伊勢 おいないな 日記 〜サラリーマンの写真集〜

神風の 伊勢の浜荻折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に 「万葉集より」

おかげ 〜伊勢への想い

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わしが国さは お伊勢が遠い お伊勢恋しや 参りたや
〜伊勢音頭〜

築榊講常夜燈(つきさかこうじょうやとう)

 寺戸町初田にあり、天保13年(1842)に伊勢参りの講の一つ、築榊講の人々によって建てられました。
 以前は、阪急東向日駅前の西国街道と府道向日町停車場線の合流地点に所在していましたが、平成28年(2016年)7月21日に西国街道の入口に移転した 総高においては市内最大の常夜燈です
 現在は、家並みの谷間になっていますが、かつては一際高く明かりが灯され、西国街道を往来する人々の安全を祈っていました。。この築榊講は、現在も活動しており、その象徴として民俗文化財に指定されました。
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 都の中心部から離れた(長岡京時代は都)場所にまさか、太神宮常夜灯(だいじんぐうじょうやとう)があるとは! しかも 大神宮の大の字が 太 にちゃんとなっているし、御影石作りで流体系の美しい品のある常夜灯で、ただ大きいものではない。 都らしい常夜灯の作りだ。

 江戸時代、この地から伊勢へ向かうものも多かったのであろう。 
 ええじゃないかええじゃないか と 伊勢へ向かうものも多かったに違いない。
 迎える 送る 感謝 想いの形が 伊勢への道のりを照らす 太神宮常夜灯 である。
 こんなに離れた場所で、なかなか見ない綺麗な形に見とれてしまった 私 なのでした。

伊勢においないな☆ミ
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天てらす 榊の使いと 見るまでに ここやかしこに ふれるおはらい

 一生に一度の伊勢参り  伊勢への想いは、数は少ないものの今も形として残っている。
 ライフワークのお出かけとして、伊勢への思いが残るものを探求するお出かけの紹介である。

 今回は、京都中心街からはずれた奈良市よりの京都府城陽市にある 中天満宮と水土神社を紹介する。 江戸時代から伝わる おかげ踊り絵馬 を訪ねた。
 まず、
 おかげ踊り についてだが由来は、伊勢神宮の遷宮の翌年にお参りすると おかげ(御利益)がいただける といわれ江戸時代におよそ60年周期で大流行した伊勢神宮への集団参詣 「おかげ参り」 にある。
 1705年のおかげ参りは京都の町人が、1771年のおかげ参りは南山城の宇治が発祥とされ、京都からの参詣者も多かったようです
 1830年には阿波から始まったおかげ参りが大流行し、その際に河内国(大阪)を発祥として流行したのが「おかげ踊り」で、大和、山城、河内、近江、丹波の農村で おかげ踊り が踊られるようになり民衆の踊りとして全国で流行った。

 京都では、南山城を中心に流行をし、城陽市の水度神社や中天満神社には おかげ踊りの様子 を描いた絵馬が奉納され現存している。
 同時代のおかげ踊りの絵馬は全国でも9枚しか残っていないそうである。

 まずは、中天満神社の紹介である。
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 周囲は梅林の名所だが周辺の道は5ナンバー乗用車の幅でいっぱいいっぱいである。 神社前まで車で行くのは避けたい。 行くとしても謙虚な気持ちで走りたい道である。
 
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 中天満神社は、村の小さな神社ではあるがなかなか立派な社域で宮のつくりも立派で、八百万の神々がご鎮座されている。 普段の日は、宮司さんは不在である。
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 おかげ踊りの絵馬は、室内に保管されガラス越しに見ることができるが、年月が経ち外に飾られていたものであるから、傷みと汚れで真っ黒に近い。 写真で画質調整するとうまく見れるかなという値である。
 そとにある、案内板で確認必要。 歴史の流れをここで感じたい場所である。横は古墳であるし。
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 続いて 水度神社(みとじんじゃ) 。 城陽市内で一番古い室町時代からの社殿である。
 京都のローカルパワースポットとしても人気ある神社である。
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参拝を済ませ、社務所に保管されている おかげ踊り絵馬 を見せていただく。
説明もしていただき感謝。
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さすがに、外にあったもので写真で撮ったものより目で見たものは黒ずんでいる。 それでも絵は江戸時代の生の絵で 圧倒される生き生きと神との接点を求める人々がうまく描かれている。
ゆっくり眺めていることができました。
水戸神社 職員様ご配慮いただきありがとうございました。
感謝


