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今日の1月15日(日)は午前10時に「町内会定例総会」と終了後に「役員会」が予定されていた。13日(金)から今日の15日(日)の朝まで大雪で、雪が降り続いた。町内会館前は雪で埋もれていた。除雪しないと入れない。そこで、昨日の午後(柔道教室終了後)、町内会館前に通り道を作ったが、後から後へと雪が降り続くので、除雪した通路はすぐに雪で埋まってしまう。
仕方がないので、今日は朝早くから(6時過ぎ)町内会館前の除雪に取り掛かった、幸いにして、今日は除雪作業中とその後に降雪がなかったので、作った通路は雪に埋もれずに済んだ。
私は午前10時40分前に町内会館にきて準備に取り掛かった。他の役員たちも10時前にやって来て町内の人たちが来る準備をした。これまでになく大勢が集まった。(私の町内は218世帯もあり、まだまだ世帯数が増える勢いである。今数軒が新築中である。)
10時ちょうどに定例総会を始めた。総会は前年度の会務報告、会計報告、今年度の事業計画、予算案と進んで行った、今回の総会のメインは新年度役員の選出である。私以外は皆入れ替わった。私だけが12年以上も役員をやっている。私は自分の年齢を感じる歳になってしまった。
総会終了後、すぐ役員会を開催し、今年度の様々な事務的な話となって13時頃に終了した。たっぷりと3時間の長丁場の会議であった。帰宅後は総会の「議事録」の作成及び役員会の「議事要旨」作成に追われた。そしてそれをコピーして役員たちに配布した。
一段落し終わったのは午後5時過ぎとなった。その時間になってやっと「大相撲」をテレビで見た。資料作りにも時間がかかるし、会議の後の議事録作成に時間がかかる。まさに私は会長職と書記職を兼務しているのだ。
いつまでも一人でドタバタと活動しているわけにはいかないとつくづく感じている。後継者選びを真剣に考えないといけない時期にかかっている気がする。
また私は市の防犯協会の役員もやっている。私が担当している防犯地域は新幹線の周辺であるから、神経を使う。総会の席でも言った。「防犯と防災活動には『取り返しのつかない事態』を生まないことが重要だから、皆様方もそのことを念頭に置いて行動してください。」と。
そのためにも「率先避難」と常日頃の「防犯パトロール」の大切さをいろいろの観点から説明した。やはり町内の責任者としては一番は「防犯・防災」であろうと考えている。
以上のようなことで過ごした今日の一日であった。
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今日の一日
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今日は義理の兄の葬儀に行ってきた。昨年も義理の兄の葬儀があったばかりである。つまり私の妻は三姉妹の三番目であるから、姉二人の夫が昨年に続いてこの2月の初めに亡くなったのだ。だから三姉妹の夫の内、私だけが今「生き残っている」と言うわけである。
お経の文句の中に「夕べにして白骨と化し、云々」とあった。そして「生のはかなさ」と言う言葉もあったようだ。お経の文句はまったくわからないが、時々日本語で語るところがあるので聞き取れるところがあった。
斎場で「なきがら」を焼くわけだが、まさに単なる「白骨」の「灰」となって、骨壺に入れられてしまう。「生のはかなさ」を直に見つめることになる。
人は「生」を受けたときと「死」を迎えたときは誰もそのひとの悪口を言わない。生きている間に「死」を迎えたときのような言葉をもらいたいものだとつくづくと感じた1日であった。
町内会長をやっていると町内の人ばかりでなく、関係町内からも毎年いくつかの葬儀に顔を出す機会が増える。また70代ともなると親戚縁者たちの葬儀にも頻繁に立ち会うことになる。
「死」を見つめると、「生のはかなさ」は理解できるが、だからと言って、「無為」に過ごすわけにも行かない。
「精一杯の生き方」もあるのではないかと考えてしまう。「生き残った」人間の「生き様」もまた「乙」なものと思ってしまうからだ。人間の「死」は平等であるけれども人間の「生」は不平等である。
