさん入っていた。シエナへ着いてから鞄を開けると、彼女の頭部はその中にあった。この伝説のために、カテリーナはいつもバラを持った姿で表される。
聖女は身体に現れる有形の病、火事に対する守護聖人。
イタリアでは、流産、看護師、病人の守護聖人である。
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シエナの聖カテリーナ
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