されど調布の日々〜昭和とともに燃えつきた青春

上京後住み着いた調布の下宿はお化け屋敷で最期は火事で全焼した。でもこれはホラーじゃない。昭和後期の空気漂うアホな青春の記録です。

2.再受験期すも迷い道/S.52

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TABOはそのアタリ棒を見て嫌な予感がした。
そのアタリ棒でもう一本、只でアイスがゲットできるからだ。
が、道行の途中に立ち寄ってアイスを買い求めた店は
はるか後方。
まあ、フツーの人だったらその時点で諦める。
そのためだけに引き返すのはトーゼン躊躇するはず。
だからそこまで心配する必要はない。

ところがそこはコースケ先生。
常人とは違う。
何の迷いもなく、そのためだけに引き返すのだ。

果たしてそのときも即座にクリルと踵を返した。

「さあ、もう一本もらいに行きましょう」

コースケ先生の出方は分かっていたとはいえ、
改めて口にされると驚く。

「ヒエ〜、マジですかい」

TABOの声もさすがにひっくり返る。

「何言ってるんですか、アタリクジですよ。
そんなのムダにできるわけないじゃないですか。
最近の若いモンは全く」

結局、いま歩いてきた道のりを引き返した、
アイスを一本受け取るために。

その間、バスがワレラの横を無情にも通り過ぎていく。

「あちゃ。行ってもた」

「まあまあ、いいじゃないですか。
これで完全にバズ代が節約できましたね。ムヒョヒョヒョヒョ」

で、従兄弟の家の着いたときはどっぷりと日も暮れていた。

「歩いてきたの?」

従兄弟はさすがに驚きを禁じ得ないといった面持ちだった。

「遅いから道にでも迷うたかと思うとった。
でも道は駅からの一本道だから迷うはずないもんなあ」

そう言いながら従兄弟は笑い飛ばす。
が、それにこっちが何の反応を示さないため、
従兄弟はTABOの顔をまじまじと見つめながら、

「そうとう疲れとるなあ。
一風呂浴びて飯でも食って元気出せや」

と慰められる始末。

そりゃそうさ。

で、その夜、従兄弟の家で夕食をご馳走になったあと、
疲れたカラダを床に預けた。
周囲は静かな山間の地。
下界とは違って森閑とした時が流れる別世界で、
夢心地は格別。それだけが救いだった。

旅はその後、彦根城、琵琶湖、敦賀(駅泊)、
天橋立(ここはさすがに絶景!)、岐阜柳ヶ瀬と回り、
無事ゴールの一宮(コースケ先生の根城)にたどり着いた。

移動代と限られた食費以外、
ほとんどカネを使わないケチケチビンボー旅行。
しかも広範囲を2泊3日の強行軍で走破したため、
一宮に到着したときは身も心も疲れ果てていた。
にもかかわらず、さらに東京への帰路を急ぐTABOに向かって
コースケ先生は別れ際に一言、

「TABO先生、また行きましょうね」

だってさ。

う〜〜ん。即答できず、思わず唸ってしまったのであった。
だってこの旅、TABOにとってはただの旅などではない。
精神修養のための難行苦行の旅にほかならなかったのだ。

当時、ユーミンがブレイク、勢いに乗っていた。
街には彼女の4枚目のアルバム「14番目の月」の
楽曲が流れていたのを覚えている。

そのためか、このユーミンのアルバムを聞くたびに
あの苦行旅を思い出すのであった。

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【さみしさのゆくえby荒井由実】
http://www.youtube.com/watch?v=4Ynu7ookMyE


*ユーミンのアルバムのなかではいまでもこのアルバムが一番好きだ。タイトル曲はじめ、「さざ波」「中央フリーウェイ」「さみしさのゆくえ」「朝日の中で微笑んで」「晩夏」など収録曲も充実している。まさにハズレなし!
その事件は初っ端の日に起こった。
一夜の宿として利用させてもらうために
従兄弟の家に向かう途中の出来事だった。