「生」あるものはすべて「死して白骨と化し」無差別であると思うのであるが、「生」に関しては不平等である。
知能の有無、技能の有無など人間は持って生まれた能力に優劣の差があり、不平等である。生まれ育ちの違いすら存在している。優れた環境で生まれ育った者と危険極まりない環境で生まれた者とでは「雲泥の差」が存在している。
またその育ち方が「生き方」すらも規定する。たとえば「学歴」にしろ「職歴」にしろ、各種の「履歴」においてその違いを見せつける。
その意味で「生きている」人間は各種の差別の中で生きていることとなり、人間は「死」して初めて不平等から解放されるということかもしれない。
生きている人間は必死になってこの不平等の関係の中を生き抜く。つまり、弱者は弱者から這い上がろうともがき、強者は強者のままとどまろうと弱者になるまいともがく。こうした生き方が「精一杯の生き様」なのかもしれない。
こうして人間は不平等社会において自分は自分なりの「生き方」しかできないのである。生まれ育ちが「弱者」の環境なのか、「強者」の環境なのか。それによって生き方は変わってくるであろう。
ひるがえって私自身のことを自問してみれば、私自身は「強者」の環境で生まれ育ったのかもしれない。「戦中生まれの戦後育ち」だからである。「戦争のない平和社会」のなかで、それなりの「学歴」を持ち、「職歴」を持ち、各種の「履歴」や「家族」を持っているからである。
今日は「死」を見て「生」について考えてみた。とにかく結論は「精一杯に生きる」と言うことだろう。
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毎年のことであるが、年始は「駅伝マラソン」で始まる。実業団駅伝、学生の「箱根駅伝」などを見ると、日本中が「駅伝」で沸き返っているようだ。また駅伝競技は年始だけでなく、年中行われている感じがする。
私の頭の中にある全国規模の駅伝競技は「高校対抗駅伝」(男女)、「大学対抗駅伝」(男女)、「都道府県対抗駅伝」(男女)、「実業団対抗駅伝」(男女)など、たくさんある。そのほか「マラソン」もある。
その各種の「駅伝」や「マラソン」を見て感じることは沿道に詰めかけた途切れることのない観客でいっぱいになることである。この大勢の人数を見ると、野球観戦やサッカー観戦などの観客数とは比較ならないほどの大人数である。しかも全国のお巡りさんたちが何十キロにわたる沿道の整理に当たっている。
まさに「平和日本」を感じる光景だ。こんな人ごみに爆弾でもしかけられたら被害は想像を絶する。その意味でも「平和」を維持しなければならないとつくづくと思うのである。
日本からそうした「平安」を乱す「暴力」(テロ)を防止するためには、「町内会」として何ができるか、考えた。
「町内会活動」として多くの行事があるが、その行事に一人残らず「仲間」に入れて活動することであろうと思う。「祭り」にしろ、「運動会」にしろ、「クリーン活動」(清掃活動)にしろである。
日本中にくまなく張り巡らされている「町内会」(自治会)と言う組織はその意味で、つまり平和を維持するという意味で有効かもしれない。
ところが新旧が混在している地区ではどちらも勘違いしていることがある、つまり新世帯は「町内会」(自治会)と言う組織を不要の組織として見ている。また旧世帯では殿様気分でふんぞり返っている。だから新旧の両者はかみ合わない。
夜の街灯、ゴミ収集、下水、地区のお知らせ(情報伝達、回覧など)、防犯・防災活動、祭り、運動会、地元小中学校の行事(児童生徒の活動状況)などから、道路・河川・公園などの問題、除雪、排雪など生活全般にわたって関わりがある。
町内会(自治会)組織に入らないということは「町内会員」(自治会員)の苦労(負担)の上にあぐらをかいてすましこんでいる、ということであって、それは許されないことなのだが、「入会するか否か」は個人の判断で自由なのだ。
この件においては「強制力」がない。役員が入会を拒否する新世帯に対して「説得」する以外に手立てはないのだが、その役員自身がお高く留まって、上からの目線で物言うから信頼がない。
人間関係は「信頼」を築くことが大切だ。「信頼」を築くためには「誠」を尽くす、と言うことであろう。そこにこそ「平安」がある。
