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桜
2014年4月5日
不安定な天気だった昨日、所用を兼ねて「飛行第三聯隊」の跡地を「桜」を求めて歩いてみた・・・。
途中にわか雨に遭ったりしたが、午前中は寒くも暑くもなくウォーキングには丁度良い気候だった(総距離約12km)
「飛行第三聯隊」正門付近
今は自転車道路になっているが、当時咲いていたと思われる桜の木は切り株が残っているのみ・・・
通行の邪魔になるので切られたのか或いは枯れてしまったので切られたのかは分からない。
この付近に「飛行場駅」(後の御園駅)が有ったと思われるが、痕跡は全く無い。 当時の「飛行場駅」
旧「川合寺駅」から「中野駅」に通じる道路には唯一桜並木が残っている、線路はこの左側に道路に沿って続いていた、阿公が子供の頃は線路跡も有ったのだが今は面影もない。
途中で見た「モクレン」・・・この紫色のモクレンは好きなのだが白モクレン(白蓮)は何故か葬式を連想してしまうのであまり好きではない。
続いて「飛行第三聯隊」の聯隊本部が有った現在の中学校の校庭へ
右側の建物は阿公が昭和35年に中学校に入った時、未だ校舎として使われていた、薄暗い教室?の中に柱が数本立っていたのを覚えている、また校舎入り口の黒板には白いペンキで「〇〇方面作戦・・・」の文字も残されていた。
戦前の連隊本部前での閲兵風景・・・
現在面影が残るのはこの10本ほどの桜のみとなってしまった、校庭には許可無く入れないようになっており、勝手に入ると「不審者」として即通報されると思う、校庭の片隅に桜の巨木が1本見えていたが入ることは諦めた。
この桜も老木となっており、中には立ち枯れた木も見られる・・・大きな台風でも来れば残っている木の多くが倒れるのではないか。
毎年桜が一番きれいな「陸軍病院」跡の桜並木
以前はもっと長い桜並木だったが、10数年前に新設された国道に遮られてしまった
ほぼ中央部を国道が横切っている
ここの桜も寿命はそう長くはない・・・。
午後は冷たい風が吹き冬のような天気に戻ってしまった・・・寒暖の差が激しすぎる。
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飛行第三聯隊
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飛行場駅から御園駅へ
2014年3月29日
「飛行第三聯隊」が置かれた「八日市飛行場」最寄りの駅は当初は「飛行場駅」となっていたが太平洋戦争が激しくなると防諜のため「御薗駅」に変えられたと記録に残っている。
昭和8年発行の「大日本分懸地圖」では・・。
「飛行場」の表示がある
裏面の官公庁設置先説明
「飛行第三聯隊」 「御園村」の記載が見える、「御園村」とは当時の「神崎郡御園村」の事であり、阿公が小学生1年の時に「八日市市」となるまでは「神崎郡御園村」だった。
昭和22年発行の「全日本鉄道地図」には「飛行場駅」は消えて「御園」と表示されている、この鉄道路線は昭和23年に廃止され、阿公が子供の頃は線路跡だけが所々に残されていた。
「大日本分懸地圖」に見る当時の「日本」
この地図に収められている「分懸」には「臺灣北部・南部」「朝鮮北部・南部」「樺太」「南洋諸島」まで収められている。
阿公がどうしても欲しい「臺灣南部・北部」の「分懸地圖」は探しても中々見つからない・・・何方か持ってませんか?
