|
春過ぎて夏日にてられぬけ参り はらをほすてふくらがりの山 |
伊勢本街道 :大阪〜枚岡神社
[ リスト | 詳細 ]
|
大型スーパーで適当な食事を終えたのが14:00をまわった頃、暗闇を歩くのは避けたいので先を急ぐ。この辺りで通称:産業道路は県道15号線から702号線へと名を変える。 大阪玉造から歩き、本日の目的地である枚岡神社のある山が間近に見える。 やや早足に歩を進め、交通量の多い直線道路をしばらく歩くと道路を挟み右手に花園ラグビー場、左手が松原宿に続く旧街道の分岐点である。 ![]() ![]() 江戸時代の宿は、旅籠や宿屋という機能だけでなく「継立人馬」と呼ばれる、幕府役人の通行のために交通機関である馬や、人足を常備することが定められ、大阪奉行により松原村とこれより先の水走村の2ヶ所が命じられた。 しかし、幕府の命ではあるが、運送距離や宿入れようの費用が増大し2ヶ村の村では対応できず、「駅所加村」と呼ばれる幕府命令がさらに出され街道周辺の9ヶ村が宿場として指定される方法が取られたが、明治4年に廃止されるまでの間、村々の負担は大きく、たびたび幕府に歎願(たんがん)が出されたそうだ。 幕府による宿場支配が廃止された、明治4年以降は、松原宿に陸運会社が設立され、交通の要として、いち早く郵便局、警察署、キリスト教講義所などがおかれたが、明治25年大阪鉄道(JR関西線)、大正3年大阪電気鉄道(近鉄奈良線)の開通とともに宿場としての立地条件も成り立たなくなり、現在は住宅街としてひっそりとした環境である。 ![]() 松原地区を通る旧街道には、ほぼ直角に曲がる辻があり、そこには「右 なら いせ道」と書かれた幕末の頃、嘉永二年(1849)道標が立っている。 旧街道に立つ道標は、通行の妨げや高所に現代文字で書かれた道標板にとってかわり、道標としての役目は終え、モニュメントとして無意味な方向を示すものが多いが、この道標は、位置を変えずに旧街道であることを太く力強い文字で示している。 ![]() 車の通行には少々邪魔なように感じるが、衝突での破損や、痛んだ形跡が無い処を見ると皆が運転に気をつける目印としているのであろう。交通量は確かに少ないが(^^;!。 松原を過ぎると水走地区。 古代末から中世にかけて東大阪北部一帯に勢力を持っていた「水走氏」が開発した土地だ。しかし、旧街道の面影はすでになく、ただみちが伸びるのみで恩地川を流れる水走橋をこえる。 ![]() この恩地川は、護岸工事で昔を思うこともできない現代的に管理された川であるが、昔は川を走る剣先船が往来し、水運と陸運交わるの起点としての役割を担っていたそうだ。 ![]() もうここら辺の街道は古道というより、町道である。(^^; 特に水走橋を渡り、旧街道を少々進むと大阪外環状線(県道170号線)が旧街道に覆いかぶさり、たくさんの車が往来する車道を避けるよう、旧街道が新町歩道橋に変わっている。 ![]() 昔の人々は想像出来ない風景だろうなぁ。。陸に橋がかかるなんて、誰が想像しようか(^^; いや、そういえば伊勢の遊郭外の大楼には、館と館の間をつなぐ橋がかかっていたそうである。 この歩道橋も神聖な道なのであろうか。歩道橋上より遠くを見ると旧街道が延びている。そして橋の下には、激しく流れる車。やはり重要な橋だ。(^^ ![]() 歩道橋をこえると工場の間を旧街道が延びる目的地、枚岡神社に向かって左手が宝町、右手が新町、旧名、宝蔵新家地区と呼ばれるあたりである。 ![]() 途中「宝箱」という地名(字名)があるが、まぁ・・・・静かな旧街道である。トレジャーハンターとは行かない。 