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10月20日は、皇后陛下のお誕生日でした!!
(戦前は、女子高等は、お誕生日をお祝いして、休校だったそうです!!)

以前、皇后陛下がどのような思いで、被災地を、天皇陛下と共に御訪問されていいるか・・・・。
短い動画ですが、熊本地震の被災地に、福岡県久留米市より救援物資として、掃除機を届けられた方に、「心からの有難う!!」の言葉が・・・・。
避難されていた男性が、号泣されています!!
これが、皇后陛下が国民に対するお気持ちなんだ・・・・、改めて感じました・・・。

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熊本地震に関係するお話。
 
昭和16年の小学校の「修身」の教科書に「布田保之助(ふた やすのすけ)と通潤橋(つうじゅんきょう)」が掲載されています。
 
戦前の子供達は「修身」という道徳の教科書で、先人の偉業や日本の誇りを学んでいましたが、戦後はそれらが一切消されてしまい、戦前の記憶がぷっつり切られてしまい、昔の日本人が知っていた先人の名前も偉業も全く知らない日本人になってしまいました。
  
当時、第五期(昭和十六年)の初等科修身三に書かれていた「布田保之助と通潤橋」を掲載いたしますので、ぜひ、一度は読んで頂きたく思います。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・
熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿うて、白糸村(しろいとむら)というところがあります。
 
あたり一面、高地になっていて、緑川の水は、この村よりずっと低いところを流れています。白糸村は、このように川に取り囲まれながら、しかも川から水が引けないところです。
 
それで昔は水田が開けず、畠の作物はできず、飲み水にも困るくらいでした。村人たちは、よその村々の田が、緑の波をうつのを眺めるにつけ、豊かに実って金色の波が打つのをみるにつけ、どんなにかうらやましく思ったでしょう。
 
今からおよそ百年ほど前、この地方の総庄屋に布田保之助(ふたやすのすけ)という人がありました。

保之助は村々のために道路を開き、橋をかけて交通の便をし、堰を設けて水利をはかり、大いに力を尽くしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人たちと一緒に、水のとぼしいことを、ただ嘆くばかりでした。
 
いろいろ考えたあげくに、保之助は、深い谷を隔てた向こうの村が、白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうかして引いてみよう、と思いつきました。
 
しかし、小さなかけいの水ならともかくとして、田をうるおすほどのたくさんの水を引くのは、なまやさしいことではありません。
 
保之助は、まず木で水道をつくってみました。ところが、水道は激しい水の力で、ひとたまりもなく壊され、堅い木材が深い谷底へばらならになって落ちてしまいました。

けれども、一度や二度のしくじりで、志のくじけるような保之助ではありません。今度は、石で水道をつくろうと思って、いろいろ実験してみました。

水道にする石の大きさや、水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や、吹きあげ方など詳しく調べました。とりわけ、石の継ぎ目から、一滴も水を漏らさないようにする工夫には一番苦心しました。

 
そうして、やっと、これならばという見込みがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。

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藩の方から許しがあったので、一年八カ月を費やして、大きなめがね橋をかけました。高さが十間余り、幅が三間半、全長四十間。そうして、この橋の上には、三すじの石の水道がつくってありました。
 
始めて水を通すという日のことです。保之助は、礼服をつけ、短刀を懐にして、その式に出かけました。万が一にも、この工事がしくじりに終わったら、申し訳のため、その場を去らず、腹かき切る覚悟だったのです。
 

工事を見届けるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も、保之助の真剣なようすを見て、思わずえりを正しました。

 
足場が取り払われました。しかし、石橋は、びくともしません。やがて水門が開かれました。水は、勢い込んで長い石の水道を流れてきましたが、石橋はその水勢に耐え、相変わらず谷の上に高くどっしりとかかっていました。
 
望みどおりに、水がこちらの村へ流れ込んだのです。
「わあ」という喜びの声が上がりました。

保之助は、永い間、苦心に苦心を重ねた難工事ができ上がったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして、水門をほとばしり出る水を手に汲んで、おしいただいて飲みました。

