宮城県栗原市 くりこま山車まつり 製作日記

ダイドードリンコ日本の祭り2013で紹介された300余年もの歴史と伝統を誇る栗原市最大のお祭りです。

江〜姫たちの戦国〜

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第9回「義父の涙」 3/6放送分

あらすじ
天正10年(1582)冬、江(上野樹里)たち三姉妹と義父・勝家(大地康雄)との間に家族の絆が芽生え、幸せな時が過ぎていた。
 そんなとき、秀吉(岸谷五朗)が、信長の葬儀を京の大徳寺で大々的に執り行う。織田家筆頭家臣・勝家も、信長の妹・市(鈴木保奈美)をも蚊帳の外に置いた行動に、市や勝家は怒りをあらわにする。かつて小谷城で愛する父・長政を失ったことが忘れられない茶々(宮沢りえ)や初(水川あさみ)は、戦が始まるのではと義父に問いただす。勝家は娘たちに「父は戦をせぬ」と約束し、家康(北大路欣也)をはじめ、織田家とゆかりの深い家々に便りを書き、秀吉の行き過ぎに歯止めを求める慎重な態度を貫く。
 しかし、恋焦がれる市を勝家に奪われた秀吉は、清洲会議で柴田家のものとなった長浜城を奪い返し、着々と戦準備を進めていた。
 選択を迫られる勝家。家族を持った喜びや娘たちを悲しませたくない思いの一方、“鬼柴田”とうたわれ戦場で勇猛に戦ってきた姿こそが自分の生きざまではないかと、大いに苦しむ。その胸中を知った市が「義父を戦に送り出すのが、我々の務め」と三姉妹を説得。江は、やっと父と呼べるようになった人を失う怖さから、勝家の決断を受け入れられずにいたが、父の無事を信じ、見送ることに。勝家は、江たち家族に見守られながら、出陣していくのだった。

秀吉の“ポスト信長”大作戦!

織田信長の死から4か月後の天正10年(1582)10月11日から7日間にわたり、京の大徳寺で政治的な大イベントが行われました。羽柴秀吉主導で行われた「信長の葬儀」です。
清洲会議で柴田勝家を翻弄し、織田家家臣団の中でナンバーワンの地位に上り詰めた秀吉。しかし、その権威はまだまだ盤石とはいえませんでした。精強な軍団を擁し、信長の妹・市を妻に迎えた勝家は、まさに目の上のたんこぶ。勝家を筆頭とする抵抗勢力との対立は、日増しに高まっていきます。
そこで、自らが“ポスト信長”であることを織田家家中、そして、天下に示すため、秀吉が打ち出した一手が「信長の葬儀」というわけです。
 秀吉は、信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝を喪主とし、勝家には内緒で信長の葬儀を敢行。境内に信長の菩提(ぼだい)をまつる総見院の建立を発表し、銀子1,000枚、銭10,000貫、米500石を寄進しました。生前の信長の偉業をしのび、盛大に行われたこの葬儀には数百人の僧侶がよばれ、葬列は3,000人にも達したといわれています。
ちなみに、“羽柴秀勝”といえば、AKIRAさん演じる江の2番目の夫・羽柴(豊臣)秀勝のことと思われる方もいるかもしれませんが、信長の葬儀の喪主を務めた羽柴秀勝は、全くの別人。信長の四男・羽柴秀勝の死後、秀吉の養子となってその遺領と名前を継いだのが、江の2番目の夫・羽柴(豊臣)秀勝ですので、あしからず。
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第8回「初めての父」 2/27放送分

