或るだいちゃんのブログ

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両国散歩 その2

 
日が経ってしまいました。忘れないうちに書いておかなければいけません。
 
「勝海舟生誕之地」碑の隣には、こんな石碑がありました。
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この「由来碑」には、次のように記されています。
「 勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政六年(一八二三)一月十三日この地 男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(一八六〇)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡米した。
慶応四年(一八六八)三月十三日 高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の市民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。
 明治三十二年(一八九九)一月二十一日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去 行年七十七歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。
 平成元年十月 墨田区(幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)」
 
さらに、その右隣には、墨田区教育委員会が建てた金属の説明版もありました。
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こちらも、写真では見にくいので、念のため書き写しておきます。
「勝海舟生誕の地 所在 墨田区両国四丁目二五番
 勝海舟は、文政六年(一八二三)一月三〇日、本所亀沢町の父小吉の実家である男谷(おだに)家に生まれ、七歳まで育ちました。幼名は麟太郎と言います。幕臣とは言っても下級武士だったため、苦しい生活を強いられました。それでも少年時代は剣を島田虎之助に学び、向島の弘福寺に参禅するという日々を送る一方、蘭学者永井青崖について蘭学や兵学を学びました。その後、弘化三年(一八四六)に赤坂に転居するまでは本所入江町(緑四丁目二四番)で暮らしていました。嘉永六年(一八五三)、幕府に提出した開国後の方針を述べた意見書が採用され、世に出ました。
 万延元年(一八六〇)には、日米修好通商条約批准のため軍艦咸臨丸艦長として太平洋を横断、アメリカとの間を往復しました。
 慶応四年(一八六八)三月、徳川幕府倒壊後の処理を一身に担い、新政府側の中心人物である西郷隆盛と会見しその結果、江戸城無血開城を果たして江戸の町を戦禍から救ったことは有名です。
 海舟は、成立間もない明治政府の土台作りにも手を貸し、参議兼海軍卿・枢密顧問官などを歴任し、伯爵となりました。
 明治三二年一月一九日、七七歳で病没しましたが、養子相続手続きの関係で秘され、二一日に死去が報じられたために、官報や大田区洗足池畔の墓石にも二一日と刻まれています。
 平成九年三月 墨田区教育委員会」
 
隣同士で建っている「由来碑」と説明板で、生まれた日や亡くなった日が食い違っているというのは、ちょっと困りものです。
 
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閉じる コメント(2)

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桐島かれんさんのお子さんが 確か「麟太郎」くんだったな、
とどうでもいいことは気になるのですが、
由来碑と説明板とで、生没年月日が違うということには気がつかず。
歴史がお好きな方には、こういう観点がおありなのだと 改めて。

2011/5/20(金) 午後 2:57 [ wasuregusa ]

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後から建てた教育委員会の説明板のほうが正しいようです。

子供達の社会科の教科書を見ていると、我々の子供の頃とは記述内容が違っていて、びっくりすることがあります。(例えば、堺にある前方後円墳の名前が「仁徳天皇陵」ではなく「大山古墳」と書いてあったりするのです。)

過去の歴史であっても、新しく塗り替えられていくものである、ということに改めて気付かされます。

2011/5/22(日) 午後 11:58 [ だいちゃん ]


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