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鳥羽市安楽島(あらしま)の海関連記事をあげたのだが、本当のところ、この場所を記事にしたかったための訪れである。 ここは、リゾートマンションやホテルが見える海岸。
対岸の離島 菅島 では、大規模な採石が行われており、大きなサイレン音とともに岩壁を発破する光と音が見聞きできる。 砕石した石は、新幹線の線路敷石に使われたりするそうだ。
伊勢志摩国立公園の景色から考えると、残念な禿山ではあるが、人のためだから致し方なし。 砕石終了後は緑が戻ることに期待したい。
この場所へは、伊射波神社(いざわじんじゃ)の社殿前の山道を下っていく。
石段が一部残っており、1945年7月(終戦1945年8月15日)に第60震洋隊が来るまで急いで整備された基地である。
ある日突然、「本日から立ち入り禁止」という横須賀鎮守府司令官の命令の入った封筒を村役場の係員が持ってきて、終戦まで何が何でも立ち入りできなかった場所であったそうだ。
山道の所々に平坦な場所が設けられており、兵舎でもあったのであろうか? 海が見えてくると道が二手に分かれる。
歩きやすそうな道の右方向を先に行く。
穴が二か所あり、海岸近くに水溜場(井戸?)の跡がある。
しかし、漂着ゴミだらけである。海はきれいにと心がけたい。
石段もあるが、何があったのかは不明。 軍用地になるまでは、畑であったそうだから、それはそれで凄い場所を耕作したものである。
あまり、大きな驚きもないまま、来た道を分かれ道まで戻り、左側に山道を行く。
残念ながら、山道は途中で崩れたようで木をたよりに、体を支えながら海岸線に下りていく。
しかし、どんくさくなった。 こういう瞬間的なバランスを要する足元が柔らかい山歩きは、若き頃は怖いものなしでピョンピョンと下りたものだが、今は足元を気にしながら歩かなければならない。 まぁ 臆病なくらいがちょうどよい 歳 になってきたのであろう。
下りてすぐのところに、あったのが地下壕。 この中に 震洋という 特攻艇 を隠していたそうだ。
残念ながら、地下壕のほとんどがすでに崩壊している。
さすがに、一人で来たわけである。 地下壕に入るだけの危険は冒せない。 安全なところで撮影である。 おそらく中に入って崩れれば、終わりであろう。 好奇心を抑えるのも立派な勇気である。
震洋を隠す地下壕は、この周辺に20本以上作られ、現在は14本確認できるようだ。
さて、震洋(しんよう)とは、第二次世界大戦の日本海軍の特攻兵器。 青く塗った船体から「青がえる」とも呼ばれたそうだ。
船体は量産を考慮し木製(ベニヤ製)とし、エンジンにトヨタの四トン積トラックの自動車エンジンの設計を強化して採用、速力は最低20ノット以上、30ノット(時速約50km)であった。
武装は、一型艇で250kgの爆薬の他、12cm噴進砲(ロサ弾)2基を搭載しており、二人乗りの五型艇は、これに13mm機銃一挺を追加し、更に一部に無線電話装置が装備された。 設計時から量産を考慮した為製造が比較的容易であり、民間軍需工場でも生産されたため終戦まで月間150〜700隻が生産され、終戦時までに各型合わせて6,197隻が生産された。
特攻艇として開発された震洋であるが、設計の初期から舵輪固定装置を搭載しており、搭乗員は航空救命胴衣を着て船外後方に脱出できるようにもなっていた。
特攻方法として、米軍の艦船が上陸のため伊勢湾に侵攻したとき、昼間、地下壕に隠れ艦砲射撃をしのいだ後、夜になってからレールや代車に載せた 特攻艇 震洋 を海に出して体当たり攻撃することになっていたそうだ。
三重県に配備された震洋隊は、鳥羽市安楽島町加布良古(とばしあらしまちょうかぶらこ)の第60震洋隊だけであった。
海岸には、一部壊れているものの石垣が有り(新しい物か?) その奥が震洋を隠した基地になっているのであるが、いかんせん 藪漕ぎ(やぶこぎ) しないと進めない。
こういう海岸線の森には、蚊がたくさん出るから、訪れるのは、草木が枯れた一番寒い時期と決めていたが、このありさまである。
イノシシであろうか、動物が歩いた跡もありました。 ばったり会わないようにしないといけません。 特に穴は、巣になっていたら大変ですから、たまに声を出して道を進んだ方がいいかもしれません。
目を凝らすと、大きな地下壕の跡や土塁らしきものが所々に間隔をあけてみえるがなにせ 藪の中 である。 立体感の無い写真ではよくわからない。 残念である。
しかも、跡といっても 地下壕が崩れればただの へこみ凹 である。
保存状態が極めて悪いのが残念。
