|
2006年2月・・・ プロ野球のキャンプが始まった。 各球団、優勝を目指した熱き戦いが再び始まるのだ。 その中で大西は、巨人にいた・・・ 2005年、阪神の優勝決定後に戦力外通告を受けた・・・ その中で、現役引退も考えた。 「ドラゴンズで選手生活を終えるのが理想だと思っていた」 大西の正直な思いだったのだろう・・・だが、 「今、野球をやめたら一生後悔する」 その気持ちの方が強かった。 中日球団は、その大西の気持ちを重視し「一番自分を欲しがっている球団」を探した。 そこで手を挙げた球団は多数あったが、一番熱心に動いたのが巨人だった 2006年・・・ 巻き返しを狙う原新監督が、大西を高く評価していた 「彼は、ジャイアンツにはいないタイプの選手。外野は3つともできる」 大西の勝負強さや、激しいプレーで巨人を変えて欲しい・・・ その想いから、大西獲得に動いた。 もちろん大西にも迷いはあったはずだ・・・ 打倒・巨人に生きていた男が、巨人に行く事になるとは・・・ だがそれ以上に、野球がしたい!!その気持ちの方が強かった。 かつて 「こんなもん、やめたらぁ!」 と叫んでいた男が、 「野球をやりたい!!」 と、心の底から叫んでいた。 もう、かつてのごんたではない・・・ 大西は最後にお世話になった、中日のファンにこのような言葉を残している 「ドラゴンズがあるから、今の大西がある。ファンの方にはどれだけ負けていても最後まで声援を貰いました。大した成績を残していない選手ですが、ファンに大きくしてもらった、力以上のものを出させてもらったと思っているんです」 そして・・・ 「来期もナゴヤドームにやってきます。応援して欲しいとおごましくて言えません。けど・・・一人の野球選手として、大西崇之を見てもらえれば・・・」 大西の新たなる戦いが始まった・・・ 何度も挫折した・・・ 「こんなもん、やめたらぁ」 何時だってうそぶいていた・・・ だが、大西と野球との絆は誰よりも深かったのだ 野球ごんたの戦いは続く・・・
|
野球ごんた
[ リスト | 詳細 ]
「野球ごんた」大西崇之の壮絶な野球人生を振り返る
|
2004年・・・ チームが首位固めを始める頃、大西は不振にあえいでいた。 アテネ五輪期間中、又は9月1日に起こった死球による怪我で主砲・福留が離脱してからは「5番」に座る事もあった大西・・・ しかし、この頃より大西の右手首が悲鳴を上げ始めていた。 右手首の痛みにより、大西本来の思い切ったプレーが出来なくなっていた。 しかし、大西には後ろへ下がるという選択は取れなかった。 チームが優勝を争う中で大西の意地が下がる事を許さなかったのだ。 だが、それも限界に来ていた。 日本シリーズ終了後に、大西は右手首の手術を受けた。 そのため、2005年の春季キャンプは出遅れのスタートとなっていた。 オープン戦にも満足に出れないまま、シーズンが始まってしまった。 もちろん、大西は二軍にいた。 プロ野球改革元年と言われたシーズン。 チームは序盤、前年の勢いのまま首位を独走していたが、交流戦に入ると失速。 もともと、伝統的に初物に弱いと言われるチーム・・・ 徐々に失速していく中で、チームは再び暗闇に落ちていった。 そんな時期の5月26日・・・ 大西が一軍から呼ばれた。 大西はこの日、9回から守備固めで出場した。 試合は楽天を相手に、3対15と圧倒的に負けていた ナゴヤドームに詰め掛けたファンも試合を諦めていた。 しかし、大西が姿を現した瞬間だった! ナゴヤドーム全体から大西コールが起こったのだ 「あのコールは嬉しかった。勇気を貰った」 大西は試合後にそう語った。 チームはその後首位に立った阪神に対して、猛追撃を見せたが、交流戦の不振と勝負所での連敗が響き連覇を逃した。 大西自身もここ数年では最悪の成績でシーズンを終える結果になってしまった。 そして、シーズン終了後・・・ 球団から大西に一つの非常な言葉が伝えられた。 戦力外通告
|
|
