伊勢という地名は、五十瀬(いつせ)からの地名という説がある。
いつせとは、いくつもの瀬があるということ。
伊勢は、いくつもの川が流れる地であったようだ。 それゆえに山から川へそして海へ栄養分が流れ、天照太御神がご鎮座される豊かな地であったのであろう。
さて、今年ももう台風の時期だ。 自然と人間の戦いというか、共存の時期である。 それは過去も現代も形を変えて向き合い続けているものである。
今回、尊くも民のために自然と向き合い 柱 となった 伊勢地方の4人を紹介する。
現代的にはナンセンスなことなので、影響されないようにしてください。生きて貢献することが私たちのできることですから。
①松井神社(伊勢市中島町)〜 松井孫右衛門人柱 伝説
孫右衛門は、毎年の洪水から町を守るため宮川堤に自ら人柱となり宮川堤の難工事の成就を願 って自ら人柱となり、堤防に埋められたという。。
孫右衛門西向き花のここ浄土 〜 山口誓子
度会郡田丸在、曽禰村里中勘吉と言うの四男で、山田中島町字中野の風呂世古に住した伯父の養子となった。古来宮川の堤は洪水の為に数々破損し、 その度に家屋の流失、田畑の荒蕪を来して住民の嘆きであったのを、この孫 右衛門は座視するに忍びず、人々が、この上は人柱でも入るるので無くば堤防も完全に出来まいと言うを聞き、心ひそかに决する所あり、自ら申出でて その人柱に立つ事となった(これについて、袴に継当てをした人を人柱にす べしと申出して自分の袴に継ぎ当てをしていたということ、その娘がこれを嘆いた事などの話は、恐らく長柄橋の人柱の伝説の改作らしい)。然して人柱 に立った模様の伝説には涙ぐましい物語を残している。
さていよいよ孫右衛門人柱となることに定まりしかば、清身淨衣して堤防 の破損せざる様に神仏に祈り、仏具を携え皆々に生別して入棺せしかば、血族朋輩等涙ながらに告別せしも、なるべく息の長く保たんことを欲し、 棺内より堤上まで竹筒を通し、食物等を入れて埋棺し、代わる代わる通夜 せしが、初めの程は竹の筒より鐘の音聞えしも、その音時を経るに隨いて弱くなり。三日目には遂に聞えずなりしかば、最早往生せられたるならん とて、泣く泣くその筒を抜き取りしという。
人々これを憐んでその所に供養の石像を安置したが、年を経て荒廃に帰して いたのを、大正四年九月、付近の青年会の人達によって再び修理せられ、そ の墓石に由来が刻せられた。その文によれば、彼の人柱に立ったのを寛永十年八月二十五日としてあるが、年代月日に関してはなお疑問が挿まれている。 〔神都模範人物集〕
【出典】宇治山田市役所『宇治山田市史』(昭和4/1929 年)
②藤八頌徳碑(松阪市六根町) 〜 人柱伝説
櫛田川魚見上流(通称中山)付近は湾曲が甚だしく、水勢をまともに受けることで、決壊が多発したため人柱を設置すると堤防決壊を防げるという伝説を基に、藤八翁は1822年、人柱として生き埋めになられた。
人柱となってからは、水害も無くなり、藤八翁を郷土魚見の守護神として崇めた。 1933年の櫛田川大改修において、中山堤防から人骨と鉦が発掘され、人柱は事実として実証される。
生き埋めの準備として、棺桶に食料と鉦、撞木を用意し、3日後に鉦の音が停止したと伝えられている。
人柱の言い出しは藤八翁自身であり、くじ引きを行ったところ、本人が人柱くじを引き当てたと伝えられている。
③浄保法師五輪塔(度会郡大台町相鹿瀬)〜熊野街道 鬼女峠付近〜
貞亨元年(1684)伝染病の流行から村を守るため、自ら生き埋めとなり仏に救いを求めた浄保法師のために建てられた五輪塔。
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④正念塚(度会郡玉城町茶屋)〜 伊勢本街道 〜
この地で重い病にかかり、街道を往来する旅人の安全を祈って人柱に立ったといわれる僧・正念の供養のために建てられたと伝えられる。
「玉城町 昔話より」※初瀬街道とありますが伊勢本街道とおもわれます。
むかしむかし、正念さんという六部(ろくぶ)がいました。六部というのは、法華経を書き写し66ヵ所のお寺に奉納する修業僧のことで紺木綿(こんもめん)で包んだ鉢形の笠をかぶり、厨子(ずし)入りの仏像を背負い鉦(かね)を鳴らして各地を歩いていました。
その正念さんが初瀬街道(はせかいどう)の上田辺(かみたぬい)の茶屋(ちゃや:地名)にさしかかった時、長旅の疲れが出てきたのか、顔は青く今にも倒れそうな歩き方をしていました。通りかかった村人が、
「だいじょうぶですか?」
と声をかけると、そこでばったり倒れてしまいました。
「おーい、みんな手をかしてくれー」村人の呼び声で、たちまち人だかりができて皆で家まで運びました。
ぐっすり休ませてもらった正念さんは、目がさめたときは顔色もよくなり、食欲もでて元気になってきました。
村の人の手厚い看護に正念さんは涙がでてきました。修業とはいえ、苦しいことばかりです。
こんなに親切にしていただいて、お礼をしなければ正念さんの気がおさまりません。しかし、正念さんは、お金も、親兄弟もなく一人ぼっちで巡礼している僧です。
そこで正念さんは、初瀬街道を往き来する旅人たちの安全を祈って、人柱に立とうと決心しました。人柱とは、人を生きながら水の神や、地の神へささげることです。
自分を犠牲にしてまで、世のなかの人の役にたちたいという正念さんの言葉に、村人たちは驚きました。
「そこまでしなくても」「いや私の気持ちです」
という押しもんどうが、何度も繰り返されましたが、正念さんの決心はかたく止めることが出来ませんでした。
正念さんは、自ら穴を掘って、節を抜いた青竹をさし込み、人柱に立ちました。
竹筒の中から、念仏の声がかすかに洩れ聞こえていましたが、だんだん途絶えがちになりとうとう何も聞こえなくなってしまいました。
それからの初瀬街道は、正念さんの信念が通じたかのように、軽い足取りで旅をしている風景がみられるようになりました。
村人たちは、正念さんの死を憐れんで塚を築き供養しました。
誰がために 他がために 自らできることは身を投じる
今では悲しい時代の出来事である。 時代を生き抜く 過去を敬うこと 讃えること そこから学ぶことが大事である。
これからの季節気象の変化に十分お気を付けください。
伊勢においないな☆ミ