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花蓮〜台北
2012年5月
「東西横貫公路」を越え「太櫓閣渓谷」を経由して花蓮の定宿にしている「馨憶精緻民宿」に到着。
オーナー夫妻です、奥さんはタクシーの運転手なので何処かに出かける時は便利、民宿と言っても日本のプチホテルと同じ。
「馨憶精緻民宿」のHP
夕食が済んだ後は、オーナー・宿泊者などが、ロビーで持ち寄ったお酒とツマミで宴会が始まる、台湾の話に花が咲く・・・こうして花蓮の夜は更けていく。
朝食はここで「豆漿」を食べる
本日の昼食
高速道路のSAで食べたものてんこ盛りのラーメン?のような・・・90元(約240円)
台北でpuyumaさんと別れた後は安宿を探してチェックイン
部屋はソレナリです
夜は近くをウロウロと歩いて食事をする、此れが台湾最後の夜となる
こういう雰囲気が良いんですね〜
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台湾12年春 東西横貫公路
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中央山脈(合歓山)を越える
2012年5月
「廬山温泉」を出発していよいよ中央山脈を越えて「花蓮」を目指す、台中は晴れていたが高度を増すに連れて濃い霧に悩まされる。
狭いトンネルの中まで霧が立ち込めて視界は大変悪い、写真で見る以上に悪い。
標高3158mの合歓山に到着、ここにはトイレとチョットした展望台も有る
気圧が700hpkと低いためpuyumaさんが持っている菓子パンの袋もパンパンに膨れている
峠を越えて「太櫓閣渓谷」に近づいた所で見たスギ科の巨木、説明が有ったがメモ忘れて失念
「合歓山」山頂から少し下ったところの雲海、左側が「花蓮」方面、右が「廬山温泉」方面(動画は短いです)
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廬山温泉の夜
2012年5月
中央山脈越えを前に「廬山温泉」で宿を取る
puyumaさんが話をつけたのがこのホテル、日本語も混じってチョット怪しげな雰囲気「全新空中景観湯屋」は「全室展望風呂」の意味?
部屋の様子 台湾のホテルはこういう感じのホテルが多い、格安ホテルは殆どが「ラブホテル兼用」に思える、この部屋で朝食付き(ルームサービス)で一部屋1000元(2700円)、一人で寝るにはもったいない?
ルームサービスの朝食
定番のお粥に目玉焼き、ピーナッツ、ふりかけのようなもの、・・・
夕食は「霧社事件」の情報収集を兼ねて近くの食堂へ、「富士」の名が何か嬉しい
此れは主人がツマミにと出してくれたもの、大きなラッキョみたいだが思いの外辛い↓
飲みながら「霧社事件」について原住民のオジサンから話を聞く、阿公は全く分からない
早朝、温泉町を散歩する
この辺りは洪水の被害が大きく各所で復旧工事が行われていた、阿公たちが訪れた1ヶ月後に再度洪水に合い壊滅的な被害を受けたとか、現在はどうなっているか分からない。
日本の鄙びた温泉町を思い起こさせる雰囲気がある
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花岡一郎と二郎
2012年5月
霧社事件を語られる中で必ず出てくるのが「花岡兄弟」、阿公はこの件に関してはほとんど知識はなかったが、同行のpuyumaさんと共に関係者を訪ねた。
以下はpuyumaさんのブログから転載
花岡一郎(ダッキスノービン)はセーデック族(ホーゴ社)出身。頭が良く理蕃政策で台中師範を卒業して乙種巡査となり事件発生当当事は現場の霧社公学校で運動会に参加する蕃童と一緒だった。無論事前の作戦会議にも参加していないしその後の戦闘にも参加していない。花岡一郎の行動や遺書、その後割腹自殺した経過から一郎自身のセデック民族としての立場と日本への忠義心の板ばさみになり責任をとって自殺したことがはっきりしているのだが…。
だが戦後台湾を接収した国民党政権は台湾の日本色一掃の一環として霧社事件で有名な花岡一郎の名前を抗日義士としてでっち上げてしまった。
セデック側からは日本の犬と呼ばれ、日本側からは理蕃政策で人生を翻弄され戦後事件に関係ない国民党からは抗日義士として忠烈詞に祀られた花岡一郎の無念さを思うと本当に哀れに思えてくる。
台湾という地で明治という気風に純粋培養された花岡一郎は事件直後自分の置かれた立場から責任をとって一族二十数人とともに自殺した。責任の取り方はまさに日本の武士の気概そのもののように思える。
その後の太平洋戦争で戦争遂行の責任ある立場だった軍人たちや最近の政治家たちに花岡一郎の万分の1でも責任感があれば今の日本ももっと違った姿を見せていたかもしれない・・・。 puyumaさんのブログ「珈琲畑日記」の記事はこちら
花岡兄弟が自決した場所と事件の説明案内板
「花岡山」
現地で詳しく説明していただいた?氏(名前は失念)
自宅を訪れると母親が出てきてくれた、写真をお願いすると民族衣装に着替えて少し緊張気味
「花岡兄弟」が自決したと云われる所を道路から見る、簡単には近寄れない様な場所にある。
「廬山温泉」の露地で見かけた「花岡兄弟」の写真
二人は今でも部族にとっては誇りなのかもしれない
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「自然史教育館」で見たものとは・・。
2012年5月
「霧社バス停」から少し戻った所に「自然史教育館」がある、前回来た時は気付かずガイドブックにも載っていなかった。
下の方には「衝撃的な写真」が!
