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小学校の指導要領に「生きる力」を付ける、ことが重要課題として取り上げられている。そこで私は考えた。「生きる力」とはどう言うことを言うのだろうかと。私なりに考えてみた。
「生きる」の反対は「死ぬ」ことだ。年齢を重ねていくと、様々な「死」に直面する。自分自身の死をも見つめることとなる。たとえば、①「呼吸」することさえおっくうになる。②食欲もなく、タダ寝てばかりいて、排便すら自分でできなくなることは、もうおしまいであろう。私の近所の人がそのようなことを言って、亡くなってしまった。③外界の事象に興味関心がなくなる。つまり知的好奇心がなくなることにこれは通じている。④病気がちになる。不治の病にかかると人は絶望するであろう。⑤けがをしやすくなるから、息をするたびに体中のあちこちが痛い。⑥活動意欲が亡くなる。たとえば学習意欲をなくすとか運動意欲をなくすとかは学生時代にありがちだ。⑦意欲がなくなるのは「能力」がなくなることと深い関係にある。つまり「能力」がなくなるから「意欲」が湧いてこない。⑧はたから追いつめられて行き場を失う。借金やいじめなどがその類かもしれない。⑨未来への絶望など、「希望」を失うこともある。絶望の原因は様様であろう、絶望は意欲をなくす。能力の喪失は絶望となる。
以上のようなことを日々徒然に考えていると、「生きる力」とは結局「各種の能力をもって意欲的にに活動する力」であると考えてしまう。「能力」がある、ということはすごいことだな、と思ってしまう。
私の柔道教室から少年と成年の部で二人の国体選手が出た。もうじき「愛媛国体」に向かう。国体選手になるということは「県一」になるということである。私にとってみれば「夢のまた夢」である。彼らの父親の目から見ても同様であろう。すごい能力を持った人間が近くに現れたものと感じている。
秀才、天才たちにあこがれている昨今である。
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つれづれ
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北朝鮮の挑発が続く。韓国も日本も米国もこの挑発に様々な対応を取っているようだ。日米韓三国は本気で北朝鮮をつぶすつもりでいるようだ。北朝鮮は言葉ではこれ以上にないと思われるほどの「脅し文句」で日米を挑発している。その言葉がそっくりそのまま北朝鮮に襲い掛かることを想定しているのかもしれない。
問題はどちらにしても悲惨な状況をつくりあげるであろうということだ.第2次朝鮮戦争は、第3次世界大戦に拡大する恐れさえある。その時は第2次大戦を上回る惨事を引き起こすことになるであろう。私はどうしたらいいかわからない。
日本では、「Jアラート」が日本中に鳴り響き、交通機関はマヒする。飲食は欠乏の極みとなるであろう。住民は右往左往するだけで「飢え」と「渇き」でただ「死」を待つだけとなる。そうした中で、生き残る「すべ」は何か、を考える。
まずは、「飢え」と「渇き」から逃れる「すべ」を見つけ出すことだ。その「すべ」とは農家の人と懇意になることであろうと思われる。なぜならば農家には「飲食」に困らない「すべ」があるからだ。
私はこれまでの立場を思う存分にいかして「生き残りの道」を探すであろう。爆弾の餌食にはなりたくないから。
日本政府は口を開けば「国民の命と財産を守る。」というが、まったく信じられない。「自分の身は自分で守るほかない。」と思うからである。
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今、高校野球をテレビ観戦している。野球高生たちのはじける若さを堪能している。16歳〜18歳ほどの年齢だと思うのだが、彼らははじけいる。高校生や大学生たち、20歳前後の彼らは思う存分にはじけている。「精気溌剌」である。
考えてみれば私自身も半世紀以上前そういう時代があったのだが、忘れてしまった。今の高校生を見ていると、かわいい顔して何という大きなエネルギーを発散しているのだろうと感じてしまう。私の時代は高校生というと多くの生徒が「おっさん顔」していたのだが、今では上品な「可愛い顔」をしていると見えるし、またパワーも巨大なものを感じさせてくれる。
