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「 みやびとの させる榊を われさして よろづ代まで かなであそばむ 」
〜〜 倭舞 歌詞 〜〜 神宮の神楽祭は、昭和20年の初めより、春は4/28からの3日間、秋は秋分の日を中日とした3日間、天照大御神の御神徳を宣揚し、あわせて神宮雅楽を広く一般公開するものである。
今日伊勢神宮で行われる雅楽は、神宮の祭典において奏するため明治の初めに宮内省式部寮から伝授されたことにはじまり、神宮の楽師は宮内庁式部職楽部の楽師とともに雅楽を専修するわが国でも数少ない存在である。 普段は、神宮の祭典の奏楽の他、神楽殿での神楽の演奏を行っている。
神宮の雅楽(神楽)が神宮独自に、古くから伝わるものではないのは、伊勢の神宮が明治4年の神宮改革が行われるまで、私幣禁止(しへいきんし:私祈祷禁止)であったこと、国家の政を守護する神宮が、公儀(皇室)以外の祈祷は禁止であったことに由来する。
しかし、朝廷の権力が衰退していった平安時代末期ごろより、朝廷からの神宮に対する公費や神税が満足に調達できなくなると、神宮の祭祀や社の保守も満足にできなくなった。 この状況に 「背に腹は変えられぬ」 と神宮の権禰宜(※ごんねぎ)クラスの神主達が奮起して「武運長久などの利益祈願を私どもが代行しますから、田畑をご寄進しなさい。」という、経済活動に動き出した。
後にこれが、神宮と庶民、全国への繋がり(師檀関係)をつなぐ「 御師 (おんし)」と言う職になる。
しかし、御師の行う舞楽(神楽)は、「湯立て神事(榊の枝で湯を振りまく)」のようであったらしく、現在のとは、まったくの別物であったそうだ。 さて、公開舞楽は4曲。 順に紹介する。
①『 振鉾 (えんぶ) 』
舞楽を行うにあたって必ず最初に演奏される曲で左方一人舞 右方一人舞 が同時に舞う特殊な舞である。
古代中国の故事に由来する舞で、左方当方の舞人が鉾を振り、転地を鎮め安じて、天下の太平を言祝ぐという大変めでたい舞楽。 舞台を祓い清める舞楽と観念され、必ず舞楽の初めに奏されるようになった。
②『 左方抜頭 (さほうばとう) 』
天平年間(729〜749)に、林邑僧仏哲(りんゆうそう・ぶってつ)により、わが国に伝えられたものです。
猛獣に親を殺された胡人(こじん)の子が、山野にその猛獣をさがし求め、ついに親の仇を討ち、歓喜する姿を模したものといわれています。また、一説には嫉妬に狂った唐の妃が髪をかきむしる姿を舞にしたともいわれています。 曲の拍子は只拍子(ただびょうし 6拍子)です。眉をつり上げた赤い面と、毛縁(けべり)の裲襠(りょうとう)装束を身に着けた舞人が、腰を落とし左右もしくは右左にギロリをする舞振りです。
③『 胡蝶 (こちょう) 』
胡蝶(こちょう)は胡の国の蝶をモチーフにした舞楽。
平安時代中頃の延喜六年(906)、宇多上皇が童相撲をご覧になる際、藤原忠房が曲を、敦実親王が舞を作られた。 日本で作られた童舞として名高い曲で4名が舞う。
「装束・化粧」
平絹白地の袴の上に、緑系統の地色に蝶を散らした尻長の紗の袍を着て、手には山吹の枝を持つ。 足には絲鞋を履き、背と胸に、牛革、又は重ね貼りした和紙に胡粉を引き紅や緑青で蝶の羽を描いた翼と胸当てをつける。 草花や鳥虫に季節の移ろいを愛でた平安の王朝の歓声が感じられ、春の園に蝶が遊び戯れる風情の舞楽である。
④『 長慶子 (ちょうげいし) 』
長慶子(ちょうげいし)は、平安時代中期に琵琶・箏・笛・篳篥などの名手として知られた源 博雅の作曲と伝えられている。 伊勢においないな☆彡 |
伊勢の祭り 春(3〜5月)
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参拝するのに並んでいます。 昔、この近所に住んでいて、 倭姫命宮の森は、私の庭のようにかけまわっていました。 神様は、子供が好きだから、小さいあの頃、あの当時は、結構おおらか。 今やったらダメですけどね。 子供の健康に感謝。 伊勢においないな☆ミ |
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今日で、まさかと事の重大さにテレビの前で刻々と伝えられる状況に驚愕した「東日本大震災」が発生し1年がたちました。
各地で追悼式が行われ、マラソンランナーなど全国民自主的に震災発生の午後2時46分、各地で黙祷が行われたようです。
私も、三重県伊勢市で「厄除け観音」として有名な『松尾観音(龍池山観音寺)』にて、木造住職の御導師で般若心経を唱和し、震災発生時間に1分間の黙祷を行いました。