あらすじ
天正10年(1582)秋、市(鈴木保奈美)と柴田勝家(大地康雄)の婚儀の日を迎える。
 しかし、茶々(宮沢りえ)と初(水川あさみ)は、どうしても義父・勝家を受け入れられず、亡き父・長政への母の裏切りを許せない。江(上野樹里)も、初めての父に戸惑っていた。 
 一方、秀吉(岸谷五朗)は憧れの市を勝家に取られたことへの激しい怒りをおね(大竹しのぶ)にぶつけていた。あきれるおねだが、秀吉の中には勝家を討ち滅ぼす決意がわき起っていた。 
 江たち三姉妹は、母の新しき嫁ぎ先である越前・北庄城に移り住む。姉たちは相変わらず勝家とはよそよそしく、市は途方に暮れる。江は、姉たちのような嫌悪を感じないものの、父と呼ぶことができない。 
 戸惑う江は、厩(うまや)番・与助(大竹浩一)の目を盗んでひとり馬で駆け出す。ところが嵐となって道に迷い、一昼夜城に戻れなくなってしまう。
 城内は大騒動。しかし、翌朝何もなかったように帰ってきた江を、勝家ははり飛ばす。上に立つ者のあるべき振る舞いを説き、無事帰ってきた江を抱きしめ涙する勝家。その深い愛情に、江、茶々、初は心動かされる。
 そして、この日を境に、勝家と三姉妹を包む空気は一変する。その一方で、秀吉は着々と戦の準備を進めていた。
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佐久間盛政って誰?

第7回「母の再婚」から登場した柴田勝家の腹心・佐久間盛政。いきなり登場してよくわからない、という方もいらっしゃるかもしれません。そこで今回は、佐久間盛政について少しご紹介します。
佐久間盛政は、「鬼玄蕃(おにげんば)」の異名を持つ猛将です。『佐久間軍記』によれば身長六尺(約182cm)とあり、かなり大柄だったことがうかがえます。天正3年(1575)、勝家が信長から越前八郡を与えられると、母が勝家の姉だった縁でこれに従い、北陸の一向一揆戦などで活躍。天正8年(1580)にはその戦功を認められて信長から加賀一国を与えられるなど、勝家自慢の甥(おい)でした。ふたりは親子のように強く結ばれていたといわれています。
本能寺の変のあとも、片腕として勝家を補佐し続けた盛政。しかし、勝家が羽柴秀吉と戦った賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでの無謀な行動が、盛政自身だけではなく、父のように慕う勝家、そして、江たち三姉妹に暗い影を落とすことになります。
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第7回「母の再婚」 2/20放送分

あらすじ
天正10年(1582)6月、信長とその嫡男・信忠亡き後、誰が織田家の後継者となるか。清洲城に身を寄せていた市(鈴木保奈美)、江(上野樹里)、茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)は不安な日々を送っていた。
 織田家筆頭家老・柴田勝家(大地康雄)は、その清洲城に織田家重臣を呼び寄せる。信長の次男・信雄(山崎裕太)と三男・信孝(金井祐太)のどちらが跡継ぎになるかさまざまな憶測が飛び交うが、家康(北大路欣也)は浜松城でその騒ぎを静観する。
 そんななか、謀反人・明智光秀を打ち破った秀吉(岸谷五朗)は、ある秘策を抱え清洲城に現れる。そのころ江は、城内でおね(大竹しのぶ)と秀吉の母・なか(奈良岡朋子)と出会う。しかし、そこには名も知らぬ幼子がいた。 
 そして迎えた清洲会議。勝家は、光秀の討伐にも参戦した三男・信孝を推すが、秀吉は、信長の直系である信忠嫡男・三法師こそが後継者だと幼子を祭り上げ、見事勝家らの裏をかく。
 織田家の行く末が大いに揺らぐなか、後継者からはずれた信孝は市のもとを訪ねる。その夜、江たち三姉妹に衝撃が走る。市が秀吉の野望を阻止するため、柴田勝家との再婚を決意したのだった。
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やっぱりドロドロ!織田家の家督争い

山崎の戦い直後の1582年6月27日、尾張・清洲城で織田家の重役会議が行われました。
世にいう「清洲会議」です。

参加メンバーは、
 ・言わずと知れた織田家ナンバーワンの重臣・柴田勝家
 ・明智光秀を討ったヒーロー・羽柴秀吉
 ・柴田勝家と並ぶ織田家古参の重臣・丹羽長秀
 ・山崎の戦いで戦功を挙げた信長の乳兄弟・池田恒興
の4人。

