伊勢 おいないな 日記 〜サラリーマンの写真集〜

神風の 伊勢の浜荻折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に 「万葉集より」

奈良の祭り

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東大寺を建立した聖武天皇及び天皇を支えた光明皇后と、従者の貴族の華やかな一団がおごそかに秋の東大寺を訪れます。

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 土日祝日の奈良公園の周辺ってこんなに道混むのね。 
 駐車場の料金も結構ばらつきあるのね。 
 点在する駐車場・・・わかりにくい。 iPhoneのナビで何とか行けた感じかなぁ。
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 ついつい、おっきい鹿とちっちゃい鹿と戯れ、春日大社横の駐車場に車を停め、春日大社まわってたら東大寺までの距離結構あるな・・・・・・・、行列のルートわからず、なんとか東大寺前についたものの、石段から落ちた観光客のヘルプのお手伝いやら、なんやらかんやらですでに天平行列は、東大寺の中に・・・・。
 拝観料払って入場するも行列の参拝は終わり参拝もせず・・・
 なんとかブログからの写真友達の銀狐さん https://blogs.yahoo.co.jp/takamichi122 に御教授していただき、コースとこれからのポイントおよび先回りのルートを案内していただき撮影することができました。 感謝

 平安文化じゃなくて天平文化、華やかな国家の元となる奈良の祭り。 
ポイントを抑えるのが難しいのと壁画でしか見たことのない装束だから、シャッターは切るものの、イメージがわかず‥…私の学の無さにあらためて(´・ω・`)しょぼんとした撮影となりました。
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 写真としては、日本文化の理解に関しては、飛鳥時代から外国の文化が入り天平文化で神仏が混ざり合い云々云々と 面白い写真となった。
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 今も昔も変わらない 人が織りなす 華やかさがある。
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 もっと勉強しなきゃあかんなぁ・・・・・

 私的に、次回の機会には、もっといい写真を撮ろうと 楽しみをもたらしてくれた祭りであった。 
 奈良がこんなに混んでるとは・・・知らなかった。 時間には余裕と目的に到着するまでの誘惑に負けない気持ちを持とうと思う。笑
 

 華やかな天平文化彩る古都奈良 。 伊勢にもおいないな☆ミ
 


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 便利だけど、こんなに増えて大丈夫?

 とうとう、外宮と内宮を結ぶ旧街道、伊勢本街道 。
 
 昔は宿屋、見世物屋、女郎屋、料理屋、東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんが泊まった宿の近くに コンビニ ができた。

 この辺り、町の風景も新しい家も増えてるな。

 かなり変わってきました。

 コンビニも若者向けから、年配者向けの品ぞろえにかわるかな。

 コンビニ かぁ・・・・・・  お米が美味かったらもっと利用するかな。 コンビニ弁当の米は苦手。
 伊勢の米は、美味いからかな。


                          伊勢においないな☆ミ

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 さて、数々の歴史を残す古市街道であるが、伊勢志摩地区で、一番大きい総合病院「日赤」がこの地にあったことを知る人は少ない。
 現在は、市営テニスコートになっている場所に「日赤」が建っていたのである。

 現在、山田赤十字病院(以下、日赤)は、伊勢市御薗町高向と言う場所にあり、近鉄宮町駅すぐの立地条件にある。
 しかし現在の日赤も、約100年間に増改築を繰り返してきた建物の老巧化・業務効率の低下が著しく、伊勢市内旧東洋紡績工場跡地(伊勢市駅裏)に移転するそうだ。

 伊勢地区の病院であるが、総合病院は、伊勢市民病院、山田赤十字病院の2ヵ所である。以前は、伊勢慶応病院があったが、すでに撤退し以前のような機能の病院ではなくなった。
 伊勢に限らずではあるが、総合病院は、経営上の問題を含め医師や看護師の不足が深刻のようで、現在、救急機能が一番調っているのがこの「日赤」と言える。
 これは、伊勢市民に限らず志摩市民も県立病院の医師不足などで、救急搬送先が志摩市内の病院ではなく、伊勢市内の病院であるのはよくあることである。
 伊勢志摩だけでなく三重県南部地区において、日赤病院を頼ることは多く、地域医療支援病院、地域災害拠点病院としての役割をになっている病院である。
 