そののち、募金箱にチビてっつんとともに、お恥ずかしいばかりの義援金を入れました。
経の中で「南無太神宮」と入るのは、さすが伊勢神宮のおひざ元だけの古刹であります。
犠牲者様に謹んで哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈りいたします。
思うと地震大国を忘れるほど穏やかな日本が、阪神大震災以降、たくさんの自然災害を経験しているように思います。 そして災害を乗り越えた方々の声を聴く機会が増え、伝えていただき、学んできたように感じます。
東日本大震災、津波で大きな被害をうけた地と、同じようなリアス式海岸と平野部が混じる地形の伊勢志摩に住む以上、今回の災害から学ぶべきところはしっかり学び、次の世代に個々として生き延びるすべ、日本人、人としての集まりのなかでの「絆」を伝えていきたいと思います。
以下に、私の知る範囲で 伊勢についての震災記録を書かしていただいて 今回の記事は終えます。
過去にも今からにも 全てに感謝。
【 以下は、記録されている三重県(伊勢)に被害をもたらした地震である。】
○1498年(室町時代) 明応7年 伊勢の沿岸を襲った津波が原因で、伊勢大湊では「流出家屋1,000棟、死者5,000人。」 製塩業は、壊滅もしくは衰退。 ○1764.10.29 明和1.10. 5 伊勢 伊勢で大地震、所々破損というも、内院は無事。 ○1770.11.23 明和7.10. 7 紀伊 紀伊ところどころ地割れ、石垣崩れ、落石あり、余震数回。 ○1778.11.25 安永7.10. 7 紀伊 尾鷲・奈良吉野郡で石垣・山・道崩れる。 ○1819. 8. 2 文政2 伊勢・美濃・近江 7.0〜7.5 香取(多度町)で40軒が全滅し、金廻では海寿寺潰れて圧死者70、傷者300余。桑名では城の内外破損し、伊勢神戸でも櫓の壁落ち、堀など破損。四日市で石灯籠多く倒れ、土蔵・塀破損。 ○1854. 7. 9 嘉永7. 6.15(安政 1)伊賀・伊勢・大和および隣国 7.0〜7.5 伊賀上野・四日市・奈良・大和郡山付近で被害が大きい。木曽川・町屋川・朝明川・鈴鹿川等の土堤には裂け目ができたり、沈下したりしたところが多かった。紀伊半島沿岸では震度4〜5と推定され、住民は津波の心配をしたという。伊賀で死者625、傷994、家の全潰2270、蔵の全潰306。 ○1854.10.11 嘉永7. 8.20(安政 1) 伊勢 木曽川堤破壊し、桑名郡老松輪中の地の家屋流失し、死者70余。 ○安政東海地震 嘉永7.11. 4(安政 1)津では局地的に被害が大きく、家屋全壊157、半壊607、死者4であった。津波が房総から土佐の沿岸を襲う。志摩半島の甲賀で、流出家屋134、死者11、和具で400余軒のうち270流出、死者42、長島で戸数約800のうち80軒残り、死者23、尾鷲で流出661、死者198など。 ○安政南海地震 1854.12.24 嘉永7.11. 4(安政 1)畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道 安政東海地震による被害と区別ができない。 ○1855.安政2. 3. 尾鷲 馬越峠茶屋崩壊。 ○濃尾地震 1891.10.28 明治24 愛知県・岐阜県・伊勢では死者1、家屋全潰625、家屋半壊752、橋梁損落2、堤防崩壊95、道路破裂24。伊賀では、家屋全潰7、山崩れ。 ○1898.11.13 明治31 木曽川中流域 伊勢の沿岸で小被害あり。 ○1899. 3. 7 明治32 紀伊半島南東部 木ノ本、尾鷲で死者7、傷者62、家屋全潰35、家屋半壊40、道路破損86。木ノ本で石垣崩れ、倉庫倒壊など。新鹿・飛島などでは山崩れ6ヶ所。有井村で倉庫全壊28、家屋半壊7、死傷者5、長島で山崩れ。 ○1903. 7. 6 明治36 三重県菰野付近 菰野で警察の壁、その他家屋に小破損あり。 ○1925. 7. 7 大正14 岐阜付近 四日市で煙突の倒れたもの、塀の倒れたものあり。 ○北丹後地震 1927. 3. 7 昭和 2 京都北西部 三重・滋賀・奈良・福井・徳島・香川・岡山で小被害があった。 ○東南海地震 1944.12. 7 昭和19 東海道沖 三重県での被害は、死者389、傷者608、住家全壊1,627、住家半壊4,210、非住家全壊1,103、非住家半壊1,901。流出家屋2,759、浸水家屋7,579。津波の被害は特に尾鷲、錦、吉津等の町村で大きかった。 ○三河地震 1945. 1.13 昭和20 愛知県南部 6.8 ○南海地震 1946.12.21 昭和21 南海道沖 8.0 三重県での被害は、死者11、傷者35、住家全壊65、住家半壊92、家屋浸水1,435、家屋流失23、道路損壊28、堤防損壊41。津波は房総半島から九州に至る沿岸を襲った。 ○吉野地震 1952. 7.18 昭和27 奈良県中部 6.8 三重県では小被害があった。 ○兵庫県南部地震 1995. 1.17 平成 7 阪神・淡路 7.2 三重県で震度4. 【伊勢市内で行われる津波に対するお祭り】
