Architecture Everyday!!+Fujiken

細々と続けて10周年。たぶん継続は力なり。コレを惰性ともいう。

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更新だけを先に終えて、時間を置いて改めて更新を進めるというのは、いつものことで
(それすらもままならない日もここ最近目立って仕方ありませんが)
今日もすでに日が変わってしまっておりますが、パソコンの前に腰を据えております。

気持ち的には、最近のサボリ癖もあって、やや乗り切れていないトコロもありますが
「今日こそは更新せねばならんだろう…」そのまま消滅しかねないペースに自らに強迫観念を感じて、今日は更新しよう!!と覚悟して腰をすえております。

そんなことを書いて…なんて読み手にイヤな思いをさせる…不親切な始まりではありますが
今日もイロイロとあった1日でした。
ここ数日の疲労が重なって、朝から「ダル重〜…」ってな具合で1日をスタート
午前中はちょっとした庶務に加えて、後に控える合宿のために陶芸作品を作り貯め(これもビジネスツールとしての一環なので結構重要で…実は結構方々では評判だったりするのデス)
午後は国立国会図書館にて資料収集の後、カルチャーセンターに押しかけて御師匠さんと打合せ
さらには…そのまま受講生の方々と一緒にお酒の席を…それを経ての帰宅です。
振り返ってみても、何だか今日はイロイロとあった1日だったな…と振り返る次第です。

で、1日の最後にブログを更新。
それも今日はちゃんとというワケで…今日ゴショーカイするケンチクさんは「京都中央電話局西陣分局」です。
ようやく京都のケンチクさんをゴショーカイできる…という次第です。

イメージ 1

上京区、堀川通から一本御所側に入った路地の角地に位置しているこのケンチクさんは、岩元禄氏設計になる大正10年竣工のモノ。
現在は「NTT西陣別館」として使用されており、2006年に国指定重要文化財に指定されたケンチクさんにして…ファサードは御覧の様、大変に印象的で造形的な外観が形成されています。
女性を象った華やかなレリーフや柱頭部分の裸婦像が付された、ケンチクをアートのように彩る手法からしてドイツ表現派に「一応」は分類されるケンチクさんではあります。
ただ、岩元氏の後に続く分離派建築会の面々が手掛けた作風、こちらもドイツ表現派の影響が多分に垣間見られるものが多いですが、それらと同列に扱うのは…少々難があるのではないか、そのくらいに思えるほど印象の差が大きい
個人的には、ただソレ一つの「岩元様式」とさえ言ってしまっても過言ではないのではないか、それほどに建築史学上においても忽然と姿を現し、燦然と輝く孤高の作とも言うべき、そんな独特のポジションを築くケンチクさんであります。

イメージ 2

建築史学上、そのように極めて重要な作品を設計し、残した岩元氏、実に知る人ぞ知る建築家
なぜあまり知られていないのかは後々書きますが、その存在を「知っている/知らない」というのは、ある種、日本近代建築史に精通しているかどうかを判断する基準としても差支えないのではないかとさえ思ったりもしているワケですが、
ここは岩本氏を知らないよ!!という御付き合いいただいている皆様のために、どのような建築家であったのかをまとめておきたいと思います。

岩元氏は明治26年に鹿児島で生を受け(ちなみに兄の禎は府立一高のドイツ語教師にして夏目漱石の小説『三四郎』に登場する広田先生のモデルとさえ言われる)
大正4年に東京帝国大学工科大学建築学科に入学
大正7年に卒業し、逓信省(後の郵政省)営繕課に入省…

といった経緯で、大正10年にはこの「京都中央電話局西陣分局」を完成させるという次第です。
幼少時代から勉学にも芸術にも精通した(親戚に藤島武二がいて、彼からも絵を学んだらしい)大変に優秀で「ロクさん」という呼び名で誰からも慕われた人物だったそうです。
中でも大学では、1学年下の「分離派建築会」の面々に多大な影響を与え(在学中から岩元氏の下を訪ね、分離派建築会の設立後は、しきりに入会を誘ったらしい)
また、逓信省では、後に続く吉田鉄郎氏や山田守氏に先立つ人物として名実共に同省営繕課を牽引し、ひいては日本建築会全体を牽引する若きリーダーと呼べる逸材であり
その優秀さから「京都中央電話局西陣分局」の完成を前にして東京帝大の助教授(現在の准教授)として大学に呼び戻されている…

そのように、実力も作品も認められるた人材であったわけですが、なぜあまり知られていないのか
それは…結核を発病して「京都中央電話局西陣分局」の完成直後の翌大正11年に逝去されているからにほかならない。
実質、彼の名で設計された建築作品も、既に取壊されてしまった「東京中央電話局青山分局」(大正11年完成)と箱根・強羅のホテル(すいません名称は忘れました)を加えた3つのみ。
彼がもっともっと長生きをすれば、日本近代建築史に見られるデザインの潮流は明らかに異なったものになったであろうとさえ言われるほどですが
逆に言えば、わずか3作で、しかも現存はわずかこの1作だけで建築史学に燦然と名を残したという、やはり偉人といわざるを得ないのが岩本禄氏であったりするのです。

イメージ 3

というわけで、教科書的な内容はここまでにしましょう。
ボクも文体が何だかどんどん硬くなってしまって…実にイヤな気分です。
もっと軽い気持ちで、ケンチクさんを見て行きましょう…というわけでこのケンチクさんを特徴づける正面のレリーフやら装飾部分を拡大したモノがコレです。