入り口にはこの小姐が居て親切に案内してくれる
セデック族だと思われるがpuyumaさんと阿公を笑顔で親切に迎えてくれた(阿公は勿論、何を話しているかは?)
「自然史教育館」となっているが、殆どは「霧社事件」に関係する資料が展示されている
Wikipediaから「霧社事件」の転載
(この事件の件は原因や詳細について数多く書かれている)
暴動の直接の原因といわれているのが、1930年10月7日に日本人巡査が原住民の若者を殴打した事件である。その日、巡査は同僚を伴って移動中に、村で行われていた結婚式の酒宴の場を通りかかった。巡査を宴に招き入れようとモーナ・ルダオ(霧社セデック族村落の一つマヘボ社のリーダー)の長男、タダオ・モーナが巡査の手を取ったところ、巡査は宴会の不潔を嫌うあまりステッキでタダオを叩いた。侮辱を受けたと感じたタダオは巡査を殴打した。この殴打事件について警察からの報復をおそれた人々が、特にモーナ・ルダオは警察の処罰によって地位を失うことを恐れ、暴動を画策したと言われている[1]。
10月27日、霧社セデック族マヘボ社の頭目モーナ・ルダオを中心とした6つの社(村)の壮丁300人ほどが[2]、まず霧社各地の駐在所を襲った後に霧社公学校の運動会を襲撃した。襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害された。
当時の生活の様子などの写真も掲示されていた
第二霧社事件と川中島遷移 [編集]1931年4月25日、蜂起に与した後に投降した霧社セデック族生存者をタウツア社(タウツア社は反乱側と対立しており、味方蕃として日本に協力した。)が襲撃し、216人が殺され、生存者は298人となった[13]。襲撃側のタウツア社の死者は1名であった。これを第二霧社事件という[14]。霧社事件の後始末で警察が味方蕃から銃器を回収する寸前の出来事であったが、当時の警察官から、警察がタウツア社に襲撃を唆したとの証言がなされている。タウツア社への処罰はなされず、逆に蜂起部族の土地を与えられることとなった[15]。
1931年5月6日、最終的に生き残った人々は北港渓中流域の川中島(現在の清流)と呼ばれる地域に強制移住させられた。ここで生存者らは警察からの指導のもとに生活した。その後も蜂起参加者への警察の摘発は続いた。反乱に与しなかった霧社セデック族各社に対しても、「反乱協力者」の摘発は行われた[16]。こうして逮捕された摘発者38名を当初警察は毒殺しようとしたが担当医師から毒薬注射を拒絶された。38名は留置処分となったが、逃亡を図り殺害された1名を除き、全員が1932年3月までに留置中に死亡した[17]。 川中島への移住者には当局からの援助があったものの、労働力の不足やマラリヤに苦しめられ、移住から2年後には人口が3分の2まで減ったという。ただその後は持ち直した[18]。
「第二次霧社事件」の写真
前列の地面に並べられているものは・・・・
近くには鳥居や日本語の料理店も見かけられる
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