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大和朝廷の母体となる三輪王朝の前に存在した葛城王朝
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-5/2011_04_20.htm





宗教民族学者で大阪教育大学名誉教授だった鳥越憲三郎(とりごえ・けんざぶろう氏はすでに故人である。4年前の2007年3月23日に永眠された。筆者が鳥越氏の名前を初めて知ったのは今から40年も前のことだ。昭和45年(1970)5月、鳥越氏は著書『神々と天皇の間』を朝日新聞社から出版された。「大和朝廷成立の前夜」とサブタイトルがついた本書を一読して、強烈な衝撃を受けた印象を今でも忘れない。

戦前の皇国史観への反動で、戦後の古代史学は津田史学の手法を金科玉条のように踏襲し、『日本書紀』や『古事記』の記述の多くは記紀編者の全くの作り話であると抹殺してきた。そうした歴史学者の著作を読むたびに、なにか割り切れないものを感じた。津田史学は科学に名をかりた独断のようにも思われ、我が国の創生期の頃の記紀伝承の中にも、なにがしかの史実が隠されているような気がしていた。

そんなときに、鳥越氏の著書に出会った。その内容は津田史学の手法を完全に無視し、民俗伝承学の立場から歴史学へたたきつけた挑戦状のようにも思えた。

氏は著書の最初の部分で、二人の「ハツクニシラススメラミコト」の存在に着目されている。ハツクニシラススメラミコトとは、平たく言えば建国の大王のことである。ところが『日本書紀』も『古事記』も、初代の神武天皇と第10代崇神天皇をそれぞれハツクニシラススメラミコトと呼んでいる。この矛盾に対して、津田史学の信奉者は次のように考えた。

すなわち、記紀編者は皇室のルーツが相当古いことを示すために、当時の最新科学である陰陽五行説に基づいて、天命の改まる年、革命の年とされる辛酉年に神武天皇の即位年を当てた。そうすると、年代的な不具合があちこちに生ずるため、それを糊塗するために架空の天皇を追加したという。その証拠に、神武東征伝承を除くと、神武(じんむ)、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)、開化(かいか)の9代の天皇紀には、業績らしい業績の記述はなにもない。そのため、神武の後に続く8代を「欠史八代」とまで呼んでいる。

しかし、鳥越氏は二人のハツクニシラススメラミコトの存在をそのまま認め、大和の中に葛城山と三輪山を中心とする二つの王権の存在を想定された。記紀が記す神武から開化にいたる9代の宮と陵は、大和平野の西南にあたる葛城山麓から畝傍山にかけての地域に集中している。このことは、崇神天皇に始まる三輪王朝のそれが大和平野の東南部にあったのと著しい対象をなす。そこで、氏は神武天皇を葛城王朝の始祖、崇神天皇を三輪王朝の始祖と据え、三輪王朝に先行して葛城王朝が実在したとされた。

もとより、『日本書紀』や『古事記』に記された歴代天皇の宮や御陵が、実際に存在したという保証はない。宮址は今となっては伝承地にすぎず、宮内庁によって御陵として管理されている天皇陵が実際の墳墓または古墳である保証もない。まともな学術調査などいっさい行われていないのだ。したがって、そうした不確実な記述を根拠に復元された古代史像など絵空事にすぎない、と専門家の間では葛城王朝論はマイナーな説である。

そのことは、鳥越氏も十分承知されていて、現在宮内庁の管理下にある御陵がすべてそれぞれの天皇の墓だとは考えておられない。ただ、その地域に埋葬したという伝承記録は、何らかの真実の根拠に基づいている、としておられる。つまり、『日本書紀』や『古事記』は、それぞれの天皇の時代から受け継がれたと考えられる伝承を文献化したもので、まったく作り事とすることはできないとする立場が、氏の歴史観の根底にある。筆者もそうした鳥越氏の姿勢に共感を覚える一人である。


畝傍山の周辺に展開する初期4代の天皇陵
鳥越氏は『神々と天皇の間』の中で、さまざまな興味深い私見を披露しておられる。そのいくつかを紹介しておこう。まず、畝傍山は幽界の地とされていたのでは?、という疑問である。今でこそ畝傍山は大和三山の一つと称(たたえ)られているが、それは『万葉集』以後のことである。記紀の中では、天の香具山は信仰の対象とされているが、畝傍山は宗教的な山としての伝承をもっていない。そればかりか、神武、綏靖、安寧、懿徳の初期4代の墳墓は畝傍山の山麓に集められている。その背景に、当時は畝傍山を死後の山、黄泉(よみ)の山とみなす宗教観があったのでは、と推論しておられる。

古代の宗教観念では、北東または北西の方位を黄泉の国と考えられていたことは良く知られている。黄泉の国とされた出雲は大和の北西方向に位置する。葛城の土地から見ると、畝傍山は北東にあたる山である。鳥越氏はこうした当時の宗教観念が葛城王朝の歴代天皇の宮と陵の位置関係にも見られるという。第3代安寧天皇を唯一の例外として、各天皇の墳墓は宮の北東または北西に営まれていることを指摘されている(下表参照)。

