本能寺の変 研究本部

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足利義昭
室町幕府15代将軍にして最後の将軍。
1573年に信長によって追放された人物である。



さて、この足利義昭と信長や光秀、そして本能寺の変がどう関係するのか・・・・


検証してみた。

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もと光秀は足利義昭の家臣であった。
義昭は昔の自分の仕えていたあるじである。

本能寺の変のある一説に
「黒幕は足利義昭でその命令により明智光秀は信長攻めにふみきった」
と言う説である。

原因


いうまでもないだろうと思うが
多分、先ほど述べた通り室町幕府の崩壊と義昭の追放だろう。

げんに義昭は信長包囲網なる戦線をつくり
各地の大名に呼びかけていたこともあるほどである。

義昭が光秀に
信長を殺せる機会があったら殺せ と指令を出していて
信長の近くの屈強な家臣たちが信長の元をはなれた
この機をねらって謀反を起こした。ということである。


考えられることではあると思うがあまり可能性はないと思う。
光秀が裏切ったことにより信長が死んで
義昭は権力を取りもどせてはいないではないか。
光秀も周りの大名が起きあがってくるということを
わからずにやっていたのだろうか。
わかりそうなものだが、わかっていたなら
自らが攻められるのもわかっているはずである。
どちらも利益にはなっていないはずだ。

ただ考えられることとして
義昭は信長をにくんでいた。
なら、天下が今、信長により統一されようとしている中
せめて天下の持ち主をリセットしようとしたのか。
そのことによって自分がまた将軍になることを望んでいたのか。
まぁまずそのようなことはないとは思うが・・・

単に本当になにも考えず、自分の憎しみにより
信長という存在を抹消したとしたら
義昭も光秀も随分愚かである。


足利義昭は暗君であったのだろうか??


どうしてもイメージは暗君な感じがするが
あのいきるか死ぬかの戦国時代に生き長らえた義昭は
信長包囲網なる壮大な戦線も築いたところを見る限りでは
とても暗君ではないと言うことも考えられると思う。
どうしても信長や秀吉などの引き立て役として
影が薄いのは気の毒なことだとおれも思う。


結論


暗君ではなく、非凡な才能は持ち合わせているであろう義昭が
自分の憎しみだけで動いたのはあまり愚かである。
周りに利用される可能性だってあったのだ。
義昭をかくまって信長が死んだと同時に信長勢力をせん滅
あり得ない話ではないと思う。

義昭の恨みはあっただろう。
信長包囲網を自らの将軍という立場を利用し作り上げたというのも理由の一つである。
しかし、それが本能寺の変と明智光秀の行動について関係があるかと言われれば

0ではないとしてもあまり関係はないと思う。

まだ研究不足であると思うが現段階でのおれの結論は上記の通りである。

to be continued

本能寺の変 概要2

前回は明智光秀がなぜ裏切ったのか?と言うことについて
自分の意見を述べたのだが
今回も明智光秀はなぜ裏切ったのか?
というテーマで述べていきたいと思う。

四国征伐回避説


明智光秀の家臣に斉藤利三という人がいる。
当時、四国は長宗我部元親が統一を果たしたばかりのころだった。
当然、天下取りをしている信長からしてみれば
四国統一は果報ではなかった。
快く思わない信長は元親に四国2国の支配を認めさせようとするが
せっかくがんばってとった四国である。しかもまだ手に入れ手間もない。
こんな不平等に元親が応じることもなく
信長は激怒。四国征伐にふみきったのである。

話をもどそう。
明智光秀の家臣、斉藤利三は実は長宗我部元親と姻せき関係を結んでいた。
このことから元親と光秀はただの敵ではなく信長との友好関係を結ぶ上で四国統一を進めていた。
そんな中、光秀は信長が四国征伐にふみきることを知った。
信長の家臣である光秀は当然、信長の命令を裏切るわけにはいかない。
しかし自分の家臣のことも考えて元親を裏切るという訳にもいかない。

光秀はお互いからはさまれてどうしようも動けなくなっていたのである。
四国征伐回避説とはそういうことである。
四国征伐を敢行する信長に対してそれを止めるために裏切ったという説である。

調査が少ないので何ともいえないが
おれ的にはこの説もある。と言う意見である。
信長の行いについて不満を持っていたのは前に述べた通りであるが
いろいろな原因が重なった結果、天下統一まちがいなしと言われた信長を裏切り、殺すという
大たんな行動に至った原因ではないだろうか。
えいきょうした可能性はないわけではないと思う。


焦慮説


光秀は信長の家臣でいた期間がほかの武将より短い、
しかし、信長のもとで重臣となったのはやはり光秀は有能だったのだろう。

だが、信長は個人的信頼がなくなった家臣に対しては
相当な処ばつをあたえていたようだ。

そのため、信頼がゆらいだことにより自分の将来を悲観した結果、
謀反にふみきったというのである。
信頼がゆらいだ主な理由は
・四国征伐の失敗
・光秀がもと仕えていた足利義昭の追放(1573年)による光秀に対する信長の心証の悪化
・中国攻めの援軍として出じんした光秀は秀吉の格下であると言うことに対して

などである。
そのほかに、光秀は当時もう老齢で
自らの嫡子 光慶が登用されないことに憂いて謀反を起こしたともある。


この説についてはおれは反対と思う。
なぜかというと、自分の将来に対して心配をしているのだとしたら
むしろ信長を裏切らない方が将来は安泰な気がする。
実際、信長が死ぬとどうなるか?
もう武田信玄や上杉謙信などの強豪大名はいなくなっているが
各地にはまだ強豪が割拠している。
そのなかで一大勢力を築いた信長を殺すということは
各地の大名がこぞって奮起してくるのは目に見えていると思う。
実際、秀吉は本能寺の変の報を知るや
毛利元就に知られる前に急いで和解した。