 伊勢を案内すると、昔よく言われたのが「薬屋」の数の多さであった。
 現在、その数は、大型店の出店で少なくなったが、数年前まで全国の市町村の中で伊勢市の薬屋の数は、トップクラスであったそうだ。
 伊勢には、万金丹と言う名薬があったこともあるだろうし、開業医の数が少なかったことも影響していたようだ。昔、私の家には、富山の薬売りが置き薬を置いていったのを記憶している。
 しかし現在は、その逆転で、開業医の数がやたらと目立つ。今も建設中の開業医(医院)もある。時代の流れと変化であろう。

 だが、いくら開業医と言えども、急な対応をしてくれるのは、よほどの医師であるだろう。
 祖母が、食中毒で夜間対応してくれた医院、私が急性虫垂炎(もうちょう)で駆け込んだ医院は夜遅くまで対応していただき、近所ということで家まで送ってくれるという、忘れることのできない感謝の治療をしてくれた医院もある。
 だが、近年、患者自らが医療機関を選ばなければいけない状況に変化してきているように感じる。
 体験談であるが、わんぱく盛りの息子がガラスを割り、破片が指を突き抜けたことがあった。
 止血処置をして、市の総合病院に駆け込んだが、救急当番日外であり、対応できる医師がいないということで断られた。すぐ近くに開業した医院があるからとそちらに駆け込んだが、対応した看護師に状況を報告し処置を待とうとしたが、患者が数名おり医師もいる診療時間帯にもかかわらず、その看護師が「うちでは対応できません。とおっしゃってました。」ということで、結局、山田赤十字病院に、救急対応していただいた経験がある。
 途中「もう救急車呼ぼうか・・・。」となんども考えるぐらい不安に襲われたが、山田赤十字病院では、すぐに医師に対応していただき、処置をして、神経を傷つけることなく事なきをえた。

 山田赤十字病院の回し者ではないのだが、伊勢志摩地域では信頼を得ることができる病院が「日赤」といえる。
 病院の患者受け入れ問題は、地方では「よくある話」のようであるから、私は、友人によく言うのであるが、応急処置ができるだけの薬などは持ち歩く(車内に入れておく)ようにしている。さらに救急法の講座もうけたならばっちりである。
 できるだけ我が身を守るすべも必要となってきたように感じる。
 アメリカでは、国民皆保険制度の日本とは違い、民間保険を個人がかけて受診し、また儲からない患者はみないこともできるそうだ。
 日本には、医師は患者に診察を求められた場合、断わることはできない「応召義務」というものが法律で定められているが患者がたらいまわしになった挙句、死亡にいたるケースも出てきている。事件として立件も難しいであろう。
 安心して暮らせる日本。短命内閣の首相が行った「美しい国 日本」になるように、政治をつかさどる人たちは考えて行っていただきたい。
 社会問題の取り扱いはこれくらいにする(^^;。

 旅行時も、伊勢の山田日赤を覚えておけば安心でしょう。


 さて、山田赤十字病院であるが、なぜ古市にあったかというとすぐに浮ぶであろうが女郎(遊郭)と病気の関係であろうが、実はまったく関係がなく、古市に日赤があっても、週に一度、女郎の検査を行ったのは、伊勢市(山田)岩淵町にあった南勢病院であり、この種の婦人科専門病院として名医であった。
 女郎の検査場は、古市遊郭の事務所である長盛社の2階で女紅場とよばれ、検査にひっかかると(不合格)、軽症でも1ヶ月、永ければ1年と南勢病院に入院となり、働くこともできず、入院費は遊郭が肩代わりし、ますます借金が増えるといったまさに生活に支障をきたす「試験」であったそうだ。
 週一度の検査は、厳しいように思うかもしれないが、名目は「茶汲み女」ではあるものの「公娼制度」で認められた古市遊郭であったからこそ、私娼に比べ衛生的であったといえる。 
 公娼制度の無い現代は、男女限らず、これも自分の身は自分で守れるように務めなければならないであろう。
 