○ 龍宮社例祭 「 郷中施 」 6月末開催 二見興玉神社 〜 伊勢市二見町
江戸時代の大津波で被害を受けた郷の供養祭。 きゅうり・みる・まつな を小船に載せて海に流す。これは、津波に対して『急に、見るな、待つな』の学びを後世に伝えるべく行われる祭り。 |
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発生は戦国時代と考えられる、伊勢に伝わる能楽で、もと呪術系統の猿楽であった。
元々、伊勢を流れる宮川の西側、松坂市周辺にいた能楽家が、伊勢国司北畠家の滅亡とともに伊勢神宮を頼って、戦国時代の末に、この地に住み着いたものと考えられる。
特に、翁 の前に行われる「シンガク」が日本の歌舞史上貴重な資料と考えられ、呪術の芸能である面影が伝えられるそうで、国の選択無形民俗文化財に指定され、町民が伝え守る伝統文化芸能である。
で 今日は、 オリンピックの出場をかけた 名古屋マラソンで・・・・ 伊勢市出身、野口みずき選手をテレビで応援し、離された時点で、ワンセグで中継を確認しながら一色神社に向かい、なんと途中下り坂から驚異的な追い付きをみせましたが、結果は6位でフィニッシュ!! 33歳!!よくやりました。 出場を逃したのは残念ですが、すごいことです。すごい走りで 夢に向かって走る 姿に心励まされた感じ・・・・ ありがとう 感謝。
で 現地到着 午前11時。。。。。。。。。。。。。。。
終わっていました。
ぶっちゃけ 11時からだと思ってました。 残念。
まぁ 来年の楽しみができたということで、こんな感じの神社でした。
伊勢においないな☆ミ |
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三重県伊勢市二見町にある 二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ)は 「夫婦岩」で有名である。
夫婦岩と言った方が、場所もわかりやすいであろう。
寄り添う夫婦に見立てた岩が名物であるが、本来は夫婦岩の700m沖合の海中に静まる「猿田彦大神(さるたひこのおおかみ) 」と夫婦岩(昔の名称は立岩)の間から昇る「日の大神」を拝し祀る神社である。
最近は、猿田彦大神の御使いと信じられる 蛙(カエル) の神社として知名度もできており、お守りとして蛙をもつと、無事カエル、貸したものがカエル、出したお金がカエル、若ガエル 等の御利益がえられるという。
もちろん てっつんも金銀を購入!!! しかし・・・・財布に入れるのは かみさん(^^! 私はかみさん(嫁)の御使い。 の てっつんだケロ!!(爆笑)
私のお財布から初穂を納めていただいてまいりました。 小蛙で良いような気がするけど金銀の方がよいらしい(笑)。適当なうわさで人が動く 御利益 とは面白い文化だなぁとつくづく思う。。!!
さて、藻刈神事であるが、まず本殿で祭典が行われ
その後、二見興玉神社で祓具として用いる『 無垢塩草(むくしおくさ) 』が、夫婦岩の沖合700m先に鎮まり坐す猿田彦大神縁りの興玉神石(おきたましんせき)より採取される。
神社から離れた場所に車で移動、川に係留(小さな港)されている船に、神職・巫女らが乗船する。
伊勢湾に面する二見の海は穏やかである。
船に、榊・幟を立て注連縄を張り巡らした、なかなかの船外機付きの船で、興玉神石の付近を三周し、二拝二拍手一拝の後、御酒御饌を海中に捧げ、無垢塩草を手鎌で刈り取られる。
海上で藻刈りを終えた後、刈り取られた無垢塩草は、藻桶に入れられ本殿に奉げられた後、天日に干して、祓具・不浄祓守となる。
『無垢塩草』は、諸々の罪穢れを祓うと言われており、古来より宮中・神宮、諸社にて広く使われていたそうだ。
本日は、着物で見学に行ったが、とにかく暑かった。 半袖半ズボンが充分な夏日であり、海の上がうらやましく見えたほどである。(^^!
まぁ、陸から見るとかなり遠い 遠い(笑。 300mmのレンズじゃぁ。これくらいが限界。
500mmレンズが欲しいなぁ・・・・・ とつくづく思った私であった。 あくまでも趣味の世界、カエルにお願いして小遣いをためなきゃね。(苦笑
夏を迎える 伊勢の海 伊勢の神事へ おいないな☆ミ
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