従兄弟の家は東海道本線の米原駅近くのS駅が最寄り駅。
ただ駅からは距離があるため、
通常はそこからバスを使って行く必要があった。

ところがその日はあいにく駅に到着したときは
バスは出発したばかり。
東京のようにバスが頻繁に往来するわけじゃない。
時刻表で確認すると、次のバスは1時間後だった。

「あちゃ〜」

肩を落としているTABOに
コースケ先生は涼しい顔でこう宣った。

「待っているのは時間のムダというものです。
歩いて行きましょ。バス代も助かるし、一石二鳥でしょ」

「え、歩いてく?」

S駅から従兄弟の家に続く道は坂道の連続。
何分、目指すところは山深い場所だった。「

「バスでも30分くらいかかると聞いてます。
ムリっすよ、絶対!」

TABOが異を唱えると、コースケ先生はため息を漏らす。

「また、先生、贅沢なこと仰る」

と言ってこう続けるのだった。

「歩いていくうちに途中どこかでバスが追いついてくるでしょ。
そこで乗ればいじゃないですか。
それだけバス代も節約できるってもんでしょ」

「マジですか」

「オラ、オラ、早く行かないと日が暮れちゃいますよ」

そんなやりとりのあと、結局、田舎道をテクテクと歩くことに。
その日は朝早くから動き出し、
鳥羽→伊勢神宮と回り、3時間かけてS駅に降り立ったのだ。

TABOは疲れがたまり、足取りも重かった。
が、コースケ先生は平気の平左。
ケロッとした表情でスタスタ歩いていく。
そのタフさには恐れいったものだ。

「あ、ちょっと待っててください。
ガンバって歩てるからご褒美を上げましょう」

30分ほど歩いた当たりだろうか、
通り道に駄菓子屋を認めるや、
コースケ先生は店の中に入っていった。
出てきたときにはアイスキャンディーを2つ手にしていた。

「ホラ、冷えてますよ。
早く食べないと溶けちゃいますよ」

そう言ってムッツリ顔のTABOに一本差し出すのだった。
アイスキャンディーに罪はない。受け取って早速いただく。

昔懐かしのソーダ味(当時でも郷愁をそそる味だった)。
確かによく冷えていた。
歩きながら食べてたらあっという間になくなる。
ちょっと人心地つく。

何気に隣を歩くコースケ先生に目が行った。
まだアイスを手にしている。
大事そうにひと舐め、ひと舐めしていた。
何ともイジマしい。

こちらの視線に気づいたのか、横目でジロリ。

「もう、食べちゃたんですか。もったいない。
もっと味わって食べないといけないでしょうが」

そんな調子で、その後もコースケ先生は
しばらくアイスを舐めながら歩いていた。

そんなコースケ先生が
唐突に叫び声を上げたのは日も暮れかかった頃。

TABO先生、アタリですよ」

ニンマリ顔で食べ尽くしたあとに残ったアイス棒を差し出す。
確かにそこにはアタリの印字が。

思えばこれが悲喜劇の始まりだった。

<続く>

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ある意味、コースケ先生は知恵者である。
同世代の若者らしからぬ発想で持って
驚くべき行動に出ることももしばしば。

だから若年寄とも呼ばれていた。
そんな老成した青年、
コースケ先生とのつきあいで忘れられない出来事がある。

それは、彼が岐阜大農学部に籍を置いている頃の話だ。
T外大合格の前の年、昭和で言えば51年ということになる。

当時、コースケ先生は愛知県の一宮に住んでいた。
岐阜市と名古屋市の中間に位置する都市だ。

岐阜と名古屋の間はJRと名鉄が並行して走っているのだが、
同じ路線にもかかわらず、JRのほうが運賃が高かった。
時間的に速いわけでもないのに、だ。
にもかかわらず、なぜか岐阜名古屋区間をJRを利用する
学生がたくさんいた。

この様子を見て
「皆さん金持ちですね、贅沢なさって」
と皮肉るのがコースケ先生のいつもの口癖であった。

そんな先生とその年のゴールデンウイークに
一緒に旅をする機会があったのだ。
伊勢神宮ー鳥羽ー彦根ー琵琶湖ー敦賀ー天橋立といった
コースだったと記憶する。
これが忘れられない思い出となったというわけだ。

