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前回は「思春期前期の難しさ」、「成熟した社会の果て」、「義務教育の意義」について論じてきました。そこで今回は前回の延長戦でもありますが、犯行声明にみえる社会的な家族的な幻想を書きたい、加えて“家族”についても触れたいと思います。
家庭内暴力、DVなどを防ぐにはどうすればいいのか?それはコミュニケーション、つまり連帯の中に入ること、と今までさんざん言ってきました。
今日「たかじんのそこまで言って委員会」を観ました。三宅久之さん、屋山太郎さん、宮崎哲弥さん、村田晃嗣さん、桂ざこばさん、筆坂さん、鴻池参院委員長etcという面々でした。僕は宮崎さんと村田さんに期待しています。そこでアキバ事件についての話題が出て、各パネリストの方々が分析していた中、屋山太郎さんが“分相応”という言葉を使いました。“分相応”、昔の言葉となっているのでしょうか?今ではあまり使われない気がします。農家には農家の、リーマンにはリーマンの分がありやることがある。地域社会の中で、人気のあるじっちゃん、ばあちゃん、ねーちゃん、にーちゃんというのは学歴とは関係なく、役割があった。それが団地化のなかで崩壊していってあまり見えなくなったから“分相応”が消えていったのでしょう。
その分を理解するには、周りにそれを理解させる環境がなければいけませんからね。そうして「分」がよくわからなくなると、社会的上昇というモチーフだけが突出した。だから、その社会的上昇の助けになる学校教育を機能的に分担することが、良きこととなったんでしょう。そこで、教育投資さえしていれば安心する親、子供に勉強させていれば、あるいは子供の成績があがりさえすれば安心する親が生み出されるし、「成績さえよきゃ何やってもいいじゃん」って思う子供だって当然出てくる。“分相応”はたしかに大事と言えるでしょう。
今の小・中学生にとって、学校はストレスが溜まる場所らしいんですよ。30代以降の方には理解できないかもしれません。今の学校の教室はどうなってるのか。クラスが8も9もあった学校出の方には理解できないかもしれません。
狭い空間に赤の他人が大勢かつ長時間押し込められるうえ、まったく無意味な授業を聞かされる。これでストレスが溜まらないなんてやつのほうが異常でしょう。だから実際非常にストレスが溜まってるから、いじめ以外に楽しいことがなく一触即発の状況にあるわけです。つまり誰でもいじめられる可能性があるから、皆いじめられないために本音を出さないし、弱みを見せないようにする。
しかしこう言うと「戦後は70人クラスなんてものもあったんだぞ」という反論が出てくると思いますが、しかし今と昔とは違うんです。昔は地域社会が存在した。学校が地域社会の中に溶け込み、地域社会の一部にすぎなかったんです。それに大人社会というものが今ほどは不透明じゃなかったし、大人は汚いというイメージがあまりなかった。子供は大人社会に対する夢を共有することができたからストレスの軽減にもなったんです。
よく「体罰を強化せよ」と仰る方々がいますが、おそらく社会的文脈の変化に対応できていないと考えます。私は以前、体罰はあった方がいいと言いましたが、それについて懐疑的なことも申し上げたはずかと思います。それについては次の機会に、ということでここで終わります。
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