 では、なぜ日赤がこの地にあったかというと、寂れていく町の発展策として、地元有識者の働きがあったからである。
 明治期に、現市営テニスコートの位置に町立病院が建てられ、明治36年10月、これを日本赤十字社に寄付するという形で、日本赤十字社三重支部山田病院が誕生したのである。
 すでに建物は残っていないが、白亜の殿堂で庭園、大きな石門、看護婦宿舎等モダンな建物であったようである。
 日赤ができたことで、日赤御用商人もでき商いの場所として古市はますます繁盛となり、森ばかりであった場所に人家ができ、今のような市街地を形成したそうだ。
 だが、大正末年、手狭になりつつある病院の拡張のため、周辺の地主である古市大遊郭(旅館)の一つ「油屋」に打診をすると、地主である油屋と日赤(当時 酒井院長)とでトラブルとなり、大正12年7月、現在の伊勢市御園町高向に新病院を建築し始め、大正15年6月には、さっさと引っ越してしまい、廃墟だけが残ったそうだ。
 古市の民は、大地主である油屋を治めることもできず、まさにあっけに取られた状態で、これを見送るしかなく、古市の不景気は、大正期より徐々にはじまり、大遊郭「油屋」不信の声が隠然と高まったそうだ。
 
 油屋であるが、明治22年にはすでに遊郭を廃業して旅館となり伊勢の名門旅館として皇族の方が宿泊されるほどであった。
 油屋10代目清栄門は明治30年から1年間、宇治山田町長をも務めた。
 10代目清栄門であるが、旅館業などで巨額の富を得たことで、晩年「頼朝公」とあだ名されるほど尊大であり、大金持ちであったが、明治末年、清栄門が頭取を務めていた三重銀行が倒産破産の宣告を受け、負債返済の責任を取り、土地の大半を手放し、穴埋めに役立てた。
 油屋は、その後も旅館業は続けていたが昭和20年7月、油屋はB29(米軍)による焼夷弾攻撃を受けて、大炎上ののち跡形をなくすことになる。時代が時代である。旅館を再興することなく、現在は跡形も無い「油屋跡地」に近鉄電車が走り抜けている。


 現在の伊勢市営テニスコートであるが、土のコートとして、軟式テニスの大会や趣味の活動場所として使われている。過去に行われた三重国体でも会場となった場所である。

 市営テニスコートは、小さい頃、中に入り斜面をすべり、友達と遊んだ場所であるが病院跡といってもその痕跡はほとんど無く、唯一、斜面をあがる小さな階段が古いコンクリート作りであるから、それであろう。
 記憶する限りは、中庭の池?花壇?のような跡が昭和50年代ごろまでこの階段の上にあったように思う。
 今は跡形も無いこの場所だが、古市の近代町並み作りに貢献した病院がここにあったことは、人々の口から伝わっていくのであろう。



 



    古い町と老木がわずかではあるが残る 伊勢古市街道を歩きにおいないな ☆





※写真1枚目、 市営テニスコートへ行く道
※写真2枚目、 斜面に残る階段(テニス場外部より撮影)
※写真3枚目、 現、山田赤十字病院
今回のネタは、ややマニアックすぎましたね(苦笑
こういう話は、どうしても長くなってしまう。見出しをつけて今度は書きます(__)m

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 さて、なかなか三大遊郭と歌われた伊勢は古市、遊郭街の武勇伝に入れないこの書庫であるが、そろそろ妓楼(遊郭)の話題に触れたいと思う。

 ただし、今の古市に「伊勢参り大神宮にもちょっと寄り」と当時の川柳に唄われ妓楼70件、遊女が千人を超えた時代の面影を見ることはできない。
 明治以降の改革で、人身売買は禁止となり、遊郭は足抜け(逃走)が後を絶たず当然、妓(おんな)も減少、不貞なものを排除した江戸時代の村社会とは違い、足抜けをしても探すすべ妓楼主自体になくなったからだ。江戸時代は、番所等が足抜けしたものを探し出したが明治以降の警察は、協力しなかったそうだ。 
 渡し場にあった「人見附」も、江戸時代には、足抜け禁止という役割を果たしたのだろう。
       ↓ 
 http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/29189448.html


