教育論

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]

分相応…昔はよかった

前回は「思春期前期の難しさ」、「成熟した社会の果て」、「義務教育の意義」について論じてきました。そこで今回は前回の延長戦でもありますが、犯行声明にみえる社会的な家族的な幻想を書きたい、加えて“家族”についても触れたいと思います。

家庭内暴力、DVなどを防ぐにはどうすればいいのか?それはコミュニケーション、つまり連帯の中に入ること、と今までさんざん言ってきました。
今日「たかじんのそこまで言って委員会」を観ました。三宅久之さん、屋山太郎さん、宮崎哲弥さん、村田晃嗣さん、桂ざこばさん、筆坂さん、鴻池参院委員長etcという面々でした。僕は宮崎さんと村田さんに期待しています。そこでアキバ事件についての話題が出て、各パネリストの方々が分析していた中、屋山太郎さんが“分相応”という言葉を使いました。“分相応”、昔の言葉となっているのでしょうか?今ではあまり使われない気がします。農家には農家の、リーマンにはリーマンの分がありやることがある。地域社会の中で、人気のあるじっちゃん、ばあちゃん、ねーちゃん、にーちゃんというのは学歴とは関係なく、役割があった。それが団地化のなかで崩壊していってあまり見えなくなったから“分相応”が消えていったのでしょう。
その分を理解するには、周りにそれを理解させる環境がなければいけませんからね。そうして「分」がよくわからなくなると、社会的上昇というモチーフだけが突出した。だから、その社会的上昇の助けになる学校教育を機能的に分担することが、良きこととなったんでしょう。そこで、教育投資さえしていれば安心する親、子供に勉強させていれば、あるいは子供の成績があがりさえすれば安心する親が生み出されるし、「成績さえよきゃ何やってもいいじゃん」って思う子供だって当然出てくる。“分相応”はたしかに大事と言えるでしょう。

今の小・中学生にとって、学校はストレスが溜まる場所らしいんですよ。30代以降の方には理解できないかもしれません。今の学校の教室はどうなってるのか。クラスが8も9もあった学校出の方には理解できないかもしれません。
狭い空間に赤の他人が大勢かつ長時間押し込められるうえ、まったく無意味な授業を聞かされる。これでストレスが溜まらないなんてやつのほうが異常でしょう。だから実際非常にストレスが溜まってるから、いじめ以外に楽しいことがなく一触即発の状況にあるわけです。つまり誰でもいじめられる可能性があるから、皆いじめられないために本音を出さないし、弱みを見せないようにする。
しかしこう言うと「戦後は70人クラスなんてものもあったんだぞ」という反論が出てくると思いますが、しかし今と昔とは違うんです。昔は地域社会が存在した。学校が地域社会の中に溶け込み、地域社会の一部にすぎなかったんです。それに大人社会というものが今ほどは不透明じゃなかったし、大人は汚いというイメージがあまりなかった。子供は大人社会に対する夢を共有することができたからストレスの軽減にもなったんです。

よく「体罰を強化せよ」と仰る方々がいますが、おそらく社会的文脈の変化に対応できていないと考えます。私は以前、体罰はあった方がいいと言いましたが、それについて懐疑的なことも申し上げたはずかと思います。それについては次の機会に、ということでここで終わります。

前回は戦後日本はアメリカ式教育とは全く違う、否全く反対の教育をしてきた、と指摘しました。そこで今回は今後の日本教育のあるべき姿を語りたいと思います。特に歴史教育。

アメリカの民族教育、それはアメリカ人としての誇りをもたせ、アメリカに対する忠誠心を養うことであり、この民族教育のためにアメリカはあらゆる機会を見逃さない、と前回言及しました。そこで特に重視するのが歴史教育です。
アメリカ史は決して良いことだけではない。それは日本についても言えることで、それを日本はずっと良いことをしてきたって言うやつがいるならば、そいつは単なるエゴイスト(笑)。歴史には常に光と影があるのは当たり前でしょう。

さて話を元に戻します。アメリカでは、子供に対する国史教育の方針は日本とは全く違います。アメリカ史は良いこと尽しではなく影の部分もあるというのは前述の通りです。これは当然です。しかし子供の教育のために用いられるアメリカ史はこんなものじゃない。影の部分、汚辱に満ちたところは無視し伏せておき、栄光に満ちたところ、アメリカ建国の精神に沿ったところを表面に押し出して、そこを中心に歴史を語っていく。
歴史教育は歴史研究の体を成さず。
歴史研究は確かに科学的に推進されるべきです。しかしその態度を歴史教育にも当てはめるのは誤りである、ということです。つまり目的の違いです。歴史教育はNation Spiritsを確立するために行われるべきなのです。この方法論は歴史研究のそれとは、全く異なって当然のこと。極端な話、神話が、これを仮に歴史的事実とみるならば少しも差し支えないのです。