2003年・・・自己最高の成績を残した大西だったが、チームは迷走状態が続いていた。 結果的には、2位という成績だったが、阪神の強さの前に圧倒的に離されての2位だった。 2003年秋・・・球団は、チームを改革するためにある男を監督に起用することを決める。 野球ファンの脳裏に少し忘れかけた言葉が蘇った。 オレ流 中日はかつて、3度の三冠王に輝き、88年の優勝時に主砲を務めた落合博満を監督に起用した。 大西と落合博満・・・ この二人には、共通点がある。 それは、二人とも野球ごんたという点だ。 秋田工商の野球部を7回退部して、8回入部した上、一時はプロボウラーを目指したこともあるオレ流人生・・・ さらには、野球選手の生活水準向上のため、あえて世間から悪役を演じ続けた男。 まさに、野球に対しては、文句なしの「ごんた男」であった。 そんな落合監督が、大西に期待したもの・・・それは 絶対的な切り札 たとえ、スタメンじゃなくとも相手に「まだベンチには大西がいる・・・」と思わせれるような、切り札的存在になることを大西に期待していた。 しかし、山田政権時にレギュラーメンバーとして活躍した大西は、2004年のシーズン中にベンチでイラつく事が多くなっていった。 「なんで、試合に出れないんだ!」 そういった思いで、シーズンを戦うこともあったという。 だが、決して大西の実力を見くびっていたわけではない。 2003年の秋季キャンプでの出来事で、そうで無い事はよく分かる。 当時、近鉄を自由契約となったT・ローズの争奪争いが始まった頃・・・ 当然、マスコミやファンからは「ローズを取るべきだ!」と言う意見が、上がった。 しかし、落合監督は見向きもしなかった。 その時期、落合監督と大西の間にこんなやり取りがあったと言う・・・ 「ローズが近鉄を出たというのは知っているな?でも、うちはローズを取らないよ。なんでだと思う?」 この質問に、大西は首を傾げたという・・・ この後に言った落合監督の一言に大西に対する期待がよく分かる。 「お前がいるからだよ。ローズの長打力は確かに魅力だが、お前ほどの仕事が出来るとは思えん。」 このやり取りからも、大西に対する期待感がよく分かる。 シーズンが始まると、チームは低迷を続けた。 うまく打線が機能せず、一時は最下位に転落・・・ しかし、5月中頃・・・ 一、二番コンビの井端、荒木の打順の入れ替えが成功し、打線がつながりだすと、成績は急浮上。 一気に、首位争いに名乗りを上げた この頃の大西は試合出場の機会を貰うために、野球人生で初めて一塁手にも挑戦することになる。
大西にとって苦しいシーズン・・・ だが、ある試合で発した大西の一言がファンやチームに勇気を与えることになる |
|
2002年・・・まさに、どん底の状態のドラゴンズを引っ張っていった大西・・・ 大西にはどうしてもナゴヤドームで負けられない・・・負けたくない理由が会った。 このシーズンより、ナゴヤドームのライト側の4席分のシーズンチケットを購入。 そこを「大西シート」と名づけ、ナゴヤドームで行われる全ての試合に子供たちを招待している。 好プレーはもちろん、失敗した後に頑張る姿も含め、子供たちに夢を提供したい・・・ そんな大西の願いを込めた4つのシート・・・ そこに来てくれる子供たちのためにも・・・その思いが大西を奮い立たせていった。 試合開始の時、 「さあ!行こうか!!」 大西が声を上げる。 そして、体を張る・・ 気がつけば、大西の気持ちがチームを浮上させていった。 大西の熱気に周りが反応し、夏場以降の猛反撃を生んでいった。 結果は、最終的に阪神を抜いて3位・・・ 大西も規定打席に届かなかったが、打率3割をマーク。 大西にとって、それまでで自己最高の成績を残していった。 2003年・・・春のキャンプで大西とは関係ない所で、ある出来事が起きる。 話題づくりの為にと、その年のルーキーを一軍のキャンプに上げようというプランが出た時の事・・・ その時、首脳陣会議で「誰を落とすか」という話し合いが行われていた時の事・・・ 誰かが 「大西を落とそう・・・」 と言った。 その意見に、監督、そしてほとんどのコーチが賛成した・・・その時! 佐々木恭介ヘッドコーチ(当時)が声を荒げて怒鳴り散らした。 「皆、何馬鹿なことを言ってるんだ!!去年ドラゴンズがAクラスに入れたのは、大西が体を張ったからだろ!!もう大西をそんな目で見るのはやめろよ!大西はもうドラゴンズの中心選手なんだ!」 その一言で、このプランは取り消しとなった。 そう、大西はかつての「代替がきくスペシャリスト」から「ドラゴンズの中心選手」として誰からも認められたのだ そして、2003年のシーズン・・・ 関川浩一との併用が続いたが、ドラゴンズのレギュラーメンバーとしてフルシーズンを戦った。 規定打率には届かなかったが、打率3割1分3厘をマーク。 本塁打も、それまで通算4本だった本塁打もシーズン9本と、長打力や打撃技術の向上を見せ付けた。 時には、打線の核として・・・またはリードオフマンとして活躍した しかしこのシーズン、星野仙一率いる阪神タイガースの圧倒的な独走により、またも優勝を逃す・・・
さらには、シーズン途中での山田監督の解任・・・ チームは迷走状態を続けていた。 |