 伊勢古市の街道より山を切り崩した「御成り街道(御幸道路)」がメイン道路となり、汽車が伊勢市駅(当時 山田駅)まで来たことで 人の流れが駅周辺に集中し、遊郭の火も山田駅周辺に移っていった。
 昭和に入り、大火と空襲で古市は焼け野原、食糧不足で民家より畑がひろがり、戦後は、GHQより遊郭は完全廃止。華街は、赤線とよばれるようになり、伊勢では飲み屋街である伊勢市曽根周辺に夜の華やかさは移って行った。
 戦後、伊勢市駅周辺の華やかな地区は、伊勢銀座と呼ばれカフェーや劇場、大きなダンスホールがあったようで、子供を残し戦死した夫の変わりに、私の祖母は、皿洗い(女中)の仕事をしていたそうだ。 祖母はよく、「どこどこの禰宜(神主)さんは、優しく粋でチップを皆にくれた。」とか、当時の興行ヤクザのこと等、いろんな話をしてくれた。
 まぁ90才を過ぎた祖母の話である。いささか、半信半疑なところもあるが、その当時の話しを言える人、聞いた人も少なくなってきているのではないか? うちの祖母もボケてしまい、もう話はまともに通じないが・・・・。


 さて、そんな伊勢は古市の華街を想像する時、役に立つのが街道沿いに建つ 伊勢市立 「 伊勢古市参宮街道資料館 」である。

  http://www.city.ise.mie.jp/icity/browser?ActionCode=content&ContentID=1016018033353&SiteID=0   (伊勢市のページ)



 ここは、なんと 無料!!!!!!!  である。



 展示物は、妓楼(遊郭)のものから古市芝居のもの、乞食月僊とよばれた僧侶のものや、伊万里の大皿などがある。 展示室の規模は10畳くらいであろうからさほどでもないが、古市妓楼(遊郭)を知るには良い資料が残っている。
 良く見たいのが、芸者(芸妓)と娼妓(遊女)の契約書や、月5回行われた梅毒検査の台帳。 時代劇で良く見る外から客を手招きする顔見せ制度が禁止になってから、今の性風俗業、ホストクラブなどと同じく写真を使って顔見せする用になった時の写真がある。
 今の目をスポットで光らせ、ポートレート風に顔だけのアップの呼び込み写真とは違い、和の芸術的な写真のように見える。

遊女 小せん ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/28122858.html
写真に小せんがあったが、時代的に多分別人であろう。

 管理人の方からお話を聞くこともできるので、なかなか良い。
 ただし、これも興味のない人には興味のないものであるから、これぐらいの資料館で調度良く思う。しかし、無料とはあなどれない資料館ではある。


 当時の遊郭を想像する時、使えるのが映画 「さくらん」(遊女) と「SAYURI」(芸者)である。
 共に江戸の華街の話しであろうから、高い壁で囲まれた吉原と違い、壁のない遊郭で芸事を習う古市との違いは大きいが、ストーリーはどうあれ、建物や雰囲気、しきたりなど良くできているように思う。
映画を見てから、この地を訪れても面白いかもしれない。 やや、裸の多い映画であるので、説明の要る子供と見るには不向きな映画であるが・・;。


 
 古市の町並みを歩く時 ぜひ見たいのが 伊勢古市参宮街道資料館
                      歴史の道を歩きに 伊勢においないな ☆





※以前まで、歴史好きの男性が歩いている(訪れている)のを良く見かけたが、女性が訪れるのを最近良く見かけるようになった。しかし夜道は、まだまだこの辺真っ暗なので、明るいうちに訪れたい。夏の暑い時期は、歩くと尾根の道であるので日陰も少なく、Tシャツから塩が吹き出るくらい汗をかきますから、時期を選んで歩かれた方がいいでしょう。資料館には、区画された専用の駐車場はないので邪魔にならないように建物に近づけて駐車しましょう。


 

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 古市街道も間の山の急坂を登りきり、倭町を過ぎ、伊勢神宮内宮に向かって右手にある小高い山が「永代山(永台山:経ヶ峰)」である。
 今は、宅地が山間に広がり、閑静な景色の良い住宅地であるが、昔はここも信仰あつい場所であった。