「箱根駅伝」を見ながら以上のことを考えた。
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1月2日は学生たちの「箱根駅伝」だ。「駅伝マラソン」と言うと私の高校時代(昭和30年中頃)を思い出す。高校時代、校区一周の全学年のクラス対抗戦であった。私のクラスは3連覇した。私も走った。だから金メダル3個も獲得した。そんな若いころを思い出す。
また午後になるとNHKNのBSで「認知症」に関する番組を長時間やっていた。身近な深刻な問題なので、しっかりと見ていた。そして実行しなければならない対策を以下のようにまとめてみた。(私自身が実施しているようにまとめた。)
1.運動:速足ウォーキング:一定の速度を保つために数えながら速足でしかも歩幅を広くして歩く。そして軽いジョギング(家の中でもできる程度)
2.ストレッチング:関節や筋肉の柔軟性を保つ。特に股関節の柔軟性と筋力をつける(四股と伸脚をする)。
3.食事:野菜・魚類を摂る。肥満にならないこと。生活習慣病にかからない。血圧に気を付ける。
4.記憶力の維持:高校数学、高校英語をコツコツとt続ける。従来のようにブログやフェースブックを続ける。
5.会話を楽しむ:地域活動、町内会活動を積極的にやり続ける。人間関係を豊かに保つ。
結局、「認知症」の予防策とは、「精神と肉体の健康を保つこと。」ということである。それでも加齢とともにやたらと「探し物」がおおすぎる。毎日どたばたと探し物をしているということは、「認知症」の前触れだという。柔道指導を週3回やっているからと言って安心できない。立派な体格の持ち主の柔道の先生が「生活習慣病」の診断を受けているからだ。
私は認知症の診察を受けてみる必要があるかもしれない。困った。気を付けないといけない。
先日の「健康診断」(詳細な血液検査も含めて)は「問題なし」ではあったが、「頭脳」の診断はしていない。「早期発見」であれば、何とかなるという。
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今日のの5月8日は地元神社の春の例大祭であった。午前10時半から地元保育園児の「お遊戯」が境内で行われた。かわいい子供たちであった。午前はこれでおしまいだ。
私がここで言いたいことは地元保育園児の「お遊戯」が終わったら、地元小学校児童のブラスバンドなどの演奏があればもっと楽しいのに、ということである。
保育園児の「お遊戯」に子供のご両親や家族づれが見に来て神社境内はにぎわっていたからである。小学生のブラスバンド演奏があれば、子供たちの家族ばかりでなく地域の人たちでもっとにぎわうはずであると思うのだ。
午後は神社内で神官たち7名と地元町内会の役員、氏子総代やその他神社への奉納者たちにちによる例祭の儀式である。
1時間半もの時間をかけての儀式であった。いつもは45分で終わっていたが、今日はその倍の時間をかけての儀式であった。理由はわかない。聞かなかった。
夜は神官たちによる神楽が演じられ、地元の日本舞踊教室の踊りが奉納された。
私はちょうどこの時間帯は自分のところの町内会館で「学習支援教室」のために見学はできなかったが、昨年まではいつもこの時間帯での催し物に観客はまばらなのだ。
この催し物に、地元の子供たちが神楽とかその他舞踊を演じれば、まずその親御さんたちが見学にやってくるはずである。
わが地区の神社の春と秋の「お祭り」に小学生も中学生もまったく不在なのだ。よその神社では子供が主体となっているのに、わが地域では子供がいなくとても寂しい。(わが小学校には200人超す児童がいるのだが。)
聴くところによると「子供の指導は面倒くさい」ということらしい。それでいて、「春祭り、秋祭りをもっとにぎやかにできないものだろうか。」という嘆きの声しか聞こえてこない。
地域をにぎやかにする大切な一つの方法は子供」を主役に据えることだ。
私が会長をしている青少協で、今年中に何とか神社活動と結び付ける方策を考えることにする。
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