教育論

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よくある話だが、子供が「人を殺しちゃいけない理由がわからない。何でいけないの?」と大人に問いかける。酒鬼薔薇事件に同調した子供の中には「僕は死刑になりたくないから人を殺さないだけ」と言った子もいたそうだ。だがこの質問に対してまともに回答できる大人は少ないと思う。むろん私は「いけないものはいけないんだ」と叫ぶことを要求しているのでは当然ない。そんなことは誰にでもできるが、質問した彼にとっては問題にもならない。私が意図したのは、そもそもこの種の疑問は一旦抱かれてしまうと、もはや疑問を抱いた人間を納得させるような答えを見つけることは困難であるという明確な言明です。私たちが人を殺さないのは人を殺してはいけない明確な理由があるからではない。人が滅多に人を殺さないという自明な事実に対する信頼がまずあり、その上で人を殺してはいけないという疑念も抱かれるし、殺人への否定的反応も生じる。つまりは、人間同士が滅多に殺しあわないという事実性の上に、共同体の様々なルールの総体やそうしたルールに基づく私たちの行為や体験の総体が積み上がっているということがあり、故に自明性は疑われにくいのだろう。

しかし私が今回のテーマに掲げる問題はそれとは別にある。では本題にいきたいと思います。
ある方から「酒鬼薔薇も死刑に処すべきであった。刑事責任を10歳以上にすべきだ」という感想を頂きました。が、これはハッキリ申し上げるなら原理的に無理だという話になるのです。酒鬼薔薇事件にしてもアキバ事件にしても、事件後に発生するのが厳罰論や少年法の改正論です。少年法について言えば、例えば、未成年の名前や顔写真が出せないのを人権・プライバシーの問題と考える方がおられるようですが、これは違うんです。日本は子供に自己決定権を認めていない、つまり子供に人権・プライバシーも認めていないからこそ子供を保護しているわけです。社会復帰を最優先事項にし、更生主義でやっていく。
「酒鬼薔薇も死刑に処すべきであった。刑事責任を10歳以上にすべきだ」という声は、そういうやり方(更生主義)をしているから子供が凶悪犯罪を犯すんだ、という主張と大差ないですが、それは違うと思います。統計を見ればわかりますが、少年犯の大半は窃盗犯で、凶悪犯は諸外国と比べてもものすごく少ないのです。さらに英米では少年法の重罰主義を押し進めているようですが、その背景には少年たちに対して自己決定能力を要請する教育プログラムを採用しているという実績があります。つまり、子供に大人と同じように自己決定権を認め、それと引き換えに自分のやったことにはきっちり責任を取ってもらう、ということ。
だから14歳の酒鬼薔薇を死刑にせよというのは、英米のように子供に人権を認めて初めて成立することで、今の日本の教育体制下ではありえないんですよ。それを成立させるにはもっとリベラルな方向に向かうしかないということになります。

まとめます。
簡単に言えば可能な選択肢は2つ。1つは、英米のように子供の自己決定能力を養成するプログラムを幼少期から徹底的に導入する。個人カリキュラム化もあるし性の自己決定権も認め、ともかくリベラル志向に転換する。それとペアで少年法を重罰強化したりする。もう片方は、1つ目の逆で、今までの保護主義・更生主義でいくならば少年法は今のままでなければダメ!子どもには自己決定権はなく自己責任をとる力がないから、大人が指導・育成しなければならない。そういう教育であれば、子供が犯罪を犯した場合子供に重罰を課すのではなく、子供を保護育成するシステムの失敗となるので大人の(保護者の)責任を問わねばならない。
この2つの選択肢しかないのです。それ以外は原理的にあり得ないんです。

時事通信社(2008年7月16日)
東名高速でバスジャック=14歳少年、ナイフ所持−監禁などで現行犯逮捕・愛知
 16日午後零時50分すぎ、愛知県内の東名高速上り線を走行中のジェイアール東海バスの高速バスから「バスジャックされた」と、同社を通じて110番があった。同県岡崎市の美合パーキングエリアにバスを停車させ、警察官が説得。男はナイフを2本持っており、県警は同1時56分に監禁と銃刀法違反の現行犯で逮捕した。乗客10人と男性運転手(39)にけがはなかった。
 逮捕されたのは山口県宇部市の市立中学2年の少年(14)で、家出をしていた。少年は「親に怒られ嫌がらせでやった」などと供述。同市教委によると、男女交際のことで両親ともめていたという。
 調べなどによると、少年は当日券で名古屋発東京行きの高速2階建てバスに、出発地の名古屋駅前から乗車。正午に発車した後、名古屋インターに入った辺りで、2階から降りてきた少年が、運転席付近で右手にナイフを持っていたため、出張で同乗していた同社の男性社員が本社に連絡、110番したという。
 少年は運転手にナイフを突き付けるなどしたほか、乗客全員から携帯電話を奪い、運転手の電話で「おれはバスをジャックした」と自ら110番もしていた。要求は一切なかったという。
 持っていたのは刃渡り10センチの果物ナイフと同12センチのぺティナイフで、「2本とも名古屋の100円ショップで買った」と述べている。