こうした高校生のはつらつとしたプレイを見ていると気もちの良さを感じる。柔道でも同様であるが、日ごろ小中高生たちと接しているとあまりにも当たり前に見えて、「感動」を忘れてしまうのだが。やはり「全国大会」を見ると違うものを感じてしまう。皆、完璧すぎるとお思えるほどのプレイをするからだろうか。
つまり「全国大会」に出場するプレイヤーは皆秀才というか優秀な「天才」たちの集まりなのかもしれない。スポーツも芸術も皆天才たちのプレイはすごすぎる。100分の一というか1000分の一、10000分の一ほどの天才たちを見ていると私のような凡才の仕事がわかってくる。
つまり凡才たちは天才たちのために存在しているのだ、と。凡才たちは天才たちや秀才たちを育てる環境づくりをすることだということだろうと思われる。それは一言で言えば「平和」である。テロリズムや大量逆殺は結局は天才や秀才たちをこの世から消しているのだ。許せない。「戦争」はダメ。戦争は愚劣なものたちの火遊びのように思える。
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朝鮮情勢が厳しさを増している感じがする。北朝鮮の動きと米政権の動きや周辺国の動きを見ていると平穏無事に終わりそうにない。日に日にエスカレートしている感じがしてならない。
平穏無事ならばそれに越したことはないが、もし北朝鮮か米国がこのチキンレースにどちらかが我慢ならずに暴発してしまったら、我々はどうすべきなのだろうか。北朝鮮は「日本は焦土化する。」と言っているが、北朝鮮も、朝鮮半島も「焦土化」するであろう。
かつて、町内会の役員たちは、率先して「戦争協力者」になっているから私としてはどうすべきか不安で仕方がない。先ずは町内の人たちの安全対策を講じないといけないであろう。つまり「住民の避難」であるが、「焦土化してしまう国土」においてどこに避難すべきかわからない。自然災害時の避難先は前もってわかっているが、戦争時の避難先は決められていない。市当局へ問い合わせてみないといけないかもしれない。
其れにしても私はこの歳(74歳)になって右往左往するとは思いもよらなかった。戦後は平穏無事で過ごしてきた。私の父親は私に「車の免許を取ったらいけない。車の免許保持者は真っ先の戦争に引っ張られる。」と自分の経験談から子供に以上のようなことを言っていたので、私は自転車で過ごし、車の免許は持ってこなかった、けど戦後の平穏無事の情勢に安堵して、私の子供たち3人には車と免許を買い与えたのである。
現在の情勢に対してをどう過ごすべきか悩んでいる。どうしたらいいのだろうか、災害時と同様に対処する以外に方法が見つからない。やはり「安全第一」に行動すべきなのだろう。市と密に連携を取って「避難方法」の最善を図っていくほかないように見える。
何か良い意見があったら教えてほしい。
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MHKのニュースで「『飢え』が8億人」をみた。「飢え」は深刻である。私の昭和20年代は小学生時代であったが、先日、同時代の人たちょっとした旅行をした、小学校時代の話に花が咲かせておかしかったが、それは「飢え」であった。今思えば「飢え」も笑い話で済むが、当時は深刻であった。
とにかくその「飢え」をしのぐためにガツガツしていた。ハチの巣を取ったり、食べられる草を積んだり、他人の弁当をあさったり、それはそれなりにこども心で、「飢え」をしのごうと必死であった。
そんな日々を送っていた私の集落にはちみつ業者がやって来て、はちみつを売りだしたが、お金がないので、眺めているだけだった。ところが近所の人がそんな私を見てちょっとだけはちみつを舐めなせてくれた。とてもうれしかった。けれどもヒモジサも同時に味わった。
私の登下校の道沿いは畑である。トマト、キューリ、ナス、スイカと農家の人たちが丹精を込めて作っている畑作物があった。下校時にその畑に入って作物を「盗み食い」してた。夢中になって「盗み食い」をしていたので、他人が来るのがわからずにいた。そのために見つかってかなりきつく叱られたことを覚えている。
「ひもじい」ことは悲惨である。戦後、石炭ガラを口にして死んでいった人の話があった。他人ごとでないと感じたものだ。
この地球上で「飢え」で苦しんでいる人口が8億人と聞いて私の当時の悲しさがよみがえってきた。
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