独立不羈、自立精神の強いコースケ先生は
辛抱第一を信条としており、
学生のノーテンキでノホホンとした甘えが大嫌いなタイプ。
一見、ヒナタもやし風でナヨッとしているのだが、
これがなかなかどうして意外で硬派で渋チンなのだ。

旅行の最中も徹底した倹約ぶりで、一切の贅沢は許さなかった。
TABOが100円の缶ジュース買うのも憚れるほどに
アツをかけてくるのであった。

「水があるでしょ、水が」
と威圧的な態度で諌めるため、
10回のうち9回はジュースを購入する手を
引っ込めざるを得なかったのだ。

むろん泊まりにも金はかけない。
途中2泊の行程だったのだが、
1泊はTABOの従兄弟の家を利用させてもらい、
もう1泊は駅の待合室にゴロ寝と相成ったのだった。

そんなケチケチ旅行中に、
コースケ先生のキャラを如実に物語る
特筆すべきエピソードが発生した。

アイスキャンディーアタリ棒事件だ。

<続く>

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2月ーー受験シーズン到来。
ということで愛知からコースケ先生が再上京して来た。
コースケ先生は前年に岐阜大農学部に合格してていたのだが、
肌に合わず捲土重来を期し、
在京の大学への進学を目論んでいたのだ。

彼はもともと国立系の医学部を目指していた。
当時はまだ国立系は一期校、二期校に分かれており、
試験日も別々に設定されていたため、
国立系を二校受験することは可能だった。

国立を目指す受験生は一期校を第一目標に置き、
二期校を第二志望か滑り止めとしているケースが多かった。

コースケ先生も例外ではなく、
現役の受験時は確か一期校がどこかの医学部で、
二期校を思い切りハードルを下げて
岐阜大の農学部に設定したとの記憶がある。

高校時代に一年後輩だった彼は
浪人することは全く念頭になかったのか、
第一志望の一期校に落ちたことを想定して、
二期校は合格間違いなしの大学を選択したわけだ。
それが岐阜大の農学部だった。

競争率は二期校のなかでも際立って低く、
その意味ではラクラク合格の滑り止めだったのだ。

果たして一期校は見事討ち死に、
二期校は合格という読み通りの展開となった。

だが、医学部志望だったコースケ先生は
指向性や性格からして農学部とのミスマッチ感は
かなりのものがあったようだ。
風貌的にも色白系の文弱士然としており、
その点からも土臭い農学部とはかけ離れたイメージが強かった。

このため、コースケ先生は早々に頭を切り替え、
今度は東京進出を目指して受験勉強に全力を傾けていたのだ。

で、受験日前にTABOの下宿に転がり込み、
本番に臨むことにしたのであった。

今回は一期校はH大で、二期校はT外大とした。
むろん、一期校のH大はかなりハードルが高かったため、
二期校は確実に合格できる大学を選んだ。

だが、苦い失敗を繰り返さないためにも
それなりに青春のエネルギーを注いでも
惜しくない大学でなくてはならない。
しかもコースケ先生の自尊心を
満足させるところでなくてはならなかった。

ある意味、彼は大学にブランドを求めていた。
同じ偏差値だったらイメージのいい大学を
選ぶべきという考えの持ち主だったのだ。

世間の見る目が違ってくるし、
その後の人生も大きく変わってくると公言して憚らなかった
(のちに『なんとなく、クリスタル』で
作家デビューする田中康夫も同じことを言っていた)。

例に出して悪いが、当時、明治学院大と専修大は
だいたい同程度の偏差値だった。
この場合、コースケ先生は迷わず
明治学院大を選んだほうがいいと指南するのだ。
まあ、こんなこと言ったらフツー嫌われますわな。

それはともかく、そんな彼がこのとき
有力候補として的を絞ったのがT外大であった。
が、T外大もふつうの考えれば難関校だ。

そこでコースケ先生なりの戦略を練った。
T外大が学部によって競争率は
かなりバラつきがあるところに着目したのだ。

受験申し込みギリギリまで待って
その時点で一番低い競争率の学部を
選ぶという作戦に打って出たのである。
学生らしからぬ狡知だ。

この作戦がまんまと成功し、見事T外大に合格したのだった。
コースケ先生が本来勉強したい学部だったかは別問題だったが。
むろん、一期校のH大は読み通り、玉砕したのは言うまでもない。

