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神の国運動

 賀川が情熱的に関わった農民組合運動が発展するに伴い、労働運動と同様、ここでも急進的な立場に立つ指導者らの影響により左右に分裂、無産政党運動も同様の運命をたどった。国家権力からの圧力もさることながら、賀川のような人格的社会主義の立場に立つ運動家には、このような経過は痛恨の極みであった。「こうした社会的活動のなかに身をおけばおくほど、賀川は社会運動において解放されなければならない人間の、人間性自体の問題性につき当たらざるをえなかった。」(隅谷三喜男『賀川豊彦』岩波書店168頁) こうして、彼は昭和の初期、4年半の長期にわたり、神の国運動に身を挺するのである。しかし、賀川は決して、社会運動を離れて宗教運動に入っていたのではなかった。事実、彼がその後、終生、協同組合運動に情熱的に関わり続け、戦後には、平和運動を展開している。また、彼の神の国運動は、米国の教会などによく見られるリヴァイヴァル運動とは理念と内容を異にするものであり、宗教運動であるとともに、社会への多面的な働きかけであった。
 1921年10月、賀川が主唱者となって、10数名の牧師仲間とともに、「イエスの友会」を設立した。これはフランシスコ会の第三教団(在俗信徒の修道会)をモデルとする信徒運動であった。設立に際して五綱領を掲げた― 一、イエスにありて敬虔なること。二、貧しき者の友となりて労働を愛すること。三、世界平和のために努力すること。四、純潔なる生活を貴ぶこと。五、社会奉仕を旨とすること。参加を呼びかけると、初年度に、会社員、商店主、教員、工員、看護婦など、千人近くの参加者があり、賀川の活動に大きく寄与することになった。1923年9月1日、関東大震災を知ると、彼は関西で援助物資を集め、翌日には神戸港を発ち、横浜港に上陸した。そして、最も被害の大きかった墨田区本所にテントを張り、セツルメント運動を開始した。この後、賀川の社会活動の拠点は東京に移されることになる。長期に及ぶ災害救援活動を可能にしたのは、イエスの友会の同志たちの協力があったからであろう。
 1925年夏、賀川はイエスの友会の修養会において「百万人の霊を神に捧ぐ」運動の開始を発表し、同年末、日本基督教連盟において運動私案を提案した。農民伝道、労働者伝道、漁村伝道、坑夫伝道、水夫伝道、看護婦伝道など、実に広範多喜にわたる伝道計画であった。しかも、彼らのための寄宿舎や北欧で見られた職業訓練学校の設立などを含む壮大な規模のものであった。賀川案は、1930年になって、「神の国運動」として開始された。賀川は神の国運動宣言信徒大会において、「日本教化の理想」と題した講演のなかでつぎのように語っている。

   日本の現状を見ると絶望の声を凡ゆる場所に於いて耳にする。村に行けば村の嘆きを、工場に行けば工場の苦悶の声を聴き、漁村に行っても魚はとれない。町には町のうめきがあり、家庭には家庭の悲しみがあり、深い嘆きと、深い絶望の声が溢れてゐる。が、我々の周囲には、恩寵に富み給ふ神が在し給ふ。その場の奥に在し給ふ生命の神が、絶望するな、お前にもう一つの道があると教へて居られる。
   絶望するな、神は我々が絶望する時に、希望を備へ給ふ。聖霊は日本黒土を蔽ふてゐる。我々の要求するのは実行である。物を云はぬ代わりに、善きサマリヤ人の親切である。従って、これからの神の国運動は、農村に、役場に、街に、工場に、我々が無言の十字架を背負って帰って行くことである。我々はこの愛の運動にもう一度帰らねばならぬ。」(『雲の柱』1929年12月号)

 賀川にとって、神の国は決して彼岸的観念的世界ではなく、衣食住をともなう具体性
をもつ世界である。「その時々に強調点やニュアンスに多少の相違はあるが、神の国が霊的
な世界であるとともに、経済的・社会的なものでもあり、両者の統一として理解されてい
る点では、終始異なることはなかった。その意味で、労働運動も、農民運動も、かれにあ
っては神の国運動の一翼にほからならなかった」と隅谷三喜男が指摘するとおりである。

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