http://proxy.f2.ymdb.yahoofs.jp/users/9bf3d453/bc/e60f/__sr_/5058.jpg?BC7ntmLBS2MUMC31 そんな馬鹿なことを考えながら歩くと箱殿交差点から、旧街道は、住宅地に変わったため産業道路を歩き大きな辻に出る。 ![]() この四辻には、情緒ある道標にたどり着く。 「南江すぐ かうや おうミ袮道」 「西江すぐ 大阪 金ひら道」 「是より北江すぐ 柳谷観世音菩薩道 京八はた淀ふしミ」 「東江すぐ なら いせ道」 なんとも可愛い観世音菩薩の彫刻である。思わず笑みが出ざるを得ない。 道標の裏のお堂は弘法大師像を祀っている。 道標が建てられていた位置は、変えられたそうであるが、複雑な四辻を案内した力強く美しい文字である。 ![]() 是より先は、大阪の産業道路は終点、国道308号線となる。この308号線は道幅が狭く、急な勾配があるなど天下の酷道として、その道のファンが多い国道である(^^。 旧街道は、国道を通らずまっすぐ伸びる道で豊浦地区に入る。生駒山を越える暗峠(くらがりとうげ)への入り口である。 所々で山すそに流れ込む水の流れと音を聞くことができる。 ![]() さて、ここまで来たら本日の大阪旧街道(伊勢本街道、暗越奈良道)歩きのゴール地点『枚岡神社』 近鉄枚岡駅 である。 ![]() ![]() 昔は、田畑森が広がっていたであろが、現在はコンクリートの大きな森が広がっている。 旧街道 歩き旅 巡礼、神々の道をめぐり 伊勢においないな☆彡 |
|
大阪から伊勢に向かう古い街道、暗越奈良道(伊勢本街道)。
歩いたり、馬に乗ったり、牛に乗ったり、輿に乗ったり、西から伊勢を目指した旅人、東から大和、大阪を目指した旅人が古くから主要道とした道である。
↓現在ここまで完歩しております。。!暇を見つけては、チョコリ チョコリ と歩いてきたが、いかんせん・・・記事が間に合っていない(――;;;。 記事をまとめてあげようにもいろんな行事があるわけで・・仕事もね。当然、気力の減退も(失笑^^;;。 で、今頃、記事をまとめ上げております。よろしくお付き合いください m(__)m。 http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/46096591.html
さて、深江稲荷神社で少し寄り道したあと、旧街道(暗越奈良道)に戻り、少し早足で歩いて行く。
旧街道の横を通るのは東大阪の物資輸送動脈ともいえる産業道路。その横を通る旧街道は、かつて人馬の往来が激しかったのであろうが、今は自転車や住民が自転車や徒歩で通るのに調度良い静けさである。 旧街道(暗越奈良道)をはずさない様に、道標(モニュメント)があるのがうれしい。 ※写真1枚目
旧街道は、深江から高井田地区へと入る。
ただ旧街道に架かる城東貨物線のガードには、ここが旧街道であったことをしめすプレートがあった。高井田地区には、昔、旅人を癒す二店の茶屋があったそうだが、それも今は無く、街道沿いに目新しいものは特にない。 ![]() ガードを越え少し行くとおでん屋(食堂)があるが、ここで酒をあおっておでんを食べてしまうと、本日の行程が パァ!××!! となるのでぐっと我慢である。関西系のおでんは非常に興味をそそるところである。ちなみに、伊勢では おでん につけるものは、からしもつくが、基本!! だしと砂糖で味をつけた 味噌 である。 これは中部圏の文化であろう。 伊勢に持ち込まれる味噌や原料の大豆は、伊勢湾を越え、愛知県三河地方から多く運ばれた。 http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/27144633.html ↑伊勢の台所といわれた 河崎町 伊勢湾を越えて伊勢に運ばれ付く港が 伊勢の台所といわれた伊勢市河崎町であり、今でも周辺には、二軒茶屋 角屋(味噌、醤油製造)、肥料屋、古い蔵が残っている。 