第14回「離縁せよ」 4/17放送分あらすじ 天正12年(1584)2月、江(上野樹里)は尾張大野城で、佐治一成(平岳大)との婚礼の日を迎えた。しかし、乳母のヨシ(宮地雅子)から初夜の段取りを聞き、式の最中に倒れてしまう。 一成の優しさに触れて元気を取り戻した江は、一成と共に、清洲城の織田信雄(山崎裕太)に挨拶に行く。そこに現れた家康(北大路欣也)に驚く江。実は、江の知らぬ間に、打倒秀吉(岸谷五朗)に向けて、戦準備は着々と進んでいたのだ。一成は、秀吉からの誘いを断り、織田方として戦に出る覚悟であった。戦を止めるために嫁いだはずの江は、戸惑いを隠せない。茶々(宮沢りえ)や初(水川あさみ)とも敵味方に分かれてしまうのだ。 それから間もなくして、信雄・家康同盟軍と、10万の兵を率いる秀吉軍との戦が始まる。家康相手に苦戦を強いられる秀吉。甥(おい)の秀次(北村有起哉)は、奇策があると秀吉の許しを得て出陣するが、すべて家康に見破られ、大打撃を受ける。ついに秀吉は、信雄の懐柔策に出て和睦に持ち込み、戦は突如終結する。 戦を終えた一成がようやく城に戻り、再会を喜ぶ江だったが、そこに茶々が病気で寝込んでいるという文が届く。一成は、江を早速、大坂城へと向かわせる。しかし、出迎えた秀吉は、「佐治一成とは離縁となった」と江に言い放つ。 激突!小牧・長久手の戦い江が佐治一成のもとへ嫁いでいった天正12年(1584)3月、一成の主君・織田信雄が羽柴秀吉と対立。若い夫婦にとって予期せぬ事態へと発展していきました。「小牧・長久手の戦い」の勃発です。 今回は、羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍とが戦った「小牧・長久手の戦い」についてご紹介します。 本能寺の変」のあと信長の嫡孫・三法師を擁立し、織田家簒奪(さんだつ)の動きをみせる秀吉。この秀吉の動きに不満を抱いていた信雄は、同じく秀吉の専横的な行動を苦々しく思っていた家康と手を組み、秀吉と対立します。 具体的な動きがあったのは、天正12年(1584)3月6日。信雄は、かねて秀吉から懐柔工作を受けていた3人の家老を誅殺(ちゅうさつ)。秀吉に対するきっぱりとした意思表示で、秀吉との決戦に臨みます。 このとき、信雄・家康連合軍は3万(一説に1万6、7千)、秀吉軍は10万(一説に8万)といわれ、軍事的には秀吉軍が圧倒的に有利でした。しかし、功を焦った秀吉方の森長可(ちなみに森蘭丸の兄)が、尾張の羽黒(現在の愛知県犬山市)まで陣を進めて敗退。数では劣る信雄・家康連合軍が、地の利を生かして善戦します。家康が本陣を小牧山に置いていたことから、このころまでの戦いは「小牧の戦い」とよばれています。 4月に入り、次第に焦りの色をみせはじめたのは秀吉軍でした。女婿・長可の名誉挽回を考えた池田恒興は、「家康を小牧山にくぎづけにしている間に別働隊が三河を攻め、家康の本領をかく乱すれば勝てる」と進言。この作戦に乗り気ではなかった秀吉ですが、甥(おい)の秀次が「私が大将になりたい」と志願したため、その作戦を実行します。しかし、秀吉の不安は的中。秀次率いる別働隊の動きを察知した家康は、長久手(愛知県愛知郡長久手町)あたりで待ち受け、これを強襲。不意をくらった秀次軍は大敗し、池田恒興、森長可は討ち死に、秀次は命からがら逃げ帰りました。 この戦いは、場所の名前をとって「長久手の戦い」とよばれています。「小牧・長久手の戦い」とは、さきの「小牧の戦い」と合わせ、この年に起こった一連の戦いのことを指します。 その後、両者の対立はこう着状態となり、秀吉と信雄が単独で和解。戦う大義名分を失った家康は、浜松城に戻ります。 このとき、信雄・家康連合軍の一員として船を調達し、家康の帰参を手助けした一成でしたが、これを聞いた秀吉は激怒。「茶々が病気なのですぐ見舞いに来るように」という偽の手紙で江を誘い出し、強引に離縁させたといわれています。 江と一成の結婚生活は、半年にも満たない短いものでした。 ![]() にほんブログ村 地域生活(街) 東北ブログ 栗原情報へ(文字をクリック) ![]() にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ(文字をクリック) ↑ブログランキングに参加中です!この文字をクリックして頂けたら幸いですm(__)m |

- >
- エンターテインメント
- >
- テレビ
- >
- ドラマ番組