ライフワークですから、ゆっくりと伊勢とのつながりの地へ訪れていこうとする。
伊勢においないな☆彡



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 今日は、明るい朝である。 ここのところ夜星を見て、朝早く空を見る健康的な生活が続いている。
 理由は、夫婦岩の日の出を見るためであるが、イマイチ雲が多い朝である。残念だ・・・。

 さて今回の写真は参宮街道(四日市市河原田)にある「 道標 」である。
 
 この道標、今まで見てきた中でも「新しい」ものであるが、珍しいのは「 伊勢 」と書かずに「 宇治山田市 」と書かれている点である。 「宇治山田市」、これはあまり見かけないのではないだろうか?


 今、「 宇治山田 」というと、「近畿日本鉄道(近鉄)」の伊勢への玄関口駅となる「 宇治山田駅 」で知られていると思う。
 よく、県外からこられる方に質問されるのだが『主要駅がどうして「伊勢」にあるのに「宇治山田」???』と聞かれる。
 鉄道的に見ると「 伊勢市駅 」というのがJR、近鉄ともあるが、JR(旧国鉄)より民間である近鉄の方が利便性がよく利用率が高いため、駅幅の広い「近鉄 宇治山田駅」が伊勢の主要駅として利用されるようになったのであろう。駅舎も素晴らしいし・・・・。

 現在の「 伊勢市 」は、平成の市町村合併により、旧:度会郡二見町、小俣町、御薗村が合併して広い地区となっているが、伊勢市と称されるようになったのは、 昭和30年 のことであり沼木村、四郷村、宮本村、豊浜村、北浜村等と合併を行い「 伊勢市 」が誕生した。

 元は、伊勢神宮内宮のお膝元の「宇治地区」、外宮のお膝元である「山田地区」が合わさって 明治39年 人口3万5千人の 「 宇治山田市 」が市としてのスタートである。
 明治、大正時代は、伊勢=宇治山田(市) であったのだ。

 ちなみに明治39年は、富国強兵、軍国政治真っ盛りであり、明治39年4月、内宮神苑に捕獲したロシアの戦艦の大砲が奉献され、同年9月陸軍より戦勝に貢献した日本軍大砲1基、ロシア軍より捕獲した大砲2基が奉献されている。
 宇治山田市内においては、帝国在郷軍人会宇治山田市会が設立され物々しい雰囲気の反面、内宮行き電車(市電、チンチン電車)が開通したり新福座という劇場が設立されたりといった、近代的な町人文化も華やいできた時期でもあった。
 この年の伊勢神宮への参宮者数は、両宮合計1,257,813人である。



 道標からかなり話がそれたが、画像にある 四日市市川原田町に残る参宮街道の道標は、石の道標にしては、新しいほうであり、いろんな時代の流れを経験したのであろう、それなりに修復保存されているが「 宇治山田市 」と書かれている道標は、県内で私の知る限りここにしかないのではないだろうか?
 大体の道標が「 参宮道 」と書かれるのが一般的である。
 

 内部川と鈴鹿川に挟まれた、川原田町のまっすぐに伸びた旧街道、そこに残る道標。
 多くの旅人が、これを頼りに荷を運び、行き交ったのであろう。
 現在の主要道は遠くに離れ、今は脇道としか認識されていない静かな参宮街道には、子供たちの声が聞こえ、昔と違う「 道 」としての役割をしっかりになっているのだなと、かすむ空の下思いをふけった。
 これからも、この地区の人たちに守っていただきたい 貴重な「 道標 」である。




 人々を支え 人々に支えられている 道標に想いをかぶせ見ながら 伊勢においないな ☆

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「 直に行けば京道、左に行けば伊勢道、振り返れば江戸道 」 街道が左右に分かれる所。伊勢へ続く追分である。