時事通信社(2008年7月16日)
少年「親うざい」=「冗談好き」と中学の生徒ら−東名バスジャック
 東名高速のバスジャック事件で逮捕された少年(14)が通う山口県宇部市の市立中学の生徒らは、少年について「冗談好きで駄じゃれも言う、明るい性格」と評し、事件について「信じられない」と首をかしげた。
 春休みに一緒に遊んだという3年の男子生徒(15)は、少年から「親とよくけんかをしている」と打ち明けられたことがあった。
 少年は家出中で、事件の動機について「親に怒られ嫌がらせでやった」と話しているとされる。少年は親について「うざい」とよく漏らしていたという。この男子生徒は「あんなことをするとは思わなかった」と驚いた様子で話した。



この事件をニュースで聞いて、まずバスジャック犯が14歳だということにピーンときました。そう、酒鬼薔薇も14歳、つまりこのバスジャック事件は思春期前期の問題の延長線上にあるのでしょう。しかしこの犯人が酒鬼薔薇と違うのは、社会(義務教育と推測)に対する恨みではなく、親に対する恨みが引き金となったことでしょうか。親に対する恨みといえばアキバ事件の犯人とも共通しているのかもしれません。しかしこの犯人がアキバ事件の犯人と違うのは、両親のスパルタ教育への反発心が引き金になったのではなく、単に中学の女子生徒との交友を巡ってしかられたことが引き金となったことでしょうか。まあ成績が落ちて親から叱られたり、親に交際を反対されたり、親に「死ね」と言われたりと…完全に子供への愛情の提供の仕方が間違っていることが背景にあるようですが。
とすれば、この事件はあまり難しく考える必要はないですね。この事件について論じるべきことは家族論、教育論、ストレスでしょうね。この3つのテーマについて書いた記事をピックアップしておきます。



家族論・教育論について↓
『今を生きる子供たちへのメッセージ』
http://blogs.yahoo.co.jp/szksig262007/12981633.html

教育論・ストレスについて↓
『体罰の是非』
http://blogs.yahoo.co.jp/szksig262007/12406791.html

教育論。ストレスについて↓
『教育論−社会的無規範な犯罪を防ぐ術』
http://blogs.yahoo.co.jp/szksig262007/11801927.html


しかしまぁ〜、、今日の立てこもりといいバスジャック事件といい、この世の中どうかなってしまいそうだ…。

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体罰の是非

以前、自身のブログ記事「甘えが犯罪を呼ぶ?」(http://blogs.yahoo.co.jp/szksig262007/10481706.html)で体罰について触れましたが、私は体罰に対して基本的に賛成のスタンスに立っていますが一方で懐疑的なことも申し上げました。現状を見てみると、何か事件があったらすぐに「死刑だ!」といった声が主に保守的なブログによく見られますが、ここは感情的にならず「体罰」についてラディカルに考えてみようと思います。

[過去の記事から抜粋]
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あと「体罰すべし!」との声があるようですが 【半分】 はそのとおりです。
まず教育には原則体罰は必要。戸塚ヨットスクールというのがあります。どの精神科医も心理カウンセラーもがどうしようもなかった子供がここに入るとピシっと直る。教育に体罰が必要だということはここが証明した結果となりました。ただここに入って少数ではあるが死ぬ子も出る。この違いは何か?答え、、体罰は権力・権威を作る。だから精神の病気ではなくアノミー、つまり酒鬼薔薇事件みたいな社会的無規範で犯罪を犯した少年(大人も)たちはすぐ直る。だけど病気の子は体罰では治らず、体罰が酷過ぎて死ぬ子もいる。
だからその 【半分】 とは、体罰を加える前に病気か否かを調べなければ解決しないということ。平等に。ただ平等ってのは個性を無視しろってことでは当然ない。これを誤解したところに先ほど申し上げた民主主義の無理解がある。つまり、民主主義教育では<平等>とは「みんな同じでなければならない」というとんでもない誤解が生まれ、この誤解が教育における諸悪の根の部分です。
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少し視点を変えて、「体罰」を「少年法」と絡ませて書きたいと思います。現在日本で語られている少年法の強化は、子供には自己決定能力がないから外から罰則を与えるしかないという考えです。少年法強化の声はアキバ事件以降盛んになりました。でも現状を見てみると、自分の責任で物事を考えられる最低年齢が高くなっています。ものすごく思考過程が短絡的で問題行動・暴力行為をしてカウンセリングを受ける20代の人が増加しています。問題は、カウンセリングを受ける若者が「(問題行動・暴力行為を)やってるときの記憶がない」とか「問題行動だけ止めてくれればいい」とかと主張するらしいが、これじゃあ行動と内的葛藤を結びつけることはできないし、すべての行動にはその背後に内的な過程があるという前提が崩れてしまっている。