※写真1枚目  :左手の山が永代山 (えいだいやま)
 写真2〜4枚目:永代山に登る道、永代山よりの眺め古市の町並み、朝熊山、伊勢湾


 この永代山であるが、以前はここに曼荼羅石と呼ばれる古碑が存在していた。
 曼荼羅とは、梵語(仏語)で本質を有するものの意とされ。密教で、仏の悟りの境地である宇宙の真理を表す方法として用いられてきたものである。
 宝暦5年(1755)、この付近の住民が、竹やぶの中に古碑が建っているのを発見し、当時、この峯を治めていた「常明寺」へ訴えでた。
 http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/28192851.html  ←常明寺

 常明寺は、竹林を切り払い、曼荼羅石の効能をといて宣伝し、民衆の信仰を集め、念仏読教の声を昼夜なく響かせ、神領において仏教の勢いを盛んにさせた。
 しかし、この行為を危惧したのが神宮であり、神領であるからしてこれは「神地不相応」と判断し、常明寺に読教を辞めさせて、参道を塞ぎ、一般庶民の参詣を停止させた。
 それでも明治初年までは、伊勢の古刹、世義寺と三宝寺(伊勢市八日市場町:のちに廃寺)の真言宗僧侶が毎年10月、夜中にこの山に登り、如法教をおさめる式を行っており、ここから「経ヶ峰」と呼ばれるようになったと推測される。 ※現在、伊勢の「経ヶ峰」というのは朝熊山をさす。
 その後、昭和初年、神宮司庁係官が、この曼荼羅石を調査し、発表したことで世に脚光を浴びることとなった。
 碑面には「 建武二年(1335 鎌倉時代)正月一日、一切父母法界○霊平等利益」とあることから、亡き者供養のため建立されたのだろう。
 
 しかし残念なことにこの曼荼羅石は、持ち主(常明寺?)の事情で東京の富豪に買い取られ、現在その富豪の邸内に安置されていると言う。 どこの誰かは、はっきりしておらず残念な限りである。

 金持ちになると、どうもこういう歴史あるものを収集する人が多くなる。
 伊勢、妙見菩薩像 ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/25065496.html

 残念でならないが、売るほうも日々の生活に困ってのことであるから仕方ないのだろう。


 そしてこの永代山には、八束山、船江の山神社(私、現在調査中)と共に三神の一つと言われる八町1村に氏子を持つ稲荷社が存在していた。
 今現在でもゼンリンの宅地図には、その存在が書かれている。

 ここで稲荷について書くとするが  
 稲荷神(いなりのかみ、いなりしん)は、日本の神。稲荷大明神(いなりだいみょうじん)ともいい、お稲荷様・お稲荷さんの名で親しまれる。稲荷神を祀る神社を稲荷神社(いなりじんじゃ)と呼び、日本各所にある神道上の稲荷神社の総本社は京都市伏見区にある伏見稲荷大社である。
 また神仏習合思想においては仏法における荼吉尼天が本地仏とされる(その総本社は豊川稲荷)。
稲荷神は、宇迦之御魂神(うかのみたま。倉稲魂命とも書く)などの穀物の神の総称であり、宇迦之御魂神の他、豊宇気毘売命(とようけびめ)、保食神(うけもち)、大宣都比売神(おおげつひめ)、若宇迦売神(わかうかめ)、御饌津神(みけつ)などとされている。
 簡単に言うと 稲荷(イナリ)=狐(キツネ)ではなく、あくまでもキツネは稲荷神の使いであり、狐を稲荷神の使いとする民間信仰は、中世より始まったものである。
「稲荷神=狐」と誤解されるようになったのは、江戸時代前後からといわれ、俗信や流行神(はやりがみ)という、一過性に流行るご利益信仰の影響からと考えられている。
 稲荷神社の前には狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれる例が多い。他の祭神とは違い稲荷神には神酒・赤飯の他に狐の好物とされる油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理を稲荷と称するようになった。 〜出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)より

 稲荷大神の御神徳は、限りない生命力、果てしない繁殖力、創造力を与えてくれ、これを実践することで商売繁盛、家運隆盛になると言われ、古くから各界各層の人々の信仰を集め世に広まり、日本のほぼ30%にあたる神社に稲荷は祀られている。
 当然、伊勢の古市は、妓楼が多く、「芸者」「娼子」「街道芸人」の数も多く、芸能人や水商売の人々に信仰あつめる稲荷神社は、明治期に合祀される以前まで、ここだけでなく古市のところどころに存在していたそうだ。