あるじがいなくなったことによって毛利元就の失せていた
士気が一気に上昇し、反げきにでることも十分考えられる。
それに各地の大名たちがほうきし
もう京へも帰れず、自分の命もあやうくなる。

光秀はそんな混乱を望んだのだろうか
自分の未来の安泰を願うのなら
まちがいなく信長に従っているのほうが安泰である。
秀吉にみたいに大義名分やかたきなどをかかげて迫ってくるのに
かえって自分の命を落とす結果になったのはいうまでもない。







とまぁ今回の説は2つとも大きな要因にはなっていないような気がする
どうも不思議な点が数カ所あるからである。

というわけで次からは
「なぜ光秀が裏切ったのか」ではなく
「光秀の裏に黒幕がいる」と言う
大量な黒幕説について検証していきたいと思う。

         to be continued

本能寺の変 概要1

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1582年(天正10) 6月2日 京 本能寺

織田信長は明智光秀の謀反にあい炎の中に散った。



本能寺の変は早朝〜朝だったと考えられているそうだ。

明智光秀が「敵は本能寺にあり」といって裏切ったのはとても有名な話で
織田信長が知らせを受けたとき「是非もなし」と一言つぶやいたのとても有名な話だ。

ではなぜ明智光秀が裏切ったのか・・・・・
多分これが最初にして最大のなぞである。

・野望説

明智光秀が天下がほしかったと言う説である。
ここで信長をたおすことによって自らが築いた天下を見たかったと言うことなのか。
実際に明智光秀は一時、力を手に入れた。
しかし「三日天下」という有名な言葉の通り
細川忠興ら各地の光秀と内通していた大名たちが寝返らず
しかも豊臣秀吉の神業とも思える中国大返しにより
ごく短い期間を経て、山崎の戦いにて敗北したのは周知の通りである。

この説はいろいろと骨になる部分があると思う。
別に信長に個人的にうらみがあるのだとしても
そのついでに天下をとることはもちろん考えただろう。
信長を裏切ってたおすということは、どれだけ周りの強豪が動くことになるか・・・
天下は信長の独壇場となっていて、総明な光秀なら天下が平和になるという
天下統一を信長にたくした。と言う考えもできるはずだ。
自らの野望なくしてどれだけ多くの敵に当たるのか・・・・
光秀はそれほどおろかなわけではないと思う。

怨恨説

信長が明智光秀を嫌っていたのか??
その点もこの説を考える上で必要になってくると思う。

理由として主にあげられるのは
・徳川家康の接待役を命じられた際、不手際をおこしてしまった。
・武田をほろぼした戦いの祝いの席でで信長にいろいろと恨みをを持った。
などである。(ほかにもあるが・・・

第一の徳川の接待役は信長が当時、新参者だった明智光秀を起用すること事態異例のことだったらしいが
おもしろい説にわざとここで不祥事をおこして
(光秀は魚を出したのだがそのときその魚がくさっていた、または異臭がしたなど・・・)
信長を裏切る口実にしたという説まであるのだ。

うのみにするのはどうかと思うが、この説を見る限り実はもっと早い段階で信長を裏切ることを
決めていたのではないか?
信長の急進的な天下取りに反対勢力は多く、信長は常に血を血で洗う毎日が続いていた。
光秀の性格上、信長の残酷な一向宗門徒の虐殺(伊勢・長島の一向一揆など)
にたえられなかったというせつなのだ。
ただ新参者の光秀がこんな重大なことに起用される確率は普通なら低いため
信長はそれほどに光秀を信頼していたのか、違うのか
検討の予知はありそうだ。

第二に武田をほろぼした戦い(長篠の戦いだが)の祝いの席にて
「骨を折ったかいがあった」との光秀に対して
「おまえが何かしたのか」と信長は光秀に暴力をふり、光秀は恨んだという。
戦国の資料を見てよく思うのはこういった
恥や面目、名分などがものすごい重要視された時代だと思う。
故にこういったことは戦いの場面を、大げさにいうと歴史を
くつがえされる結果にまでなってしまうのであまく見てはいけないという意味だ。

しかし怨恨説については江戸時代からそれ以降にかかれた書物やその他のものに
多くかかれてはいるが実際の資料としてはあまり残っていないそうだ。

結論

光秀が信長に対して憤りを感じていた。というのはまちがえないともいわれるが
(川角太閤記の小早川隆景に対する光秀の書状にもあるが)
さっきの第一の説と野望説とをあわせて考えると
光秀は恨みを謀反の理由として用い
本当に理由は実は別にあったが
なにもなしに自分の野望のみで動くのは
信長に対してさすがに申し訳ないと言う考えが働いたのではないだろうか。

実際に信長は光秀のことをあざけっていたがそれは秀吉も同じことで
新参者の光秀を起用するあたりはさっき述べたとうり絶大な信頼を寄せていたとすると
あながち考えられない説ではないと思う。

to be continued

本能寺の変 通説

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本能寺の変〜1582年(天正10)6月2日


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家臣 明智光秀の謀反により、織田信長は京・本能寺に散った。


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通説を説明する上でこの「本能寺の変」は
学校の歴史の教科書にのるほどの大きな大事件で
だれもが知っている歴史の一つでもある。


信長は数えで49歳といわれている。


なぜ、明智光秀は裏切ったのか・・・・・

本能寺の変と検索するだけでこの手のページが五万とでてくる。


難しい言葉での説明は資料の丸写しになるので
おれの独断と数々の資料をもとにここに

本能寺の変 研究本部を設けようと思う


随時更新するので意見よろしくお願いします。

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