まとめます。
歴史教育は栄光の歴史でなければいけない。これを実行したのがアメリカであり、中国であり、その他の民族国家の歴史教育です。
アメリカの汚点なんか隅のほうに押しやって、「我が国はこんなにすばらしいのだ!」。そんなことがこれでもか、というくらいに強調される。しかしそれで良し。どこの民族国家でも、国民教育はだいたいこんなもんだから。特に自民党の中川秀直氏が「移民受け入れを!」と提案するご時世です。私はその提案については寛容の精神をもって対処するべきと考える立場です。しかしそれを可能にするなら、今まで言ってきた教育が必要ではないでしょうか。
反日的日本人の言行は言うも更なり、日本人がみんなこんな体たらくになってしまった原因は何か?今までさんざん言ってきました。それは戦後民主主義である、と。戦後、アメリカが日本に押し付けた非アメリカ式教育である、と。

何度も言うようですが、反中・反朝、結構。ただ戦後民主主義を見直そうと言っておきながら、中国ばかりを叩き反米という作用を蔑ろにする。自分たちが戦後民主主義にとりつかれえていることに何故気付かないのか?www

開く トラックバック(1)

今まで先日起こった「アキバ事件」を利用して、戦後民主主義の現状と、今の日本に蔓延する民主主義の無理解について言及してきました。成熟社会が必然的に孕む困難について真正面から議論するセカンドステージに到達するためにこそ、私たちは今回の事件を徹底して利用すべきと考えたからこその行動でした。

さて、今回は戦後の日本の教育の在り方を言及していこうと思います。
「戦後の日本アメリカの指導によって教育改革をしてアメリカ式の教育に革めた」とよく言われますが、全くもって違う!断言して言える。戦後の日本は日本式の教育をしてきたんです。

アメリカ式の教育とは何か?→アメリカ人としての誇りを持たせ、アメリカへの忠誠心を育てることにある。そしてアメリカ人としての生活の仕方を教えることにある。

まず、アメリカ式教育を語る前に、国家とは何か?を語ることから始めます。
ほとんどの国がそうですが、近代国家は民族国家(Nation State)です。民族、つまりNationが成立しなければ、国家は成立しません。Stateは国家、政府を意味しピラミッドの上方の位置に当たり、そのStateを支えている、ピラミッドの土台のところがNation、つまり歴史や伝統を背負った国民なのです。つまり国と個人を対立させて認識することは根本的に誤っているといえるでしょう。また、ヨーロッパの人工的な国民国家みたいな観念を日本に当てはめることは当然できません。日本は古代から血族社会が重なっていって、王権のようなものが自然にできていったのが日本の「国」「国民」の成り立ちで、全部の中に一体感みたいなものが出来上がっているから。
簡単に言えば、民族が成立しなければ国家は成立しようがない。しかもその民族は自然に存在するものでない。…と言えます。
民族とは人間の作為的存在です。故に近代国家を作ろうとする者は民族形成に精をこめる。さて、ここで先ほど申し上げた「アメリカ式教育」と絡めていきたいと思うのですが、アメリカこそ、この民族形成を進める、云わば「民族教育」を重視する国であることは自明です。
アメリカは「自由の国」と言われています。これは何故か?それはアメリカが自由な移民の国であることを国是としているからです。宗教・身分・民族・言語を一切問わず、誰でもアメリカに来てもよろし!これが大原則です。だから民族教育が必要と言えるのでしょう。それはアメリカだけのことでなく、中国にしても言えます。民族教育の坩堝の中に投げ込んでアメリカ人を作り上げる。もしそうしなかったならば、移民国家・人口国家であるアメリカは忽ち解体する。だからアメリカは民族教育を徹底する。