自然歩道や、観光資源、歴史教育地として整備したほうがいいのではないか? と苦言を鳥羽市さんに発信しておこう。 手遅れになる前に、目で見て聞いて確かめる ことを、平和を次の世代に語っていけるように考えてもらいたいものだ。
実際に、この第60震洋隊基地から特攻艇が出撃したかというと、そういう事実はないようだ。
終戦間際に、搭乗員が配備されたこともあるが、制海権もすでに失っており、鳥羽市でも艦載機から機銃掃射を受けているし、1945年7月29日には三重県の最南部 南牟婁郡紀宝町鵜殿 の沖合に米潜水艦が浮上し、和歌山県新宮市を砲撃したと記録に残っている。
アメリカ軍艦載機による機銃掃射 ↓
震洋の配備に至っては、隊長自らが横須賀や大湊(青森県)まで出かけ武器を調達したが、運ぶことも困難であろうから、数機調達できただけで搭乗員49名分そろわなかったそうだ。
第60震洋隊は、全部で170名の部隊で、搭乗員は甲13期(土浦海軍航空隊)と甲14期(滋賀海軍航空隊)の予科練で、特攻隊に志願してから長崎県大村湾 川棚で臨時魚雷艇の訓練を受けた20歳前後の若者が中心であり、 幸いにして、伊勢湾に米軍が上陸することなく、第60震洋隊に犠牲者を出すこともなく、敗戦後、特攻艇震洋は、米軍により破壊されたり接収されたりしたそうだ。
こういった伊勢志摩には、戦争遺跡が所々に残っている。
ややマニアックな記事ではあるが、伊勢の語り部 伊勢志摩の語り部 として訪れる人に伝えるのも、大事なことである。 楽しいことを一番に、そして事実は的確に、日本人である以上、戦勝と敗戦を経験した民族として、後の世へも伝えるべきであろう。
思想は別として、 この場所から私たちを思い亡くなっていく人を出さなかったことは、幸いな歴史の事実である。
ふと 人の想い 歴史の想い 何かを思いに 伊勢志摩においないな☆ミ
そして 平和に感謝。。 |
平和・戦争の跡 伊勢
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「 朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス ・・・・・・ 」
考えれば、今後日本国の受けるべき苦難はきっと並大抵のことではなかろう。あなたがた国民の本心も私はよく理解している。しかしながら、私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである。
玉音放送 〜 終戦の詔書 〜
You Tube
↑わかりやすく、よくできています。
お盆の期間、東京に出かけていた てっつん です。
お盆中にやることは、前日の 8月12日に済ませ、お墓参りと現在、有料老人施設に入所している大正4年生まれ(97歳)の祖母に会いに行っていきました。
認知症に介護必要な状態の祖母は、孫のてっつん と ひ孫の Jrてっつん を さすけ と いっちゃん と名前を間違えて呼びました。 さすけといっちゃんは、戦死した自分の兄弟でした。
私は、祖母から戦中戦後の困難な時代をよく聞きました。
しかし、不思議なことに 敵国に対しての悔しい話 はなかったです。
悔しい話は、わが子のためにと、田舎からもらった食料を奪っていった憲兵と、嫁いだとき花嫁道具に持たせてもらった自転車を嫁ぎ先の家族(祖父は長崎の飛行場にて戦死)に売られたことの悔しい話だけでした。
祖母や戦中戦後の国民の、その思いに感謝であります。
皇居は、見ている人のほとんどの言葉が外国語でした。
東京の空襲で焼けた東京駅は、改修復元が行われていました。創建当時の3階建てになるそうです。
戦争で亡くなられた多くの日本国民、諸外国の方々に 哀悼の誠を奉げさせていただき、本日の記事とさせていただきます。
思いを伝えていく事、戦争の経験や話を未来永劫、子や孫に伝えていくことが、敗戦国である日本人の使命だと思っております。
私、玉音放送、全文聞いたの今年が初めてでした。 知らないことまだまだあり、恥じることなく知っていこうと思います。
感謝 。
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ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ こらえきれないさびしさや 国のため 大君のため 死んでしまうや その心や 〜 竹内浩三 〜
終戦を迎えて今年、65年。
経済成長と平和憲法、文化の発展は、日本が戦争をし、敗戦国であることを忘れさせるほどである。
私も戦争を知らない世代であるが、戦争の遺物。防空壕や何らかの戦争遺物の中で遊んだが、それもいまや崩れかけ、自然にまかすまま無くなろうとしている。
悲惨であった戦時中を思い、次の世代に語り継ぎ、平和であることに感謝しなくてはいけないであろう。