教師の体罰についても同じ構造です。体罰是非の前に殴るまでのプロセスが短絡してしまっている。
確かに昔の教師の体罰は殴る方と殴られる方に共通の前提があった。だけど今を視てみると教師も生徒同様にストレス状態にあるから、気がついたら殴ってた、みたいなことが起こっちゃう(笑)。そして殴られた方は何故殴られたのかわからずストレスが溜まるだけ。するとそのストレスを解消するために殴られたヤツは自分よりも弱いヤツに対して暴発してバランスを取るしかない。そしてそのベクトルが、いじめられ体質な子に向かったり親に向かったりして暴力の連鎖が生じるんです。
簡単に言えば、「体罰容認派には社会的文脈が欠落している」の一言に尽きるんですが、結局は体罰論の行きつく先は私が今まで論じてきた「ストレス」になるというわけです。これを語るには「昔」を語るが近道と思います。
先ほど「昔の教師の体罰は殴る方と殴られる方に共通の前提があった。」と申し上げましたが、簡単に言えば昔には地域社会が存在したということです。学校自体が地域社会の中に溶け込み、地域社会の一部にすぎなかったんです。さっきの暴力で言えば、殴られるようなことが子供の間で起ころうが、教師と生徒の間で起ころうが、何が理由でどういうことがおこっているのか互いに透明です。そういう状況では理不尽さを感じることが少なく、ストレスが溜まりにくい。それに「大人社会」が今ほどは不透明でなかったし、汚らしいものだとも思われていなかった。子供は大人社会に対する夢を共有することができた。それもまたストレスの低減要因になります。

「いじめ」「家庭内暴力」「アキバ事件や酒鬼薔薇事件などの社会的無規範な事件」…。これらの問題は「ストレス」を語らなければ解決しないんですよ。アキバ事件や酒鬼薔薇事件などの社会的無規範な事件は「甘えが原因だ」とかいうバカは恥を知れ(笑)
因みに国連統計がありますが、重罰化では軽犯罪と性犯罪は減りますが、アキバ事件など凶悪な犯罪については減るというデータはありませんので。

僕は以前、2回に亘って自身のブログ記事「アメリカ式教育を導入せよ」でも申し上げましたが(http://blogs.yahoo.co.jp/szksig262007/10986587.html)(http://blogs.yahoo.co.jp/szksig262007/11003921.html)、小学校入学前の英才教育は反対です。英語や算数を教えるよりももっと大事なこと、コミュニケーションをとらせることが第一だと申し上げました。子供同士がコミュニケーションをできるようにし、自分と違った意見をもつ者を理解し、自分の意見を伝えることを教育することだ第一だと。
今までは「じゃあどうするのか?」という具体例は出していませんでしたが、今回はあえて提言したいと思います。コミュニケーション力を育成するのに効果的な方策は何なのか?
僕はある方のブログでもコメントさせていただきましたが、専業主婦を減少傾向に正すことが効果的だと思います。「社会的無規範な犯罪が『甘え』からくるものだ」と主張されている方は同調してくださることと思います。

学童保育というのがあります。運営形態は様々ですが、両親が共働きの子供を放課後預かる。学童館とか児童館という形態をとるところでは、小学校低学年から中学・高校まで預かるところもあるみたいです。
僕には小・中学生の時学童保育に通っている友達が何人かいました。どいつもいいヤツで、社交的で誰とでも友達になれるタイプ。非常にバランス感覚があって、集団で誰がしゃべってて誰がしゃべってないのかを把握し、しゃべってない子を気にしてしゃべりかける。そういうヤツが学童保育出身者に多かった。当然、学童保育の子の母親は専業主婦ではない。親が働いてて、学童保育のシステムの中に入るからいい子になる。専業主婦が子を見てたらその子がいい子になるかといえば、寧ろならないでしょう。