天皇 宮址 陵 宮址から見た陵の方位
初代神武 神武宮址(御所市柏原) 神武陵(橿原市大久保町) 北東方向
2代綏靖 高宮(御所市森脇) 綏靖陵(橿原市四条町) 北東方向
3代安寧 安寧宮址(大和高田市片塩町) 安寧陵(橿原市吉田町) 南東方向
4代懿徳 懿徳宮址(橿原市大軽町) 懿徳陵(橿原市西池尻町) 北西方向
5代孝昭 孝昭宮址(御所市池之) 孝昭陵(御所市三室) 北西方向
6代孝安 孝安宮址(御所市室) 孝安陵(御所市玉手) 北東方向
7代孝霊 孝霊宮址(田原本町黒田) 孝霊陵(北葛城郡王寺町) 北西方向
8代孝元 孝元宮址(橿原市大軽町) 孝元陵(橿原市石川町 北東方向
9代開化 開化宮址(奈良市本子守町) 開化陵(奈良市油阪町) 北東方向
鳥越氏によれば、葛城王朝を開いた葛城氏は、高天彦(たかまひこ)神社に祭神として祀られている高皇産霊尊( たかみむすひのみこと )を祖神とする一族で、当初は葛城山麓の中央部に住んでいた。あるとき、高皇産霊尊の命令で、南方山麓の鴨(加茂)族が開拓した水田に下り、農耕に従った。こうした事実が記紀神話の国譲りの原形になったという。


畝傍山山頂から見た葛城(右)・金剛(左)山系
葛城族と鴨族との結びつきは深い。初代神武は、鴨族が祖神とする事代主神(ことしろぬしのかみ)娘・媛踏鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を娶って皇后とした(『古事記』では、この説話を三輪伝説に引きつけて潤色しており、三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見初めた女に産ませた娘をヒメタタライスケヨリヒメが神武の皇后になった、としている)。

第二代綏靖も媛踏鞴五十鈴媛命の妹の鈴依媛(すずよりひめ)を后として迎え、第三代安寧も事代主神の孫である「鴨君の女」を后としている。すなわち、葛城王朝の初期三代の天皇は葛城山麓に都を定め、その土豪の鴨族の娘たちを娶ることで、鴨族との政治的結合を強め、部族国家を発足させた。さらに、第6代までは尾張氏など外戚関係にある葛城地域の女を后に迎えて部族国家の紐帯を強めている。

ところが第7代の孝霊天皇のとき、大和平野のほぼ全域を平定したのか、宮を大和平野の中央に移すとともに、后には磯城(しき)の県主(あがたぬし)の娘を選んでいる。第8代孝元天皇は、大和北部をはじめ河内も占めていたと思われる物部氏から后と妃を迎えている。第9代開化天皇は、物部氏の伊香色謎(いかがしこめ)命を后とし、さらに和珥氏の遠祖の娘や丹波国の竹野媛を妃としている。こうした后や妃選びからも、葛城王朝が部族国家から強力な統一国家に成長していった足取りが追えるという。そして、葛城王朝によって築かれた基盤の上に、第10代崇神天皇が三輪王朝、すなわち大和朝廷を樹立した、と結論される。

本書の最後に、鳥越氏は日本神話の作者は誰かについて言及しておられる。皇室のルーツを語る記紀神話には、高皇産霊尊( たかみむすひのみこと )と天照大神(あまれらすおおみかみ)の二柱を皇祖として並べる矛盾がある。これは三輪王朝の史書に葛城王朝の歴史とその神話が大きく取り入れられたためであり、氏は推古天皇の時代に選録された天皇紀以下の史書に注目され、その編集に関わった蘇我氏の存在を指摘される。

葛城の地は蘇我氏の産土の地である。そのことは蘇我馬子・蝦夷父子が葛城の地をみずからのものにしようとしたり、天皇の許可を得ずに蘇我氏の祖廟を建てたことからも明らかだ、こうしたことから、蘇我氏の家記には祖先の葛城王朝のことが伝承されていた。推古天皇のとき聖徳太子と蘇我馬子が協力して編纂したとされる「天皇紀」「国記」などの史書には、当然のことながら葛城王朝の伝承が記述されたはずである。

皇極天皇4年(645)に蘇我蝦夷が殺されるとき、選録された「天皇紀」「国記」などは焼かれた。これらの史書は推古天皇の勅撰書であったはずで、勅撰書そのものは焼失したが、各氏族は己の氏族に関する部分は筆写されて残っていたと見てよい。したがって、記紀編纂時に欠史八代が新たに追加されたのではなく、推古天皇の時代に蘇我一族の史観をもとに日本の歴史と神話が方向付けされたと、鳥越氏は推測しておられる。





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 前97-29に在位し(実際は3世紀頃ともいわれる)た第10代崇神天皇は、欠史八代の次に登場する、実在可能性が初めて見込まれる天皇といわれています。崇神天皇の時代に、宮中にあった天照大神がその外に移りました。また、日本最初の神社といわれている大神神社が鎮座しました。崇神天皇の宮は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)といわれ、現在は大神神社の南側約500mのところに鎮座している志貴御県坐神社がその跡といわれています。このため崇神天皇以降を「三輪王朝」とも呼ぶようです。

 一方、欠史八代である崇神天皇以前も、天皇の陵墓は定まっており、宮の場所についても伝承地とされているところがありますので、崇神天皇以前のことを「葛城王朝」と呼ぶ研究者もいます。

 伝承地とされている場所には現在神社などが鎮座していることもあります。当時は祭政一致の時代ですので当時から天皇のいた宮において祭祀が営まれていたことは十分に考えられますので、これら宮跡に残っている神社は、見方によっては大神神社よりも古い由緒を持つ宗教施設ということもできるのではないでしょうか。

 今後このような「欠史八代・葛城王朝」期の宮跡に建てられた神社への訪問も検討中です。

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