町内会活動と地域活動

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昨今、「保守主義」について議論されている。それはあの「森友学園」における幼稚園児が戦前の天皇主義に基づいた「教育勅語」を暗唱したり、文科省がその「教育勅語」を教材として認めたり、保健体育の「武道教育」に「銃剣道」を取り入れたからである。

もちろんかなり前から「保守主義」とか「革新主義」とかは議論されてきているが、昨今ではそれがマスメディアに大々的に取り上げられて世間の社会的「空気」になってきたということであろう。私も考えさせられ、即答ができない状態にあるが、無理して考えてみた。

その「保守主義」にも「真」と「偽」の修飾語がつくからわかりにくくなっている。日本に取って「偽の保守主義」とは「旧守派」のことで、さらに言えば「戦前回帰派」で「天皇神様主義」のことのようだ。そのような「守旧派」は「国家主義」であり、「主権在民主義」(国民主権)を否定する「主義主張」であるから「国民一人一人の生命財産は国家に捧げるもの」とし把握されている。

これに対して「真の保守主義」とは、戦後の「民主義体制」を擁護する「戦後派」なのであろう。つまり現憲法を擁護する「護憲派」なのかもしれない。「護憲派」とは憲法で言う「平和主義、基本的人権、主権在民」の三原則を擁護する「主義主張」であるように思える。

*三原則には、それぞれ細かいものがあるようだ。「戦争放棄」とか「自由」とか「幸福追求」とか「平等」とか、現憲法の前文を暗記することの方が大切であると、「戦後派」は考えるだろう。

以上のように考えると保守主義の「真・偽」のほどがわかってくる。森友学園の教育思想は「「偽の保守主義」の「戦前派」であることがはっきりする。その教育思想に賛同するものが「偽の保守主義者」であろう。現在、やかましくマスコミをにぎわしている「保守主義論争」を私は以上の観点で見ている。

「空気」に流されず、「自分の頭」で考えて、「客観性」と「無矛盾性」で物事を考えないといけないと若き日の学生時代に学んだのであるが、難しいものだ。
 数十年前に、ある中学校の校長先生に聞いたことあった。「校長として一番心を砕くことは何ですか?」と。その校長は次のように回答した、「生徒が死ぬことである。」と。

 私はその言葉を茫然として聞いた。私としては想定外の回答であったからだ。けどしばらくしてなるほど「校長先生は究極の事態を想定して学校を運営しているのだな。」と思ったからである。この校長先生に感心してしまった。その後の私にもこの考え方は影響した。

 つまり組織の責任者としては「取り返しのつかない事態を生まないことに腐心すべきだ。」ということである。目先の成果よりも長い目で物事を考えて、子どもの安全に配慮し、保護者の安心を取りつけなければならない。

 つまり「子どもに取り返しのつかない事態を生まないことに腐心すべきである」ということである。そのためにも「準備万端、用意周到」で頸椎損傷のような大けがを防ぐ「柔道教室」を運営しなければならないのだ。

 それは町内会の運営も同様である。町内の住民が安全で安心して生活できる「環境整備」に務めなければならない。そのためにも「防犯・防災」のための「準備万端・用意周到」でなければならない。

 このところのニュースで「小・中学生の自殺」が頻繁に報道されている。主に「いじめ」がその原因としてある。私は毎回柔道教室で子どもたちに復唱させているのが
「弱い者いじめをしてはなりません。」というあの「什の掟」の一節である。また柔道教室でのトレーニングでは子どもに「基礎体力・基礎運動能力」を付けて、「けがをしない体力づくり」に時間を掛けている。また地区柔連の会長もまた私のトレーニング法を認めて下さっている。心強いことである。

 けれども町内会活動での「防犯・防災」に関する活動は不十分とみている。「準備万端・用意周到」と言ってもその程度に限界がないからである。また私が一人でできる仕事でもない。積極的な協力者が必要だ。毎年町内全域で「防犯・防災」の活動をしているが、不安は尽きない。

 「防犯・防災」の組織は万全にできていると思うのであるが、なにせサラリーマン家庭がほとんどの200を超える世帯の新興団地である。まずは徐々に体制整備をしていく以外に準備の方法はないように思われる。その意味でも他の町内の活動実態を調査している。

「自覚」のむずかしさ

先日地元小学校で学校運営協議会があった。その席上学校側は「学ぶ、こころ、からだ」について学校の取り組みを説明した。つまり「学力強化」「社会性・協調性強化」「体力強化」などについての説明である。

「学力強化」についてその取り組みについての説明で、テストや練習問題などの「○付け」について説明があった。私は質問した。「『○付け』はできたところを確認する作業ですが、できなかったところの確認作業はどうしていますか。」さらに、

「私は柔道教室では、『大会などの試合』で勝ったところは自分のいいところなので、それを伸ばす練習をし、負けたところは自分の弱いところなので、これを意識して克服するように練習をしなさい。この自分のいいところと弱いところを意識して練習することを『自覚した練習』と言います。」と言っていますが、学校では「自覚した練習」をどのように指導していますか。」と聞いた。

しかし、校長先生は「『自覚する』ということについて特別な指導はしていない。早く前に進むことにきゅうきゅうしている。」と。

だから私は柔道教室に通ってきている子供たちに「学校のテスト問題で『○付け』だけでなく、間違ったところをどうして間違ったのかを意識して間違わないように練習をすること。算数の計算問題、国語の漢字の問題も同様に間違ったところを意識して、体で覚えるまで練習しなさい。これを『自覚した練習』と言います。」とくどいくらいに言って聞かせているのだが、学校では「○付け」だけで済ませているらしい。逆に「×付け」なども意識してやらせるといいかもしれないのだ。

