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「義経と奥州藤原氏」について書いて欲しい、というリクエストを頂きましたので、
書きたいと思います☆
(何かないかなぁ)とぶらぶらしていたら、
以前買った「奥州藤原氏」という本が出てきました(*^。^*)
私、本を買うのがスキで、歴史系の本でおもしろそうだなって思うと
お金があれば、すぐ買っちゃうんです。
でも、その後読むのがキライで・・・
多分、この本も読んだことがない・・・と思う
今回は、その本を使わず(まだ読んでないので)
高校の日本史の教科書を使って、奥州藤原氏について復習してみたいと思います!
「奥州藤原氏は、道長などの朝廷の藤原氏とは違う!」
と高校のとき、習った方もいらっしゃったかもしれません。
(私はそう習いました)
が、それは違います!!!!!!!
奥州藤原氏は、藤原氏です!!
時代をさかのぼって・・・
奈良時代までは、藤原氏はただの一つの一族でした。
藤原氏の他に、橘氏や紀氏、多治比氏大伴氏など、数々の有力貴族がいました。
平安前期に、藤原氏は、他の一族を左遷させたり、
天皇家と強力な結びつき(婚姻関係)をつくり、
また、自然におちぶれてしまったりして、独走体制に入りました。
多氏をおちぶれさせると共に、藤原氏の間でも競争関係になっており、
氏の長者(本家のようなもの)と分家の格差も広がっていきました。
そうして、おちぶれていった一族、家系は、
地方に都落ちしたり、学者のように位は高くなくても、ある特定の業界にいたりしました。
で、そのように都落ちして、東北地方で権力を持ったのが、奥州藤原氏です。
しかし、義経の時代には、遠い遠い親戚で、
京で権力を持っている摂関家とは全く関係がないのです。
ちなみに、「源氏物語」の作者、紫式部も藤原氏です。
彼女の家は、位の低い(国司)学者でした。
ところで、「前九年の役・後三年の役」という言葉を聞いたことがありますか?
実は、この二つの戦いが義経と奥州藤原氏との結びつきになります。
東北地方(陸奥)では、地方豪族安倍氏の勢力が大きく、
朝廷から派遣されてくる国司とよく権力争いがありました。
東北は、もともと蝦夷(えみし)が住んでいて、朝廷が侵略していったので、
地方豪族の力が強いのです。
そして、そんな蝦夷の国(朝廷側からみれば)に国司(陸奥守)として派遣されたのが、
源頼義(よりよし)です。
頼義は、子供の義家(よしいえ)と東国(関東地方)の武士団を率い、
さらに出羽(今の秋田県と山形県)の地方豪族清原氏と一緒に
安倍氏をやっつけました。
この戦いが前九年の役(1051〜62)です。
その後、この戦いの勝者清原氏一族に内紛が起こりました。
母親の連れ子である藤原(清原)清衡(きよひら)と、再婚相手清原氏の子との相続争いです。
この藤原清衡を陸奥守であった源義家が応援し、
できたのが強大な勢力を持った奥州藤原氏です。
この内紛が後三年の役(1083〜87)です。
で、この源義家、誰かとゆーと、頼朝・義経兄弟の父親義朝のおじいさんです。
つまり、義経のひいおじいさん。
後三年の役の勝者、藤原清衡は、後に義経をかくまう秀衡の祖父です。
奥州藤原氏の権力の背景には、義家の協力があったことは間違いなく、
清衡は、義家に恩を感じていて、いつか返したいと思っていたと思われます。
奥州藤原氏と義経の関係の根底には、多かれ少なかれこのような事情がありました。
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