「 昨日たち けふたち見れば 日永なる須崎に見ゆる 松のむら立ち(もりの一村 か?) 」 西行



 ここ、日永の追分は、東海道(現 国道1号線)と参宮街道(現 国道23号線)との分岐点でかつては江戸、東海方面から伊勢、京へ向かう人でにぎわった場所。 現在は、国道と国道を結ぶ道は、バイパスができ、経済成長激しい頃の車の往来はないが、三重の工業都市、四日市市と鈴鹿市の間にある交通の要である。

 江戸時代の絵図には、鳥居をはさみ、たくさんの店が並び、伊勢大神楽などが催され、名産品は「 団扇(うちわ) 」であるそうだが、今は車が通り過ぎる場所である。

 ここは、現在、水をくみ出しており、多くの人が、ペットボトルを持ち込み天然の良水を求める場所となっている。水は硬水であろうか? 懐かしい水の味である。

 追分に残るもので存在感を大きく表す物は、立派に方向を書いた 「 道標 」 と 「 常夜灯 」である。
 神宮遥拝所となっている「 鳥居 」は、神宮からのものでなく、江戸時代に江戸で大成した商人達が私財で敷地を買い取り、鳥居を立て、さらに今後の改造費として百両を寄付し、地元民がこれを基金として神宮式年遷宮ごとに改造されてきたものである。 伊勢への信仰の強さがわかる。


 さすがに、大工業都市 空気は伊勢に比べ新鮮とはいかないが、人も交通も多く、伊勢にはない楽しみがあるであろう。
 私も何年か(バブル期)、四日市に住んでいたので、その頃とはかなり街の景色は変わっているが、第二の故郷的に愛する街である。 


 

   伊勢街道への入り口 さまざまな旅人が深い息を吐いたであろう 日永を通り見て 伊勢においないな ☆

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 年末の大掃除とばかりに記事を上げている てっつんである。

 前記事 → http://blogs.yahoo.co.jp/t20_in_ise/29176168.html  桜の渡しから100m程離れた場所に「 参宮人見附 」の石碑が建っている。

 人見附とは、不審者をチェックする見張り所のことで、古い資料や絵図には、その存在に触れるものは何一つないが、昭和54年この場所で郷土史家により発見され、新しく作りなおされた石碑(看板)である(ここより100mはなれた場所で発見されたとのこと)。

 伊勢は、幕府や武家の支配を受けなかった神領ではあるが、抜け参りなどで参拝客が溢れた時代である、伊勢の地に入れば犯罪人でも許されるようになれば大変でしょうから、こういう検問が必要だったのでしょう。
 かの有名の幕末維新期の侠客(きょうかく)、明治期には実業家となった「 清水の次郎長 」は子分を引き連れて海路「 伊勢 」に渡ったことから街道にある人見附の効果もあったのではないでしょうか?  伊勢に上陸した清水の次郎長は、伊勢古市にいた地元の侠客(任侠者:やくざ)を血を見ることなく屈服させている。これは、 「 伊勢の街道〜間の山 長峯 内宮〜  」で書くとしよう。
 
 またこの頃の奉行所は、遊郭から足抜け(逃亡)する遊女を取り締まっていた。
 遊郭から人探し(足抜け)の依頼を受けると奉行所が連れ戻すということで、娼婦を街道に溢れさせないようにしていたから、伊勢を出るには渡し舟を使うしかなく遊女は「人見附」を通らざるをえない。捕まった遊女は店に送り返され、ペナルティーを受ける。ペナルティーは、拷問と思われるだろうが実際は、「借金が増える。(返済額が増える)」が足抜けのペナルティーだったらしい。
 明治時代の警察になり、遊郭からの足抜けをした者の捜索はしなくなった。それにより、足抜けが多く行われ街道筋の遊郭は衰退して行ったそうだ。


 現物の「参宮人目附の石碑」は、常夜灯を割り作られている。(小俣中学校に保管?)
 常夜灯を割って作るのであるから、人見附が街道を守るものであったのには間違いないであろう。現在の石碑はコピーである。 常夜灯に火袋部分をつけるための石碑上部のヘコミが特徴的。



 旧街道の要所 宮川 桜の渡し 人見附跡  今も残る街道を訪ねに 伊勢においないな☆
 

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