アメリカの小学校では何を教育するか?→答え、子供同士がコミュニケーションをできるようにし、自分と違った意見をもつ者を理解し、自分の意見を伝えることを教育する。しかし意見の背後には当然、宗教・立場・身分・地域がある。だがこれらが違っても、言葉・感情が通じ合うようにする。そのためには各個人が己の意見を正確に表現することが要求される。Nationの壁は高い。
しかしそれらを乗り越えてコミュニケーション、討論が成立するように努力がなされる。つまり まともな アメリカ人になることを教えるのです。さらに、アメリカ人としての誇りを持つこと、アメリカに忠誠心を持つことを教えるのです。そしてこの教育に多大な時間がとられるから、国語や算数等最重要科目さえ犠牲にされることがあるんです。
アメリカの大学には国語と数学の初級コースがあるらしい。その理由は明白です。ハーフ・イリタラシーが高卒に増加しているからである。高校は出た、だけど国語が大して読めないし書けない。日本では考えられない。このことをとっても、戦後の日本はアメリカ式教育を推進してきたなんてことは妄言であることがわかります。

これらのことを徹底的に体得させるために、アメリカの普通教育は全力を傾注する。この教育目的を達成するために、ありとあらゆる機会を 利用 する。そのために国語も数学も犠牲にされることまでもやむを得ないと考えた。日本と全く正反対じゃあないですか!!


続く…

「ラストフレンズ」

昨日の夜10時半ぐらいからフジTVでやっていた「ラストフレンズ」を観ました。このドラマは毎週観てた唯一のドラマです。何か今の社会的無規範な、モラルの低下と申しましょうか、そういったものが描かれている感がするのです。
昨日までのあらすじはざっとこんな感じです。(ネタばれ注意です)

ソウスケから度重なる暴力を受けるミチルは、幼馴染のルカに助けを求め、ルカの住む住人4人からなるシェアハウスに一緒に住むようになる。そこに住んでいた4人(特にルカ)は力を合わせミチルをソウスケから守ろうと奮起する。しかしその4人も皆訳ありで、ルカは性同一性障害を持っており、自分が女であることを嫌っている。タケルは昔のある出来事が原因で女性と関係を持つことができない体。エリとトモヒコは不倫関係にある。で、実はルカは昔からミチルに密かに恋愛感情的な好意を持っており、ミチルを守るために死ぬ覚悟でいた。
しかしソウスケもあらゆる手を使いミチルを取り戻そうとし、「仲間がどうなってもいいのか!」と脅しをかけミチルをわが手に戻すことに成功する。ミチルは仲間の安全を第一に考え、自分はソウスケの、事実上の奴隷になることを決める。が、ソウスケはミチルがルカやタケルたちに囲まれて笑顔を見せる姿が映し出されている写真を見つけ、それを孤独な自分の姿と照らし合わせ、やがて死を選ぶ…。


大体こんな感じだったと思います。
このソウスケには両親がおらず(確か)、自分は一人なんだという孤独感に襲われていた。つまり「連帯の欠如」です。この連帯の欠如が何を産んだのか?それは暴力であり、やがては死を産んだ。アキバ事件も同じ構造ではないでしょうか?自分には友達も彼女もいない。「俺は一人ぼっちだ…。」「解雇かよ…俺を必要としてくれるとこなんてないってか。」「社会に嫌気がさした。」「じゃあやってやるよ。俺だってできるんだぜ…」

原因はアノミー、つまり連帯の欠如。アノミーは精神的病気でも肉体的病気でもない。社会の病気です。良心・モラルを喪失させた今の日本の危機的状況の根本の原因は、アノミーにある。そしてこのアノミーの発生の背後には、日本の民主主義が抱える根深い問題と誤解があった。

DVとか親子の殺し合いの原因はアノミーである、ということは今までさんざん言ってきました。
DVや親子の殺し合いが世に知れたとき、アメリカでは「やっぱりな…」と人々は納得する場合が多いらしい。一方日本では「えっ!あいつが?」と感じる人が多い。外見上は“良い子”が当然親を殺す。アメリカでは非行が進行して、その行き着く果てが親子の殺し合い。日本の家庭では、殺しに到る途中に非行化はほとんど介在しない。

だから、ある人が言っていた、今のネットカフェ難民と呼ばれる人や社会的に自立していない人は自衛隊に入れ、と。
それもいいかもしれない。なにせ「連帯」ができる。暴走族に入るか、ヤクザに入る、とそこに連帯ができてアノミーには陥らない。親子殺し合いまで行きつかない。
共同体は必要!つまり公は必要なのです。みんなバラバラの個人になってしまったら…、と、これは以前書きましたね^^

あっ、「ラストフレンズ」。来週最終回だそうです(^^)

全2ページ

[1] [2]

[ 前のページ ]


.
シンフォー
シンフォー
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

ブログバナー

検索 検索


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事