在位590年-604年 ローマ市長官であった父が、公職を退いて修道士になったことから、彼も家を改築してベネディクトの会則を基礎に、祈りの生活に励んだ。数年後、教皇ペラギウス2世のもとで助祭となり、コンスタンティノープルに教皇特使として派遣された。そこで6年間の任務を果たしつつ、ベネディクト会の修道士として生活した。 その後教皇に選出されたグレゴリオは、教会内外の教化に励み、教皇とは「神のしもべのしもべ」であると称して、教会のために力を尽くした。596年には、ベネディクト会のカンタベリーのアウグスチヌスと40名の宣教師をイギリスに派遣し、このため多くのアングロ・サクソン人がキリスト教徒となった。また彼は、典礼と教会音楽の刷新にも取り組んだ。このときに作った聖歌の基礎が、「グレゴリオ聖歌」と呼ばれる。多くの著作を残したが、中でも「ヨブ記註解」などが有名である。彼の働きは、教皇権の強化と教皇領の拡大をもたらし、中世社会の実現に大きな影響を与えたので、「大教皇」の名を持っている。 |
★☆聖人☆★
[ リスト | 詳細 ]
全1ページ
[1]
1647年-1690年 1673年に、彼女が祈っているとキリストが現われ、「ごらんなさい。人びとを愛するために多くの苦痛を忍んだわたしの心を。それなのに多くの人びとは、この愛に対して冷淡で、受けた恵みを忘れています」と言われ、「み心の信心」を広めるように命じられた。初めは、多くの反対にあったが、次第に「み心の信心」は広まり、マルガリタの死後、この信心は全世界に広がった。1856年、教皇ピオ9 世によって「み心の祝日」が定められた。 |
1381年-1457年 一人になったリタは、若いときに希望していたアウグスチノ会に入会しようとしたが、夫の事件の関係で拒否された。しかし、神からの招きを確信して祈り続けたリタは、政党間に和平が実現したことにより入会を許された。リタは妻として、母として、未亡人として、修道者として、愛に根ざした平和を人々にもたらした。 夫との長く苦かった生活は、リタに不和をおさめる方法を学ばせた。家庭内に問題のあるところでは彼女の忠告が喜ばれ、そのとおりにすると必ず幸福が帰ってきた。60歳のある日、リタが十字架像の前で祈っているときに、キリストの茨の冠から額に一本のとげを受けた。またリタは、「望みのないときの助け手」と言われている。 生涯の最後の4年間は寝たきりとなったが、忍耐と明るい性格によって、姉妹たちと訪れる人々を支え、1457年5月22日、76年の生涯を閉じた。 |
フランシスカは、ローマの貴族の家に生まれ、信仰深く育てられた。幼いころから、修道院に入って神に生涯をささげたいという望みを抱いたが、13歳のときに両親の望みに従ってロレンツォ・ポンチオニという裕福な貴族の青年と結婚した。6人の子どもに恵まれ、妻として母として理想的な家庭を築いた。 ローマが1400年からの内戦によって荒廃していたときには、義理の姉とともに貧しい人々の救済や、病人の看護に献身的に当たった。フランシスカのもとに、志をともにしたいとする婦人たちが集まり、1425年に、貧しい人々を救済するための会「トル・デ・スペキ女子修道会」を創立した。フランシスカは修道会を会外から指導していたが、1436年夫の死を機に自らも共同体で生活を始め、修道院長として亡くなるまで会員を導いた。 彼女はしばしば神秘体験をし、守護の天使と親しく語らったといわれる。息を引き取る前にも、「天使が後についてきなさい、と手招きしています」と言ったと伝えられている。 |
カシミロは、ポーランド王カシミロ4世の息子として生まれた。母親の影響で信仰深く育てられ、幼いときから宗教教育を受けた。 1471年、父の命令によってハンガリー王になることを強いられたカシミロは、同国に向かう途中に敵と戦うことなく引き返してきたために、父王の怒りをかい、一時城に軟禁された。その間も、たゆまず祈り、イエス・キリストの受難に心を合わせていた。 カシミロは、父王が不在のときには国内を統治し、国民に心を配った。生涯独身を誓い、神にささげて生き、26歳の若さで結核で亡くなった。 彼の徳は国民から慕われ、死後も彼の墓地では多くの奇跡が起こったといわれる。 ポーランドの保護の聖人として親しまれている。 |
全1ページ
[1]




