|
最近ひどい模倣を見た思いがあった。それは繰り返しテレビニュースで放映されている場面である。「復興大臣」が記者会見で記者を激しくののしっている場面である。彼はまさしく米のトランプ大統領が主な米国記者たちをののしっている場面そっくりであったからだ。
私は柔道教室では子どもたちに「しっかりと人の技、動作を見て真似しなさい。」と繰り返している。つまり何事も上達するには「模倣力」が有る無しにかかっているように思えるからだ。いいものを人の技を「見て盗む」、つまり模倣する。我々人間のみならず、動物たちは本能的に親や先輩たちの動作や態度を見たり教わって模倣する。そして成長する。この模倣する力がないとそれこそ「生きる力」がない。すなわち「生きる力を模倣すること」は「上達」「成長」「発展」へとつながるものだ。
復興大臣の模倣はその反対で、「下品」であった。人前で感動を与えるようなと答弁ではなく、「反感」と「嘲笑」を買うような模倣であった。彼は勘違いしているのかもしれない。何かトランプ大統領のように最高の「権力者」に成り上がったと思ったに違いないのだ。上には上がいることを彼は忘れていたのだろう。お粗末極まりない大臣だ。
「模倣」して演技するのならば、見ている人たちに感動や称賛を獲得できなければならない。優れたものを模倣しなければならないのだ。彼(復興大臣)は劣悪なものを模倣する力しかないことを国民の前に晒した。すなわち彼は人間として最低の部類に属するように思えて仕方がない。
|
思想・信条
[ リスト | 詳細 ]
|
ユーチューブで音楽演奏家たちの演奏をシェアして聴いている。音楽演奏家(歌手や楽器演奏者等)たちは作曲者や作詞者の思想に思いをはせ、一種の「自己陶酔」しながら演奏している感じを受ける。
致し方ないであろう。「自己陶酔」は「感情移入」でもあるからだ。感情や情緒の欠落した音楽などむなしいからだ。つまり音楽は一種の「感情表現」でもあるからだ。どれだけその音楽を理解し表現できるかは演奏者の理解力や資質と能力にかかっていると思われる。
問題はその演奏家の「自己陶酔」の中身なのだが、それが自分勝手で独りよがりで、聴く者の心をとらえないものであれば、その演奏家は聴衆から忘れ去られて社会から駆逐されてしまうであろう。
ところが演奏家の「自己陶酔」の中身が聴く者の心をとらえ、感動を呼ぶものであれば、聴衆は拍手し彼を尊敬する。
以上のように考えると音楽演奏家の演奏はまず初めに「自己陶酔」があり、その表現が聴衆を感動の世界に導くものでなければならないと言うことであろう。
音楽演奏者は作曲者、作詞者の思想に深く立ち入り、理解し、さらにその思想を表現する力をも持ち合わせていなければならない、という凡人にはとうてい真似のできない資質と能力を備えていると感じている毎日である。
このことから翻って自分自身のことを考えてみたい。私自身もいろいろのことを思い考えることがあるが、その「思い」の基本は「自己陶酔」なのかもしれないのだ。一種の「信仰」みたいなものであろう。
しかしその「信仰」みたいな「思い」(思想・考え)が同調者を得られなかったら、まったくの「独りよがり」の「自分勝手」な「思い」でしかない。けれども私自身の「思想」に同調する者が現われたら、私自身の存在価値があるものとなろう。
人間の本質は「社会的存在」であるのだから、どれほど「自己陶酔」に浸っていてもその表現が社会的にそれが認知されないと、社会的に駆逐される。つまり自己の存在価値は「無」となる。
だから人は一生懸命に「社会的認知」を受けようと必死になってもがくのだ。私自身ももがいている毎日である。
|

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- クリスマス
|
最近、怖い事件がニュースを騒がしているように思えて仕方がない。一つは直近のニュースで、駅のホームに立っていた女性が突然後ろから突き落とされたという。幸いやって来た電車が手前で急停車したという。だから無事であったが、奇跡的に助かったというほかない。
また車が歩道に乗り上げて歩行者をはねて死なせるという事故が多発している。車は小学生の集団登校の列に突っ込み、小学生を多数死傷させている。飲酒運転とか逆走が頻発している。
人身事故・事件ばかりでなく、地震・水害などの自然災害による死傷者も絶えない。どうしたらこのような災害から身を護ったらよいのかわからない。皆、突然やってくるものだからだ。油断も隙もない。
「どうしようもない。」とあきらめるほかないのだろうか。外出したら、どんな事故・事件に合わないとも限らない。家にいても外部の侵入犯に襲われる時代である。まさに突然だ。そのようなニュースを見るとたまらなく悲しくなる。
地震、落雷、洪水などの自然災害は人力では防ぎようがない。
私は地域の防災・防犯の「責任者」としてどのように対応すべきか悩んでいる。毎日防犯用の帽子や上着を身に付けて地域周辺をパトロールしているのだが、気の休まる暇がない。防災に関しては市当局と連携して地域の人たちに「注意」を喚起しているくらいである。
事件などの「犯罪」に合うと取り返しがつかない。死亡事故・事件などはその典型だ。「突然」やってくるものに対してどうすべきか。
「日頃の心がけ」なのだろうか。事件・事故に対しては油断なく神経をとがらし「周囲を見渡して」注意する。
自然災害に対しては「心構え」を常に抱いて「準備万端・用意周到」でいなければならないのだろう。
「恐怖の時代」においても「準備万端・用意周到」でいなければならない。この「準備万端・用意周到」の思想は普遍的な感じもする。
私の柔道教室でも練習日には必ず子供たちにこの「準備万端・用意周到」の考えを訓示して、同時に私自身に言い聞かせている。
|