子供も大人も「〇」が大好きで、「×」は嫌いなのだが、失敗を繰り返さないためにも
自分の「弱点」の克服に努めなければならない。小学生の内はいくらでも取り返しができるが、大人になってからでは手遅れになってしまう。急ぐ必要はない。「○付け」と「×付け」を意識して長所は伸ばし、短所は克服する努力が必要だと考える。

今日の「土曜教室」でも合同練習に来た市内と近隣市の中学柔道部員に以上のように「自覚した練習」について訓示した。中学生は小学生と違ってかなり理解した顔付きで聴いてくれた。これから口酸っぱくこの「自覚」について手を替え品を替えて訓示するつもりだ。
前回「没個性化」時代の矛盾について述べたので、今回はさらに「その2」として講演内容の矛盾について述べたい。

それは子供たち(特に中学生以上高校生・大学生たち)は「個性」を嫌い、自分の持って生まれた個性を消そうと努め、「没個性化」に努めようとするから学校教育現場での「個性化教育」と矛盾する、と前回述べた。

ところが子供たちはまた「承認競争」(筑波大学の講演者の言葉)を展開しているという。その「承認競争」がラインでのやり取りであるという。ここに私は矛盾を感じるのだ。ラインでのやり取りは「没個性化」の表れであると言い、同時に「承認競争」でもあるという。

「承認競争」とは「自分を見つめてほしい」「自分を認めてほしい」という欲望の競争でもあるという。その「自分」とは「特別でもない自分」「なんでもない自分」を見つめてほしいというのである。

ところが、「承認」してほしいという欲望がある場合、まず「自分」が他人よりも何かの点で秀でていなければならない。けれどもネットで「承認」を求めている子供たちは皆「凡人」(没個性化した人間)たちなのだ。

ここに「矛盾」がある。「凡人」が「承認競争」を展開するとどうなるか。講演者は凡人である子供たちは「悪」の餌食になるという。まったく見知らぬ人にネットで言い寄られて餌食となるというのが「現代のネット社会」であるという。

「没個性化」した社会、「現代ネット社会」は危険極まりない。つまり「悪」がはびこる社会だ、ということである。別の言い方をすれば現代社会は「犯罪者社会」だ、ということだ。

「犯罪」はどの時代にもあるのだが、特に今日の現代社会は「「没個性化」した子供たちが巻き込まれる「犯罪社会」と言うことになる。

人間は個性的であろうと没個性的であろうと社会の一員として生きてゆく存在、すなわち「社会的存在」でるから、社会で「承認競争」を展開しようとする欲する「承認欲望」は人間の本質である。

とすれば、自分の「存在承認」を求めようとする子供たちは、必然的に「個性的」とならざるを得ない。「没個性」というのは「承認」が不可能である。目立たない人間が目立つ行動をとること事態矛盾である。

だから結論的に言えば、子供たちの「没個性化」ということは私には信じられないのだ。人間は子供も大人も「個性化」に磨きをかける存在である。子ども自身が「個性的」という言葉を嫌って、「没個性化」を図る、と言ってはいるものの実際はどうなのか、ということである。

現代は「個性の喪失」時代(没個性化時代)ではないのだ。ラインの問題は別の視点から分析する必要があるように思われる。ラインが「没個性化」の象徴とは思えない。だから筑波大学の教授先生が講演した内容に異論を述べたくなった。
今日10月16日(日)の午後、わが上越市で「防犯講演会」があった。講師は筑波大学の社会学の先生(教授)であった。演題は「ネット・トラブルをめぐる虚と実〜つながり過剰症候群の時代へ〜」であった。

結論から言えば、現代のネット社会において中学生たちが最も嫌う言葉が「個性的だね。」と言われるということであるという。そこで子どもたちは自ら「個性」を消しにかかり、均質化(同質化)に向かうというのだ。つまり現代は「個性喪失の時代」(没個性化時代)だという。それがline(ネット)による「通信」であるという。

このような講演内容を聞くと、私がかかわっている地元の小中学校教育における心配事である。学校教育現場では「個性化教育」と言って、生徒児童の個性を重視して個別的にその子どもに合った「個性化教育」を推進しようとしているのだ。

そもそも生徒児童の「個性」と言った時、それぞれの子どもには「得意不得意」があり、「覚えの良い子」、「覚えの悪い子」、また各教科(国語、算数(数学:代数、幾何等)、理科(地学、物理、化学、生物等)、社会(地理、歴史、公民等)、音楽(器楽、声楽等)、美術(絵画、彫刻等)、保健体育(医学、球技、体操、陸上等)、外国語(英語、独語、仏語、露語、中国語等)によって得意不得意や興味関心の度合いも異なるであろう。特に音楽・美術・体育等の技術系においてはその内容(器用さ)において顕著であると思われる。芸術系(音楽、美術、舞踊、演劇)においてはあまりにも個性が顕著である。

まさにこうした学校教育現場においては生徒児童の個性は顕著であると思われる。ところがこの子どもたちはその「個性」というものを一番に嫌うというのだ。そこで、子どもたちは、自ら持っているその個性を消そうと必死に努力して「没個性化」(個性喪失)をネット社会(特にline)において図っているというのだ。

そうであるすると学校教育現場は大変だ。文科省は学校教育現場において「個性化教育」を最重点目標に掲げているからだ。学校現場の先生たちはこうした事態をどのように分析して実践しているのだろう。先生たちが児童生徒に「個性化教育」を図ろうとすると子供たちに「拒否」される事態を生むから、面倒なことになる。まさに「凡人化教育」が幅を利かすことになる。

筑波大学の先生(教授)は筑波大学でどのような教育をしているのだろうか。筑波大学で学生たちに「凡人化教育」を施しているのだろうか。質問する時間がなかったので質問をしなかったが、地元小中学校の先生方に聞いてみようか。

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