訪れたのは 伊勢市ハートプラザみその で行われた 第32回空襲展。
伊勢神宮 外宮 が空襲にあい被害を受けた貴重な写真が展示されている。
また、戦中の物資や戦時中の記録、品々が展示されている。
そして、沖縄戦の心を打つような写真も展示され、日本が行った空爆による被害写真も展示されている。
来場し、さまざまに思いを感じて、本日、終戦記念日8/15は、正午に黙祷をささげたい。
会場では、戦中の食べ物 すいとん が再現されているが、さすがに美味しく今風にアレンジされている。
小さな子供が、美味しい!おかわり!!と元気に食べていたが、戦中おかわりなんてできただろうか。。。美味しい食べ物だったのか。。。と思いははせないところである。
第32回空襲展は本日(8/15)まで
日本の礎となった戦没者に感謝の祈りをささげ 今の平和を感じるために 訪れたい空襲展である。
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ああ 戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ こらえきれないさびしさや 国のため 大君のため 死んでしまうや その心や 〜 竹内浩三 〜
終戦を迎えて今年、65年。
経済成長と平和憲法、文化の発展は、日本が戦争をし、敗戦国であることを忘れさせるほどである。
私も戦争を知らない世代であるが、戦争の遺物。防空壕や何らかの戦争遺物の中で遊んだが、それもいまや崩れかけ、自然にまかすまま無くなろうとしている。
悲惨であった戦時中を思い、次の世代に語り継ぎ、平和であることに感謝しなくてはいけないであろう。
さて、今回出かけたのは 三重県鳥羽市 「鳥羽市歴史文化ガイドセンター」 で行われている 鳥羽市の戦争展。
三重県の鳥羽市といえば 世界中の女性の胸元を飾る ミキモトパール 発祥の地で有名であるが、ミキモトパール発祥の地 「ミキモト真珠島」が戦争中 海軍の伊勢防備隊の本部になっていたことを知る人は少ないであろう。
また、鳥羽周辺の海岸に海軍の特攻機地が建設され、配備されていたことを知る人も少ないのではないか?
特攻というと 神風のごとく飛行機で体当たりというイメージがあるが、鳥羽市には、ベニヤ板で作った軽量のモーターボートで体当たりする水上特攻兵器 「震洋(しんよう)」 という 海の特攻機が配備されていた。 (上記 展示物)。
ほかにも伊勢志摩の海(的矢、阿児、五ヶ所の湾)には第19突撃部隊が置かれ、人間魚雷として有名な「回天(かいてん)」に自爆用の爆弾だけで無く魚雷を2発積み羽をつけた、有翼特殊潜航艇「海竜(かいりゅう)」が配備される予定であり基地建設が敗戦間際まで続いていた。
海竜は、横須賀海軍工廠で作られていたが、敗戦が近づく洋上の支配もすでに米軍下にあり、三重の海まで運ぶことができなかったそうだ。
そして、もっともおろかであろう特攻隊も配備されていた。
それが 「 伏竜(ふくりゅう) 」である。
潜水服を着て海底に潜み、先に爆薬をつけた棒で頭上を通る舟艇を破壊するのが目的で、爆発すると必ず即死するという兵器である。
こんなことが、本当に考えられ、特攻部隊として配備されたなんて信じがたいが事実である。
もうお亡くなりになられたが、この部隊に所属していた方がおられ、少し話を聞いたが、訓練と証しては殴られることが多く、耳が片方聞こえなくなったとおっしゃられていた。
事実、壕を作る予科練内ではいじめがひどく、国防婦人会が「自らの子は志願に出さず。」といって抗議し、だいぶ緩和されたそうだ。
結局、伊勢志摩の海の特攻隊は、実戦することなく敗戦を迎えたが、こんなことが実際に行われ、勝ち戦ができると考えた、世の中があったことに狂気を覚える。 しかし それが戦争 なのであろう。
また今回の展示物で興味深いのが、鳥羽城跡を整備したとき見つかった 日本軍の銃である。
使い物にならないように曲げられまとめて隠すように捨てられたものである。
これは、以前 亡くなられた明野航空学校の将校であった方と終戦の話を聞いたとき、終戦を迎えてすぐに、「兵器を捨てよ。もっているとアメリカに連行される。」という情報が流布され、明野飛行場に勤める軍人が武器を持ち集まり、基地内の池に捨てた。と話していたが それと同じ行動であったのだろう。
平和を考えることが少なくなっている現代。
夏の時期だけでも、戦争と平和、先人の思いを考える必要があるであろう。
平和を考えに 伊勢志摩においないな☆)彡
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写真は昨年のもの。。 |