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- クリスマス
|
沖縄県に派遣されて警備に当たっている大阪府警の機動隊員が沖縄県民に対して「土人」とか「支那人」とか言って罵声を浴びせていた事件をニュースで見た。しかもその機動隊員は20代だという。
このような「土人」とか「支那人」という「死語」化したと思われる差別語は我々のような高齢者しか知らない言葉だ。それをわずか20代の若者が相手を罵倒する言葉として使っているということは、普段から大阪府警内で年配の上司たちが沖縄県民に対して使用していることだ、と推測できる。驚きだ。たまげたのは私ばかりではないであろう。
若しわが日本国内でなく、アメリカであったりヨーロッパの国でこのような「差別語」が使われたとしたら、タダではすまない。厳しい処分の対象だ。
私には教え子で新潟県警の機動隊員がいるし、義理の兄弟にも警察官がいる。また私が住んでいるこの地、上越市にも多くの警察官のお世話になっているので、大阪府警のような警察官は想像外であった。それがまた松井大阪府知事がこの問題機動隊員を注意指導するどころか「ねぎらい」の言葉で出迎えているというニュースも見た。どうなっているのか頭が混乱する。
心身への暴力、特に言葉の暴力は簡単に拭い去ることはできない。肉体的暴力も精神的暴力も日本から消えることがないのだろうか。
中東や南スーダンなどで内戦が続いているが、日本では沖縄県内で一種の内戦が生じているような気がしてならない。韓国のように沖縄県もきっと独立に向かって立ち上がるかもしれない、と思える事態が起こった、と感じてしまった。
|

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- クリスマス
|
今東京都の築地市場の「豊洲市場移転」問題がかまびすしい。この問題がマスコミに取り上げられ、うるさく議論されるたびに私の頭の中は「人間性の劣化」という言葉が支配する。
つまり「人間性」とは人間の持っている資質能力である。「劣化」とは「劣悪化」と言うことで資質能力が衰えていくことである。
人間は誰しも高齢化とともに資質能力が衰えていくものだ。臓器の衰えから頭脳の衰え、判断能力、理解能力など、心身共に衰えていく。
「資質の衰え」というと、私は「性格の衰え」のようなものを連想する。すなわち社会性、協調性、積極性、意欲、責任感などである。これらの性格=資質が劣化するのだ。
「能力の衰え」はわかりやすい。「能力」というから「肉体的な能力」から「精神的な能力」まで多様である。これなどは高齢化とともに目に見えて衰える。
東京都の問題の「人間性の劣化」は、都の職員とか都議会議員たちの高齢化に6おる劣化ではなく、まさに人間としての「資質能力」の劣化である。
都職員や都議会議員たちの資質の劣化は、「社会性の劣化」であり、「責任感の劣化」である。能力の劣化においては精神の劣化がはなはだしく感じられる。「判断能力の劣化」であり、「理解能力の劣化」などである。
人間が高齢化せずに「資質能力が劣化」する原因は何であるのか、深刻に考えざるを得ない事例を東京都は提供していると思われる。
まず組織について考えてみた。組織的に活動する人間はその行動に「責任」を持つはずである。しかし都職員は知事を筆頭に、責任を取らない組織体制のようだ。知事をはじめ、課長、部長、局長、副知事、知事と責任の所在を明らかにしている押印においても「知らなかった」で済まそうとしている。責任を取ろうとしないのだ。
「責任を取る」ということはその行動において「損害」が生じたとき「損害賠償」の義務を負うということである。「押印」には「損害賠償の義務を負う」という「所在」を明確に示すものである。
都の職員や都議会議員たちが「知らなかった」で済ませ、「責任」を回避しようとする姿勢、つまり「押印」の意味も理解できず、「何をなすべきか」の判断能力も欠けている原因は「押印しても責任を取らない」で済む組織体制にありと見た。
「行動に責任なし」では「緊張感」も「行動の意味」も理解しないまま行動するであろう。行動に「損害賠償の義務」なしでは、その影響を受ける人間に対する経済的、社会的、人的損害に対して「賠償しなくてもよい」ということになるから、いわゆる「犯罪が横行する社会」となってしまう。
その極みは「強盗殺人社会」だ。東京都は「窃盗社会」に成り下がったのかもしれない。東京都の問題は「犯罪横行社会」になったと、そんなことまで考えさせる問題を孕んでいると感じた。
|