主な議題は、“信長の後継者選定”と“遺領配分”。織田家中での主導権争いも絡んだこの会議は、当然のように紛糾します。

信長の嫡男・信忠の死により、後継者の有力候補として考えられていたのは次男・信雄と三男・信孝でした。

★凡庸な次男・信雄
嫡男の死により、順序的にお鉢が回ってくるのは次男・信雄。しかし、本能寺の変の際は京と近江の間を右往左往しただけなど、能力はイマイチ。重臣たちも評価を下げていました。

★将の資質に優れた三男・信孝
一方、三男・信孝は信長から四国の長宗我部攻めの総大将を任されるなど、将来有望。山崎の戦いに加わり戦果を挙げるなど、実績も十分です。

ナンバーワンの重臣・勝家は、織田家の将来を思い、将器に優れた三男・信孝を後継者に推挙します。しかし、この会議で後継者に決まったのは、秀吉が推挙した三法師でした。

三法師は信長の嫡孫で信忠の遺児。彼が相続すれば長男の嫡子が家督を継ぐわけですから、正論といえば正論です。ですが、三法師は当時まだ3歳。当然、軍事や政務の能力はなく、彼を補佐する秀吉が実権を握ることになります。勝家はこの意見にもちろん反対。真っ向から異議を唱えます。しかし、人たらしの天才・秀吉から大幅な領地Upを確約されていた丹羽長秀と池田恒興が秀吉案に賛同。3対1となり、勝家はしぶしぶ秀吉案を認めることになりました。

その後の遺領配分でも終始秀吉にペースを握られた勝家。信長生存中、家臣団の中でナンバーワンだった立場は、秀吉に取って代わられることになります。
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※音楽が流れます♪音量にご注意ください。


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第6回「光秀の天下」 2/13放送分

あらすじ
天正10年(1582)6月。伊勢上野城では、市(鈴木保奈美)、茶々(宮沢りえ)、初(水川あさみ)は、信長(豊川悦司)の死を嘆く間もなく、尾張の清洲城へ避難することになる。江(上野樹里)の消息が分からず、市は動揺を隠せない。 
 そのころ江は家康(北大路欣也)と共に、命がけの伊賀越えの末、伊勢に到着。家康と別れ、市たちが去った上野城に到着するが、潜んでいた野武士たちに捕らわれてしまう。
 一方、光秀(市村正親)は、天下人どころか孤立無援となろうとしていた。最大の誤算は秀吉(岸谷五朗)であった。信長の死の知らせを聞きつけるや、謀反人光秀を討ち果たすため、織田方の諸将に「お屋形様、ご存命」との偽りの文を送り届ける。毛利とも和睦を結ぶや騎馬隊で嵐の中を走り続け、備中から一日半で姫路に到達。のちに「中国大返し」とよばれる離れ業をやってのける。安土城に入った光秀のもとには、秀吉率いる羽柴勢に諸大名が次々合流を図っているとの知らせが入る。
 そんなとき、光秀は人質として野武士が連れてきた江と対面する。なぜ謀反を起こしたのか、なぜ伯父上を殺したのか、涙ながらに江は光秀に訴える。 
 そして、光秀・秀吉両軍が激突する山崎の戦いへ。 光秀に解放され、清洲城で市らとの再会を果たした江だったが、秀吉が勝利し、光秀はこの世を去ったことを知らされる。
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電光石火!秀吉の中国大返し