中央に半円形上に浮き出させた箇所にビッチリと裸婦像をモチーフにしたレリーフがはりこまれています。
これはもちろん岩元氏のデザインになるものですが、その作成には、当時ドラフトマンとして逓信省営繕課の末席に席を置いていた山口文象(当時はまだ岡村文象という名)が御手伝いをしたそうです。
(山口氏は岩元氏をものすごく慕っていて、彼が言うには初めて建築家らしい建築家に出会ったそうで、死去の間際まで看護夫として身の回りの世話に尽くしたらしいです)
また正面には三本の楕円形の円柱が置かれ、その柱頭部にはこちらも裸婦像を象った彫像が据えられる…公共建築にコレですから、いかに挑戦的だったかがうかがえます。

ちなみに女性、女性…しかも裸婦像ということでどんだけスキモノなんだ!?とお思いになられる方(という発想自体が下世話なハナシかもわかりませんが)もいられるかもしれませんが、本人にはそういう浮いたハナシは一切なかったそうです(ちなみに前出の一高教師であった兄も生涯独身だったとか)

イメージ 4

見学のポイントはどうしても正面のファサードの構成、彫塑的な造形になりますが
側面もその庇の下部に正面中央のレリーフと同じモノが施されています。
横を歩く人が見上げたときに見せるためにと察しますが、何もこんなトコロまで…と呆れるほど、全体に細心の注意を図ってデザインをしていることがわかります。

実際、見学の際にカルチャーセンターの受講生から質問を受けたことですが
3層部分に付された深いフルーティング(ミゾ)の彫られた列柱ですが
なぜアレがつけられたかというと…理由はハッキリしていません。
でも、あそこが例えばコリント式やイオニア式のオーダーであれば、ややうるさくなる上に、レリーフや裸婦像の印象が薄くなりますし(岩元氏はそうした古典装飾から意図的に離れるデザインを施すスタンスであったと考えられるためオーダーを付けるという発想自体否定していたと思われますが)
また、無装飾のツルッとした円柱でも、やはり何か物足りない…結果的にあそこに付されるべきはあの柱にほかならないというのだけは何となくわかる気がします。

イメージ 5

最後に正面右脇に一段高くなった箇所に設けられたライオンの彫像です。
この箇所には水槽が設けられていて…岩元氏の上司にあたる逓信省営繕課長であった内田四郎氏の考案した、火災の時に貯めた水を流して延焼を防ぐという設備がここに配されていたと聞きます。
で、このライオンの口から…ということなのでしょうか。ややマーライオンっぽい感じですが…

で、本筋に戻りますが、このデザインを見て、他のレリーフと差があるなぁとお感じになられた方は大変にスルドイ
実はこの箇所のデザインは岩元氏ではなく、現場監理として携わっていた十代田三郎氏のデザインだそうです。
この方は、後に早稲田大学で教鞭を振るい、建築材料学の分野では非常に高名な先生となった方ですが…まぁ、デザインは岩元氏には遠く及ぶほどのものではなかったということでしょう。
ちょっとカワイソウな言い方かもしれませんが…

というわけで、今日はちゃんと書いてみました。
1時間半…それなりにかかりますね。

ただ、見学時も思ったことですが、岩元氏がこのケンチクさんを完成させた時は28歳(29歳で亡くなってしまうワケですが)
実際の自分と全く同い年の時なんですね。
そう思うと…ケンチクさんだけでなく、人間としての岩元氏にも実にイロイロと考えさせられる部分が多いナァとちょっと物思いにふけってしまったりもします。

閉じる コメント(7)

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入省1年程(何と、1年志願兵…↓)で今に残る建築を設計したなんて、信じられませんねぇ(@_@;)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~iamarock/iwamoto/familyhistory/roku.htm 削除

2008/6/26(木) 午後 8:00 [ Kato ] 返信する

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Katoさん、いつもコメントありがとうございます(_ _)
日清、日露の両戦争に勝利した後で当時の日本はアゲアゲ↑↑の状況でしたでしょうから…1年間の志願兵というのも決して不思議ではない、かえってあるべき青年の姿だったということでしょう。
向井覚さんという方が岩元禄さんのことで1冊著されており、それによればこの期間は何だか色々あったそうです。

しかし、本当に建築家・岩本禄にはたくさんのことを考えさせられます。
わずか29歳で死ぬという人生だったからこそ、一瞬の輝きを放つ生き方が定められていたようにさえ感じられてしまうナァとさえ…

2008/6/27(金) 午後 11:25 [ まるふ ] 返信する

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三枚目の写真。
アーチ天端の左右同じ位置から汚れの筋が壁面を伝って落ちていますよね。
何故このような汚れの付き方をするのか、ちょっと気になりました。 削除

2008/6/28(土) 午前 8:33 [ 木邑 ] 返信する

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京都は古い建物の宝庫で小さい郵便局や学校が。 近々 新しいですが京都迎賓館を観に行きます。

2008/6/28(土) 午前 10:42 [ asobinotennsai ] 返信する

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お2人ともコメントありがとうございます。

まずは木邑さん…確かにあの箇所に汚れの筋が伝っているのは不思議です。
あのレリーフの施された半円形状の箇所は、少々前面に張出しているので、溜まったホコリなどが雨と共に…ということなのでしょうが
本来ならもっとハジの方に流れるのがフツーだと思うのですが…う〜ん、ナゾです。

asobinotennsaiさんもコメントありがとうございます。
迎賓館ですか、この京都中央電話局西陣分局とも比較的近い場所ですね。
なかなか拝めないケンチクさんですから…うらやましいです(笑)

2008/7/1(火) 午前 0:53 [ まるふ ] 返信する

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素晴らしい、建築の一つですね。

2008/7/31(木) 午後 4:08 [ kokoroman ] 返信する

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こちらでもコメントありがとうございました。
実にいいケンチクさんですよね〜。

2008/8/3(日) 午前 0:02 [ まるふ ] 返信する

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