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三船敏郎と飛行第三聯隊
2013年2月18日
八日市に有った「飛行第三聯隊」に映画俳優の「三船敏郎」が配属されていたことは案外知られていない、その痕跡を訪ねてきた。
現在の東近江市立「玉園中学校」のグランド横にある「中部九八部隊」の記念碑と、当時の面影を残す桜並木、阿公が子供の頃は多くの桜の木が有ったが、開発や台風などで随分少なくなってしまった。
阿公がこの中学に入学した当時は航空隊の「兵舎」(教育隊)がそのまま教室として使われており、出入り口には「中部九八部隊」の名前が書いてある黒板が残っていた。
Wikipediaより抜粋
前略・・徴兵に際し死を覚悟し、父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏んだ。写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属されるが、写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。三船は後年まで、カメラに対するこだわりが深かったという。
その後、1941年(昭和16年)、内地で滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され(後に第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をしていた。[7] )1943年(昭和18年)に同部隊に現役入隊した鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となった。鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいる[8][9]。
中略・・・戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、以後敗戦まで6年間を兵役に就いた。上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のまま6年間を過ごした。・・・赤字の部分は阿公が赤字に変更 当時の写真
映画の一場面ではなく、当時撮されたもの(YTから借りて来ました)
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この小説は阿公のブロ友が書かれた「短編小説」です。
「飛行第三聯隊」の書庫に入れているのは、阿公の母親が子供の頃に「八日市飛行場」へ行った時、友だちと大きな声で「宙返りして」と叫んだら「宙返り」してくれたと何度も阿公に話していた事とダブって居るからです。
この話を聞いたときは「そんな馬鹿な聞こえるはずがない」と思っていたが、当時(大正時代か昭和初期)の複葉機は地上の声が聞こえたと記録も有ることから最近は本当に有ったことだと思っている。
零戦と弁当箱
岡山県の北部に津山と言う都市が有ります、かって美作の国と言われた所の中心の盆地の中の街です、人口約8万3千、市の中央に、鶴山(かくざん)城址、市民がお城山と親しんで居る鶴山(つるやま)が有り、「ごんご」と言う河童が住むつ言われる、吉井川が東西に流れ、自然の多い静かな街ですが、市街地の西外れの、G紡績で56年前、日本海軍の名戦闘機「零式戦闘機」の一部が、作られていたのです。 昭和20年4月10日 G紡績工場 ピー 、笛が鳴りました 銅管班長「作業中止・・・作業中止、うちの女工は袴を穿いて、女子挺 身隊は、出来れば、西洋袴・・・男子は出来るだけ奇麗な 格好で、裏の堤防に集合、急げ。」 女工達は着物に襷掛け、それにモンペと言う姿で作業していましたが、戦争が始まる以前はモンペで無く、紫の袴でした、女子挺身隊もモンペでした、西洋袴とはスカートの事です、奇麗な格好をして来いと言うわけは誰にも解りました。 「ヒサコ、ヒサコ、あれが来るのネ、あれが。」 「急ごうヨ、着替へ無くちゃ、でも変ね?今時袴だなんて。」 「良いじゃない、良い格好出来るんだから。」 これ以降はここを見てください
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平和祈念館で見たもの
2012年10月17日
平和祈念館で一枚の古い飛行機の写真を見つけた、「八日市飛行場」の格納庫前と思われるところで撮した写真である。
垂直尾翼には
乙式一型偵察機
大正十一年三月制作
陸〇〇所澤支部(〇〇は判読困難)の文字が見える。
「乙式一型偵察機」について調べてみると、この偵察機はフランスの「サルムソン2A2」が原型で初期型は陸軍がフランスから大正10年から11年に掛けて80機輸入したと記録がある。
輸入とは別に「川崎造船所飛行機部」が大正11年に最初の2機を制作し送り出した。
垂直尾翼の表示「大正十一年三月制作 陸〇〇所沢支部」は、「川崎造船所飛行機部」が制作して送り出した2機の内の1機であると推測している、大正11年に制作された「乙式一型偵察機」は「川崎造船所飛行機部」が制作した2機しか存在しない。
「陸〇〇所澤支部」の表示から考えると「陸軍航空学校・所澤陸軍飛行学校」から飛来、若しくは教育訓練用に配備されてきた可能性が高い。
「乙式一型偵察機」諸元・性能
全幅:11.77m 全長:8.62m 全高:2.9m
前装備重量:1500kg 発動機:サルムソン9Z液冷星型9気筒
出力:230hp 最大速度:180km/h 航続時間:3.5h
武装:7.7mm機銃✕2 爆弾:60kg 乗員:2名
「乙式一型偵察機」は大正時代を通じて輸入分も含め1000機以上に及んだとある。
参考文献 「日本軍用機事典 陸軍篇」・「日本陸海軍戦闘機 1930-1945」
終戦時本土決戦に向けて「八日市飛行場」には224機の飛行機が有ったと記録されているが、米軍の進駐により飛行機は全て焼却され、重要部品はアメリカに持ち去られて殆ど残っていない、僅かな資料と写真が残っている程度である。
余談
阿公の母親が子供だった頃、飛行機を見に行って「宙返りして」と皆で叫んだらしてくれたと言っていた、阿公は「聞こえるはずがない」と思っていたがある記録を見ると、この時代の複葉機は大きな声で叫べば操縦員に聞こえたらしい、年代から見るとこの「乙式一型偵察機」が十分考えられる。
この項は浅い知識と僅かな資料で書いております、間違い、勘違等が多々有ると思いますがコメントにて指摘いただければ削除及び訂正致します。
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