 さて今の永代山の稲荷社であるが、正直どこかわからなかった。 ゼンリンの宅地図で遂道を確認するも取り付く(入り口)場所がわからない。
 地図で確認するがどうも お夏寺跡↓
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/30974248.html
から昇ると早いらしいが、先日登った時に、ここを和服着の女性が登れるだろうか??との疑問から、多分正式なルートであったろう「西裏道」と呼ばれる、元妓楼であった現:パン屋の「かしく」横の道を行くことにする。
 伊勢で言う世古(せこ)という細い路地を行き、永代山を登っていく。
かなりの斜面であるが自転車も押しながら登れる道である。この道をイソイソと古市の女達は登っていったのであろう。
 そして坂を登りきるといくつかの山道に続くが、どれもこれも獣道に近い。道だと思って進むと廃屋にあたる。迷っていたところ住人の老人に話を聞くことができ「家の横の道から入っていけて昔は道やったけど、今はどうかなぁ。稲荷さんももうないん(無いの)と違うか。」と言うことであった。
お礼を言い、早速、言われた道を行く。道といっても太い竹薮の道である。倒木もあり落ち葉もたまり滑りやすい。しかし、見る限り人がすれ違うに充分な道幅が維持されている。 目を凝らし、参道であろう道の面影を見ると、前から良い香りを漂わす流し目の女がすれ違って行きそうなぐらいだ。
そうすると10分程で頂上に到着する。伊勢の山の頂上には、伊勢愛山会?の方々が頂上の目印をつけてくれているのでわかりやすい。 
 そして稲荷社跡を探すのだが、稲荷跡は頂上付近で確認ができない。大きな穴ぼこはあるが、大木が倒れたかそれとも、この付近に赴任した陸軍がトーチカでも建造しようと穴を掘ったのかは不明である。
http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/16921638.html
どれも、稲荷社には結びつかない。 
 頂上を一周するように道を歩くと、稲荷社跡を発見することができた。目印は奉納と書かれた手水舎の石桶と祠跡の四方を固める石垣、落ちた瓦である。
 現在稲荷社上部の山頂から崖が崩れかけているようで、近いうちにここも埋まってしまうかもしれない。しっかり画像に残す事にするが、やや不気味である。 暖かい時期なら蛇や蚊、藪、草木に悩まされそうだ。
 たまった落ち葉を払い除け、心ばかりの裸菓子をお供えして撮影を開始(私は験:ゲン を担ぐタイプなので塩と菓子は持ち歩き、歴史的遺産に対しては、お供えをしてから撮影を始める)。
 残った瓦に焦げた跡も無く、綺麗に並べられている部分もあることから社は惜しまれつつ、人の手により解体されたのであろう。 

※写真5〜7枚目 このような道を行く
 写真8〜10枚目 頂上下の稲荷社跡


 
 さて、どうしてこの場所に、稲荷神社ができたのかと言うと、一説に頂上付近にキツネの棲家と呼ばれる大小の横穴が存在していたからと言われる。
 横穴の狐の棲家には、いつからか油揚げが供えられていたそうで、その関係から社が建てられたと考えられる。この横穴群は、ひょっとすると古墳群だったのかもしれないが、現在の永代山は、近鉄線路が山をトンネルで貫き、空き家も多いが、宅地開発されており、真実はまったくわからない。

 今はただ、この場所に立ち、古市を調べた者が目をつぶると、油揚げを持ったあわただしい仕事前の遊女達が華やかにお参りする想像の風景がまぶたに浮ぶ 稲荷社 跡である。




 

     歴史の街道 古市 まぶたに写る過去の情景を探しに 伊勢においないな ☆





※写真9枚目 永代山を突っ切る近鉄線ガード下の石碑。この形は、古市近辺の墓地に行くと良く見かけるので何らかの供養のための量産された石碑であろう。彫ってある文字の確認ができないのが残念である。永代山は、曼荼羅石があったように墓地も多かったが、寛文年間(1661〜1673年)の区画整理(開墾し人家を増やした)で一誉坊(いちよぼ:伊勢市岩渕町)に移され、余剰の石碑は、溝の石崖に利用されたそうであるからその残りであろう。



 
 

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