名古屋人変わり者の独り言(仮)

今という一瞬(とき)を生きるのだから 男一徹この道を行く 俺を燃やすはお前の鼓動 急ぐな 焦るな 己を信じろ

野球ごんた

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「野球ごんた」大西崇之の壮絶な野球人生を振り返る
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野球ごんた 〜未来へ〜

イメージ 1

前回は・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/t2max1980/22134757.html
こちらをご覧ください


2006年2月・・・
プロ野球のキャンプが始まった。
各球団、優勝を目指した熱き戦いが再び始まるのだ。

その中で大西は、巨人にいた・・・

2005年、阪神の優勝決定後に戦力外通告を受けた・・・
その中で、現役引退も考えた。
「ドラゴンズで選手生活を終えるのが理想だと思っていた」
大西の正直な思いだったのだろう・・・だが、
「今、野球をやめたら一生後悔する」
その気持ちの方が強かった。

中日球団は、その大西の気持ちを重視し「一番自分を欲しがっている球団」を探した。
そこで手を挙げた球団は多数あったが、一番熱心に動いたのが巨人だった

2006年・・・
巻き返しを狙う原新監督が、大西を高く評価していた
「彼は、ジャイアンツにはいないタイプの選手。外野は3つともできる」
大西の勝負強さや、激しいプレーで巨人を変えて欲しい・・・
その想いから、大西獲得に動いた。

もちろん大西にも迷いはあったはずだ・・・
打倒・巨人に生きていた男が、巨人に行く事になるとは・・・
だがそれ以上に、野球がしたい!!その気持ちの方が強かった。
かつて
「こんなもん、やめたらぁ!」
と叫んでいた男が、
「野球をやりたい!!」
と、心の底から叫んでいた。
もう、かつてのごんたではない・・・

大西は最後にお世話になった、中日のファンにこのような言葉を残している

「ドラゴンズがあるから、今の大西がある。ファンの方にはどれだけ負けていても最後まで声援を貰いました。大した成績を残していない選手ですが、ファンに大きくしてもらった、力以上のものを出させてもらったと思っているんです」
そして・・・
「来期もナゴヤドームにやってきます。応援して欲しいとおごましくて言えません。けど・・・一人の野球選手として、大西崇之を見てもらえれば・・・」
大西の新たなる戦いが始まった・・・

何度も挫折した・・・
「こんなもん、やめたらぁ」
何時だってうそぶいていた・・・
だが、大西と野球との絆は誰よりも深かったのだ

野球ごんたの戦いは続く・・・
                                 

野球ごんた 〜暗闇〜

前回まで・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/t2max1980/20143065.html
↑こちらをご覧ください

2004年・・・
チームが首位固めを始める頃、大西は不振にあえいでいた。
アテネ五輪期間中、又は9月1日に起こった死球による怪我で主砲・福留が離脱してからは「5番」に座る事もあった大西・・・

しかし、この頃より大西の右手首が悲鳴を上げ始めていた。
右手首の痛みにより、大西本来の思い切ったプレーが出来なくなっていた。
しかし、大西には後ろへ下がるという選択は取れなかった。
チームが優勝を争う中で大西の意地が下がる事を許さなかったのだ。
だが、それも限界に来ていた。

日本シリーズ終了後に、大西は右手首の手術を受けた。
そのため、2005年の春季キャンプは出遅れのスタートとなっていた。
オープン戦にも満足に出れないまま、シーズンが始まってしまった。
もちろん、大西は二軍にいた。

プロ野球改革元年と言われたシーズン。
チームは序盤、前年の勢いのまま首位を独走していたが、交流戦に入ると失速。
もともと、伝統的に初物に弱いと言われるチーム・・・
徐々に失速していく中で、チームは再び暗闇に落ちていった。
そんな時期の5月26日・・・
大西が一軍から呼ばれた。
大西はこの日、9回から守備固めで出場した。
試合は楽天を相手に、3対15と圧倒的に負けていた
ナゴヤドームに詰め掛けたファンも試合を諦めていた。
しかし、大西が姿を現した瞬間だった!
ナゴヤドーム全体から大西コールが起こったのだ
「あのコールは嬉しかった。勇気を貰った」
大西は試合後にそう語った。