「本能寺の変」が起きた天正10年(1582)6月2日、信長配下の有力武将たちは京を遠く離れ、それぞれ戦地に赴いていました。
北陸担当の柴田勝家は越中(現在の富山県)で上杉軍と交戦中。
中国担当の羽柴秀吉は備中(現在の岡山県)で毛利軍と交戦中。
関東担当の滝川一益は赴任したばかりの上野(現在の群馬県)で経略を担当。
といった感じ。
この時点で逆臣・明智光秀を討つ最も有利な位置にいたのは堺にいた織田信孝でしたが、兵の掌握などに苦戦。このレースを制したのは、備中にいた羽柴秀吉でした。世にいう「中国大返し」です。
事件発生の翌日、6月3日深夜に信長の訃報を知ったといわれる秀吉。高松城主・清水宗治の切腹を条件に毛利氏と講和を締結すると、毛利軍の撤退を確認した6日夕方に高松を立ち、翌7日には本拠地・姫路に入ります。そして2日間足らずの休息ののち、1万数千の軍を率いて再び進軍。11日に尼崎に至り、12日は富田(とんだ)に着陣しました。全行程約190km、1日平均30km、多い時にはなんと一昼夜をかけて55kmの強行軍。その実行力は、さすが秀吉と言わざるを得ません。
その後秀吉は、13日に行われた「山崎の戦い」で光秀に勝利。信長の後継者へとまい進していきます。
 一方、戦いに敗れた光秀は、敗走中に農民の攻撃を受けて重傷を負い、切腹して果てます。享年55。わずか10日あまりの天下でした。
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第5回「本能寺の変」 2/6放送分

あらすじ
天正10年(1582)5月、江(上野樹里)は信長(豊川悦司)に二度と会わないと母に宣言したことを悔んでいた。もう一度伯父上に会いたい。そんなとき、家康(北大路欣也)から招待を受け、信長との再会のため、江は京に向かうことになる。
 江は家康につき従い、宗易(石坂浩二)とも再会し、信長が京を訪れるときを待ちわびていた。
 一方、明智光秀(市村正親)は、信長に領地を取り上げられ、秀吉(岸谷五朗) の配下で毛利攻めに加わるよう命じられる。
 そして迎えた6月2日未明。光秀はついに信長への謀反ののろしを上げる。「敵は本能寺にあり!」、1万3千の軍勢が、本能寺を包囲。信長は最期の時を迎える。 
 江は京へと向かう道中、騒ぎを聞きつけるが、信長の死の知らせを信じられない。それでも、明智方の追っ手から逃れるため、家康と共に決死の伊賀越えへと向かうことになる。
 その途上、馬上で身動きがとれない江は野武士に囲まれる。絶体絶命の危機。そんなとき、江のそばに信長の姿が現れる。
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実は城塞?事件の舞台「本能寺」

天正10年(1582)6月2日、天下を揺るがす大事件が起こりました。明智光秀が謀反を起こし、主君・織田信長を襲撃したクーデター事件「本能寺の変」です。事件の舞台として有名な本能寺ですが、実は無防備なお寺ではなく、軍事的構築がなされた信長御用達の定宿でした。今回は、そんな本能寺について少し解説しましょう。
本能寺は、法華宗の本山寺院のひとつです。この本能寺をはじめ、本圀寺(ほんこくじ)、妙覚寺などのお寺は自衛のために軍事的機能がなされており、めぼしい城郭のない京ではたびたび要人の宿舎として利用されていました。そんな中で信長が愛用していたのが本能寺というわけです。
当時の本能寺は、現在の本能寺(中京区寺町御池下ル)から西南へ1kmほどの四条西洞院に位置し、東西1町(約110m)、南北2町(約220m)という広大な寺域を占める大寺院。周囲には堀をめぐらし、内には土塁を設けて厩(きゅう)舎まで建てるなど、小城郭さながらの造りだったといわれています。防衛機能の漏えいを恐れた信長は、彼以外の宿泊を厳しく禁止。また、樹木の伐採も禁止していたため、境内はうっそうと茂る木々に囲まれていたとか。
しかし、いくら防衛機能があっても多勢に無勢。光秀率いる1万3千といわれる大軍の前ではなすすべがありませんでした。自ら弓や槍(やり)を取り、100名ほどの家臣とともに奮戦した信長ですが、最期は燃え盛る炎の中で自刃。焼失した本能寺は、秀吉の命で現在の地に再建されることになります。
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