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真っ赤な鼻の新聞販売所のオヤジはついて少し触れたい。

この新聞販売の商売は彼が始めたものではない。
先代から受け継いだものだ。
オヤジは本当はふつうの会社に勤めたかったらしいが、
後を継ぐものがいないため、
泣く泣くサラリーマンの道は諦めたようだ。

だからか、仕事への情熱はなく、
中途半端感は否めなかった。
新聞販売所をやっているオノレを
どこか卑下したていたのだろう。
態度も投げやりなら、新聞屋のオヤジというか、
商売人としての風情が身についていなかった。

実際、見た目もナヨっとしたヤサオトコ風で、
アッチ系かと思わせる雰囲気を湛えていた。

そのオヤジが新聞勧誘するところを
偶然目撃したことがある。

それはまだTABOがバイト開始早々で
配達順路もよく頭に入れていないときのことだ。

オヤジにつきっ切りのOJTを施されていたのだが、
その途中、顔見知りと遭遇したのか、
突然、「少し待ってて」とTABOを制し、
オヤジはその顔見知りらしき人のところに
すっ飛んで行ったのだ。

でその直後に目の当たりにした光景に戦慄した。

「いいじゃないですか。とってくださいよ〜。
お願いしますよ〜」

クネクネ妖怪みたいに腰をくねらせ、
懸命に媚びを振っていたからだ。

目を背けたくなるほどの媚態。
男のやることではない。
迫られた当人もたまらないというふうに
何か一言言い捨てて苦虫を潰した顔をししていた。

が、帰ってきたオヤジはニンマリ顔でVサイン。

「勧誘するときはこういうふうにやらなくちゃね。
女性を口説くときと一緒だよ」
と得意げにヒトクサリ。

続けて片目でウインクを飛ばされるに至っては
さらにゾッとしたね。

ただでさえ寒い時期の早朝。
一気にカラダが冷え込み、凍え死にそうになった。
そのときも親父の鼻は赤かった。

この新聞配達は半年くらいで止めた。
さすが早朝のバイトはキツイ。
夜もゆっくりできないし、学生の特権である朝寝坊もできない。
半年でも長続きしたほうだろう。

新聞奨学生とはいえ、その点、
下宿の隣部屋のコムラサキさん(当時日大3回生)はエラい。
これを4年間も続けたんだからなあ。

で、この新聞屋のオヤジだがーー
何を思ったのか、その後、新聞屋を廃業、
販売所の跡に喫茶店(カフェ)を開業した。

神戸から仕入れる高品質のコーヒー豆が売りで、
内装もクラシカルエレガンスにまとめ、
その喫茶店名も「セピアの庭で」という
キザったらしいものだった。

一度、冷やかしに顔を出したら、あのオヤジ、
やたら営業スマイルを振りまいて歓待してくれた。
新聞配達のバイトとして使われている頃とはダンチであった。

出で立ちも白いワイシャツにギンガムチェックのベスト、
首元には蝶タイと、いかにもサテンのマスターといった風情。

なるほど、オカマ然としていただけあって
新聞屋のオヤジよりはよほど様になっていた。
が、所詮は「武士の商法」。
上手くいくがハズはないと思っていた。

ところがどっこい、
これがなぜかけっこう人気の店となってブレーク。
しばらくしてなんとなんと渋谷に進出したのであった。

TABOの予想に反して
この「武士の商法」は絶好調だったようで、
一時期は渋谷に4店舗も店を開くほどの羽振りの良さだったという。
だが、スタバなどの進出や
オヤジの年齢的な問題から2010年1月で閉店したらしい。

当時閉店を惜しむ声がネットでけっこうあったのに驚いたが、
あのオヤジも一線から身を引く歳になったのかと思うと
妙に感傷的な気分になってしまったものだった。

*写真下の左奥にいるのが元新聞屋のオヤジ
(こんな顔してんたんだね、ていうか、小さくて見えないか)。
右手前はオヤジの娘さんだとか。

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