チームはその後首位に立った阪神に対して、猛追撃を見せたが、交流戦の不振と勝負所での連敗が響き連覇を逃した。
大西自身もここ数年では最悪の成績でシーズンを終える結果になってしまった。

そして、シーズン終了後・・・
球団から大西に一つの非常な言葉が伝えられた。

戦力外通告

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前回は・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/t2max1980/19335009.html
こちらをご覧ください

2004年・・・
大西にとっては苦しいシーズンが続いていた。
チームも苦しんでいた・・・

落合監督が言った、
「補強はしない、選手の能力の現状の10%の底上げ」
この言葉を発した時、多くのマスコミやファンは
「中日の優勝は無い」
と諦めていた。

事実、5月に入り浮上の兆しを見せ、首位に立った時点でも
「まず、中日は無いだろ」
と言った声も多かった。

しかし、5月30日対阪神戦・・・
この試合が一つのターニングポイントになる。

試合は、投手戦になっていた。
中日は、得意の継投策で0点に押さえるも、阪神の先発下柳の前にわずか一安打
しかし、9回の裏・・・
この回から登板のウィリアムスから、四球とエラーで出たランナー進め、1アウト1.3塁。
落合監督は、迷わず大西を送り込んだ。

場内に大事MANブラザーズバンドの「それが大事」が響き渡る。
大西!頼む!決めてくれ!!
週末の阪神戦・・・本拠地のナゴヤドームには中日ファンより阪神ファンが多く入っている中、阪神ファンに負けるものかと、大きな声で応援している中日ファンの期待と願いを込め打席に入る。
三塁には俊足の井端・・・
外野に打てば決まる・・・
その中、大西はウィリアムスの球をライトに打ち上げた・・・
大西の執念が乗り移った打球は、阪神のライトを守る桧山を1,2歩下がらせる・・・
それだけで十分だった。
桧山がボールを掴むと同時に、井端がスタート・・・
ボールは帰ってこない・・・大西が決めた!!
その瞬間、歓喜に包まれるナゴヤドーム
大西!よくやった!!

そして、ヒーローインタビュー・・・
ヒーローはもちろん大西・・・
そのインタビューの中で、大西の一言がファンを勇気付けた。
「中日のファンの皆様に一言お願いします」
アナウンサーの問いに、大西はナゴヤドームを見渡し、真っ赤に充血した目でこう叫んだ

優勝します!!!

一言・・・たった一言だった。
しかし、大西の想いがこもった一言だった。

この瞬間、全ての中日ファンが
「優勝できる!」
そう確信した。
事実、この試合をきっかけに中日は上昇して行く。
そして、2004年10月1日・・・
中日は優勝を決めた・・・

誰もが無理だろうといった中での優勝・・・
それは大西の発した一言から全ては始まったのだ

しかし・・・この時期から大西は別の苦しみとの戦いが始まっていた
前回は・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/t2max1980/18719756.html
↑こちらをご覧ください。

2003年・・・自己最高の成績を残した大西だったが、チームは迷走状態が続いていた。
結果的には、2位という成績だったが、阪神の強さの前に圧倒的に離されての2位だった。

2003年秋・・・球団は、チームを改革するためにある男を監督に起用することを決める。

野球ファンの脳裏に少し忘れかけた言葉が蘇った。
オレ流

中日はかつて、3度の三冠王に輝き、88年の優勝時に主砲を務めた落合博満を監督に起用した。

大西と落合博満・・・
この二人には、共通点がある。

それは、二人とも野球ごんたという点だ。
秋田工商の野球部を7回退部して、8回入部した上、一時はプロボウラーを目指したこともあるオレ流人生・・・
さらには、野球選手の生活水準向上のため、あえて世間から悪役を演じ続けた男。

まさに、野球に対しては、文句なしの「ごんた男」であった。

そんな落合監督が、大西に期待したもの・・・それは
絶対的な切り札

たとえ、スタメンじゃなくとも相手に「まだベンチには大西がいる・・・」と思わせれるような、切り札的存在になることを大西に期待していた。
しかし、山田政権時にレギュラーメンバーとして活躍した大西は、2004年のシーズン中にベンチでイラつく事が多くなっていった。
「なんで、試合に出れないんだ!」
そういった思いで、シーズンを戦うこともあったという。