じゃあ、何故学童保育の子はいい子が多いのか?
簡単なことだと思います。学童保育は来ている子の入れ替わりも割合あるんですが、その中に異年齢集団があって、年長者が年少者の面倒をみるシステムです。自分は年長者から面倒を見られ、自分は年少者の面倒を見る。それに、学童保育の世話人なんてボランティアに近い方が多いようですが、教師のような評価権を持っていないから、比較的まっとうな大人と子供のコミュニケーションになる。つまり昔の地域社会、ムラ社会的な共同体に類似した機能を果たしていると、そう思います。ある意味保守的な考え方ではあります。昔は専業主婦は少なかったわけですしね。

アキバ事件の加藤一家にしても、酒鬼薔薇の一家にしても、「いい学校に行くのがいい人生だ」と教育していたはず。生徒間の受験競争が連帯を欠如させた。だからストレス状況に陥るんです。それが爆発して、社会的無規範な犯罪を犯したり、自分が「透明な存在」なんだと思って「俺はここに生きているんだ!」という観念を現実化させよう、不透明な存在でありたいと思って社会的無規範な犯罪を犯す。自殺も小動物の惨殺も同じ構造です。リストカットすることで透明な自分が赤く染まることで、現実に生きているんだと認識する。小動物の惨殺は社会的無規範な犯罪の一歩手前の症状です。

専業主婦は子供の成長を妨げます。これが僕の持論です。

『なぜ酒鬼薔薇事件が起こったのか?』
その答えを僕は“戦後民主主義”と明言し、今までその戦後民主主義と言われるものの内部を語ってきました。
さて、今回は酒鬼薔薇を育てた地域である「神戸市須磨区のニュータウン」の問題点を追及したいと思います。まずニュータウン固有の問題ですが、歩いても風景が変わらないし、全然進んでる感じがしないそうです。目印になるようなものがなく、同じような風景が続く。こんな所に住んでいて楽しいでしょうか?
都市計画をやった人の責任は大きい。

そこで皆さんにお聞きしたい。歩いて楽しい街って何だろう?下町のような所を思い浮かべた方もおられると思うし、都心のように高層ビルが立ち並びいろんな店がある所を思い浮かべた方もいるでしょう。しかしニュータウンはおそらく皆さんが思い浮かべた街とは程遠い。
普通歩いてたら、お店があって、路地があって、空き地があって、近所の人が出てきたりして、風景が変わりますよね、歩いて楽しい街っていうのは。これはものすごく重要で感覚的な問題だと思います。歩いても全然風景が変わらないというのは歩いていてもつまらない街なんです。だからニュータウン住人は皆車で移動する。買い物に行くのもみんな車だから近所との接触の可能性はほとんどない。つまり「連帯の欠如」が生まれる。
あと、ニュータウンを少し調べてみたんですが、あることがわかりました。それはどのニュータウンでも性犯罪、痴漢が非常に多い。そのことを住民のほとんどが知ってるし、警察も注意を呼び掛けているし、自治体も「どこどこに痴漢が出たので気を付けて」と回覧を回したりする。しかし酒鬼薔薇事件が起きた須磨ニュータウンでは、そういう情報が伝達されない。で、酒鬼薔薇が小動物を惨殺したりという話も付近の住民は一切知らない。もちろん、それを片づけた人は知ってるけども「連帯が欠如」しているから他の人には伝えていない。
酒鬼薔薇が通っていた友が丘中学校もそうだったそうです。何度か酒鬼薔薇が小動物の死骸を置いていた。そんなものが置いてあったら普通の中学校では朝礼とかで「誰だ!こういうことしたやつは!」って言うでしょ。だけど友が丘中学校ではそれもせず、生徒が登校する前に先生がちゃっと片づけてそれでよし。…おかしいですよね。

大概ニュータウンはそうですが、土地の利用計画はお役人さんが決める。ここはこれ、あそこはこれ、という具合に全部ブロックする。だけど行政はお店の重要性がわからないから須磨ニュータウンみたいな町が生まれたんです。
子供の頃、僕は秘密基地を作って友達とよく遊びました。なにかこう、皆の知らない大人の知らないダークサイドに仲のいいヤツらで集まる。それが楽しかった。だけどニュータウンにはそれがない。

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