幅5mもない川だが、かつて(300年以上前)は川幅が200メートル近くもあり、旧大和川が流れていたそうだ(かつての川岸は、西岸、清水地蔵尊辺りと考えられる)。 この長瀬川のある地区は「新喜多」と呼ばれ、旧大和川の流れを人工的に変えた時、干上がった河原を開墾した3人の大阪商人の名前から一字をとった地区名だと言われている。
多くの旅人を見守り、また川にまつわる霊を慰めたものであろう。私も旧街道を歩く私も拝んでおくべきであろう。
こうなると、頼るは スマイル いわゆる 「 人に聞け 」である。しかし、いかんせん、手に持つ資料がネットから印刷した地図に自分で線を引いたものである。古書の昔の地図は、手書きであり、現在と合致しておらず、あまり正確とはいえない(^^;;。 しかし、何人かに声をかけるも 「しらないなぁ。」 のオンパレード(――; マンションなども多く、もともとこの地の住民でない人も多いようだ。 迷いに迷い 八百屋の店主にきくが 「 渡し地蔵 ってどこにありますか? 」と聞くと 「 私、地蔵ですか????」・・・・・・(・・; いゃ・・ここでそんなボケはいらない。・・・・・ 「 私、地蔵なんてしらないなぁ。。。。。。。」 以外にしつこい・・・・ ここで話をあきらめるのもなんなので 「渡し場にあった有名な地蔵しらん?」と聞くと「あー!地蔵ならこの裏や!」・・・っとまぁ こんな調子で案内していただいたところに行くと 「愛宕神」とある・・・ちがうやん。。。(==; 旅というのは、少しのハプニングがあって面白いもの、気長に歩くとしようと心を入れ替え・・・・・、意気消沈に来た道を旧街道に戻ろうとすると、家に囲まれた空き地に立派な地蔵堂が!! 「 渡し地蔵 」である。(写真2枚目)
ここまで無事来られたことに感謝し拝ませていただく。
しかし立派な地蔵尊である。 高さ1.7m、ここまで見て来た地蔵とおなじ砂石のような花崗岩で作られているようだが、残念ながら地蔵堂の戸は閉じられていたーー;;。
人の多い大阪である、今までの地蔵堂は、狭い土地いっぱいにお堂が建てられていたが、しっかり土地が整備されているのは、ここぐらいでなかろうか(^^。
休むスペースもある、地蔵堂の段になった場所に背負った荷物を置き、お茶で一服である。昔の旅人も、渡し船を待つのに同じよう荷物を置き一服したのであろうか。(^^!
のんびりしていると、前を通り過ぎる自転車に乗ったご婦人方の視線に冷たさを感じる。。まぁ、平日、働き盛りのおっさんがカメラ片手にお茶を飲んでくつろいでいるのだから、不審者であろう(笑。
天気も良くお堂の空き地から空を見上げる。そうすると地蔵堂を囲む民家の壁には洗濯物がぶらさげてある・・・・。アッ! この状況は不審者に間違われても仕方がないかもしれない・・・・。つまらないトラブルにならないように、そそくさと休憩を終え、旧街道に戻る(^^笑。
新喜多から次の地区の名前は 「 西堤本通 」。 高井田、西堤、「高い堤」である。それぞれに、川の名を残した、旧街道である。今では想像もつかないくらいの川が流れていたことであろう。
大きな道(産業道路)に出る前に、大阪らしい、ここが東大阪とわかる(^^;風景があった(写真3枚目)。さて、次に入る地区は、歴史的背景のありそうな、東大阪市御厨(みくりや)である。
西へ東へ 伊勢に向かう旧街道 昔の思いを踏みしめながら 伊勢においないな
|
















