だが、決して大西の実力を見くびっていたわけではない。
2003年の秋季キャンプでの出来事で、そうで無い事はよく分かる。

当時、近鉄を自由契約となったT・ローズの争奪争いが始まった頃・・・
当然、マスコミやファンからは「ローズを取るべきだ!」と言う意見が、上がった。
しかし、落合監督は見向きもしなかった。
その時期、落合監督と大西の間にこんなやり取りがあったと言う・・・

「ローズが近鉄を出たというのは知っているな?でも、うちはローズを取らないよ。なんでだと思う?」
この質問に、大西は首を傾げたという・・・
この後に言った落合監督の一言に大西に対する期待がよく分かる。
お前がいるからだよ。ローズの長打力は確かに魅力だが、お前ほどの仕事が出来るとは思えん。」
このやり取りからも、大西に対する期待感がよく分かる。

シーズンが始まると、チームは低迷を続けた。
うまく打線が機能せず、一時は最下位に転落・・・
しかし、5月中頃・・・
一、二番コンビの井端、荒木の打順の入れ替えが成功し、打線がつながりだすと、成績は急浮上。
一気に、首位争いに名乗りを上げた

この頃の大西は試合出場の機会を貰うために、野球人生で初めて一塁手にも挑戦することになる。
大西にとって苦しいシーズン・・・
だが、ある試合で発した大西の一言がファンやチームに勇気を与えることになる
前回は・・・
http://blogs.yahoo.co.jp/t2max1980/17883946.html
↑こちらをご覧ください。

2002年・・・まさに、どん底の状態のドラゴンズを引っ張っていった大西・・・
大西にはどうしてもナゴヤドームで負けられない・・・負けたくない理由が会った。

このシーズンより、ナゴヤドームのライト側の4席分のシーズンチケットを購入。
そこを「大西シート」と名づけ、ナゴヤドームで行われる全ての試合に子供たちを招待している。
好プレーはもちろん、失敗した後に頑張る姿も含め、子供たちに夢を提供したい・・・
そんな大西の願いを込めた4つのシート・・・

そこに来てくれる子供たちのためにも・・・その思いが大西を奮い立たせていった。

試合開始の時、
「さあ!行こうか!!」
大西が声を上げる。
そして、体を張る・・
気がつけば、大西の気持ちがチームを浮上させていった。
大西の熱気に周りが反応し、夏場以降の猛反撃を生んでいった。
結果は、最終的に阪神を抜いて3位・・・
大西も規定打席に届かなかったが、打率3割をマーク。
大西にとって、それまでで自己最高の成績を残していった。

2003年・・・春のキャンプで大西とは関係ない所で、ある出来事が起きる。
話題づくりの為にと、その年のルーキーを一軍のキャンプに上げようというプランが出た時の事・・・
その時、首脳陣会議で「誰を落とすか」という話し合いが行われていた時の事・・・
誰かが
「大西を落とそう・・・」
と言った。
その意見に、監督、そしてほとんどのコーチが賛成した・・・その時!
佐々木恭介ヘッドコーチ(当時)が声を荒げて怒鳴り散らした。
「皆、何馬鹿なことを言ってるんだ!!去年ドラゴンズがAクラスに入れたのは、大西が体を張ったからだろ!!もう大西をそんな目で見るのはやめろよ!大西はもうドラゴンズの中心選手なんだ!
その一言で、このプランは取り消しとなった。
そう、大西はかつての「代替がきくスペシャリスト」から「ドラゴンズの中心選手」として誰からも認められたのだ

そして、2003年のシーズン・・・
関川浩一との併用が続いたが、ドラゴンズのレギュラーメンバーとしてフルシーズンを戦った。
規定打率には届かなかったが、打率3割1分3厘をマーク。
本塁打も、それまで通算4本だった本塁打もシーズン9本と、長打力や打撃技術の向上を見せ付けた。
時には、打線の核として・・・またはリードオフマンとして活躍した

しかしこのシーズン、星野仙一率いる阪神タイガースの圧倒的な独走により、またも優勝を逃す・・・
さらには、シーズン途中での山田監督の解任・・・
チームは迷走状態を続けていた。

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