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以前、自身のブログ記事「甘えが犯罪を呼ぶ?」(http://blogs.yahoo.co.jp/szksig262007/10481706.html)で体罰について触れましたが、私は体罰に対して基本的に賛成のスタンスに立っていますが一方で懐疑的なことも申し上げました。現状を見てみると、何か事件があったらすぐに「死刑だ!」といった声が主に保守的なブログによく見られますが、ここは感情的にならず「体罰」についてラディカルに考えてみようと思います。
[過去の記事から抜粋]
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あと「体罰すべし!」との声があるようですが 【半分】 はそのとおりです。
まず教育には原則体罰は必要。戸塚ヨットスクールというのがあります。どの精神科医も心理カウンセラーもがどうしようもなかった子供がここに入るとピシっと直る。教育に体罰が必要だということはここが証明した結果となりました。ただここに入って少数ではあるが死ぬ子も出る。この違いは何か?答え、、体罰は権力・権威を作る。だから精神の病気ではなくアノミー、つまり酒鬼薔薇事件みたいな社会的無規範で犯罪を犯した少年(大人も)たちはすぐ直る。だけど病気の子は体罰では治らず、体罰が酷過ぎて死ぬ子もいる。
だからその 【半分】 とは、体罰を加える前に病気か否かを調べなければ解決しないということ。平等に。ただ平等ってのは個性を無視しろってことでは当然ない。これを誤解したところに先ほど申し上げた民主主義の無理解がある。つまり、民主主義教育では<平等>とは「みんな同じでなければならない」というとんでもない誤解が生まれ、この誤解が教育における諸悪の根の部分です。
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少し視点を変えて、「体罰」を「少年法」と絡ませて書きたいと思います。現在日本で語られている少年法の強化は、子供には自己決定能力がないから外から罰則を与えるしかないという考えです。少年法強化の声はアキバ事件以降盛んになりました。でも現状を見てみると、自分の責任で物事を考えられる最低年齢が高くなっています。ものすごく思考過程が短絡的で問題行動・暴力行為をしてカウンセリングを受ける20代の人が増加しています。問題は、カウンセリングを受ける若者が「(問題行動・暴力行為を)やってるときの記憶がない」とか「問題行動だけ止めてくれればいい」とかと主張するらしいが、これじゃあ行動と内的葛藤を結びつけることはできないし、すべての行動にはその背後に内的な過程があるという前提が崩れてしまっている。
教師の体罰についても同じ構造です。体罰是非の前に殴るまでのプロセスが短絡してしまっている。
確かに昔の教師の体罰は殴る方と殴られる方に共通の前提があった。だけど今を視てみると教師も生徒同様にストレス状態にあるから、気がついたら殴ってた、みたいなことが起こっちゃう(笑)。そして殴られた方は何故殴られたのかわからずストレスが溜まるだけ。するとそのストレスを解消するために殴られたヤツは自分よりも弱いヤツに対して暴発してバランスを取るしかない。そしてそのベクトルが、いじめられ体質な子に向かったり親に向かったりして暴力の連鎖が生じるんです。
簡単に言えば、「体罰容認派には社会的文脈が欠落している」の一言に尽きるんですが、結局は体罰論の行きつく先は私が今まで論じてきた「ストレス」になるというわけです。これを語るには「昔」を語るが近道と思います。
先ほど「昔の教師の体罰は殴る方と殴られる方に共通の前提があった。」と申し上げましたが、簡単に言えば昔には地域社会が存在したということです。学校自体が地域社会の中に溶け込み、地域社会の一部にすぎなかったんです。さっきの暴力で言えば、殴られるようなことが子供の間で起ころうが、教師と生徒の間で起ころうが、何が理由でどういうことがおこっているのか互いに透明です。そういう状況では理不尽さを感じることが少なく、ストレスが溜まりにくい。それに「大人社会」が今ほどは不透明でなかったし、汚らしいものだとも思われていなかった。子供は大人社会に対する夢を共有することができた。それもまたストレスの低減要因になります。
「いじめ」「家庭内暴力」「アキバ事件や酒鬼薔薇事件などの社会的無規範な事件」…。これらの問題は「ストレス」を語らなければ解決しないんですよ。アキバ事件や酒鬼薔薇事件などの社会的無規範な事件は「甘えが原因だ」とかいうバカは恥を知れ(笑)
因みに国連統計がありますが、重罰化では軽犯罪と性犯罪は減りますが、アキバ事件など凶悪な犯罪については減るというデータはありませんので。
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