 
まもなく、この村にも、水田の開ける時が来て、百町歩(ぶ)ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人は増えて、藩も大いに収益を増すようになりました。

橋の名は通潤橋(つうじゅんきょう)と名付けられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命を支える柱となっています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 

熊本地震で甚大な被害が出ている熊本県南阿蘇村と隣接する山都町(やまとちょう)は、大半の建物が全半壊し、住民のほぼ全員が避難生活を余儀なくされている地区もあります。

 
この町の宝であり国の重要文化財に指定されている石橋「通潤橋」が壊れてしまい、江戸時代から水不足の大地を潤してきた放水ができなくなってしまいました。

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しかし多くの建物が倒壊する中、通潤橋はあの大地震でもそのまま残っているというのは、苦心に苦心を重ねた昔の日本人のしっかりした技術力の賜物ではないでしょうか。
 
通潤橋に水を通す日、保之助は万一失敗した時は、その場で腹をかき切る覚悟で礼服と短刀を懐にしていたことを思えば、平成の御代に起きた熊本の大地震にも壊れずに耐え抜いたことは、保之助が今を生きる我々に「修身」ならぬ、何かを教えているような気がするのです。




・・・・・・・
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転載元転載元: さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

仲井眞弘多知事任期満了に伴い執行された沖縄県知事選挙(11月16日投開票)ですが、翁長雄志氏の圧勝で終わりました。
 
個人的に、沖縄知事選挙の結果について考えてみました。
 
今回の沖縄県知事選挙は最大の争点は、米軍普天間飛行場移転です。
普天間基地移転に対する翁長さんと仲井眞さんの主張です。
 
・翁長雄志氏
国外か県外で解決
普天間飛行場の名護市辺野古移設に対する県民の反対は8割超。
地元の理解の得られない移設案を実現することは、事実上不可能である。
 
・仲井眞弘多氏
辺野古へ移転が現実的
人口密集地にあり世界一危険な普天間飛行場の1日も早い危険性の除去が最も重要である。
18年におよぶ普天間移設問題を、これ以上先送りすることは許されない。
 
情報入手先:
 
 
ネット上では、この選挙結果をうけて、多くの意見が投稿されています。
(中には、沖縄県民の皆様への誹謗中傷と思える記事も、数多く見られます。
 私の個人的な考えは、世界一危険だと言われる普天間基地の移転は、絶対に必要だと考えています。)
 
 
私の個人的な認識だと、自民党出身の保守の政治家だと考えています。
「保守=辺野古移転賛成」とならない事に注視しないと、沖縄基地問題は見えて来ない気がしています。
 
同じような、意見を持たれている方がいらっしゃいました。
 
まずは、若き保守の論客、古谷経衡 (ふるや・つねひら)さんの御意見を紹介します。
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【沖縄県知事選】「ネット右翼」はなぜ沖縄の米軍を擁護するのか?

◆問われる「保守」のカタチ
たしかに、中国の軍事費は毎年10%以上の増加をみせており、不透明な部分も多く指摘されている。
中国人民解放軍は特に空軍力と海軍力の近代化を急いでおり、現代戦に不可欠な無人機の開発も怠っていない。
南沙諸島、西沙諸島での中国軍とベトナム、フィリピンなどとの緊張と衝突は現実問題として起こっている。
いまや世界第2位の経済大国になった中国に対し「中国脅威論」が展開されるのは無理もない(ただし私は、軍事的な観点から、中国軍の沖縄本島侵攻の能力は現段階ではほぼゼロであると考える)。
その抑止力として、沖縄に米軍を存置させるのが、日本の安保政策にとって必要不可欠だ、という理屈は理解できる一方で、反基地運動を展開し、米軍に嫌悪感を示す人々を「反日、中国の手先」と決めつけるのは愚の骨頂だ。
翁長雄志氏は、選挙戦の演説の中で「私は保守の政治家である」といった。
本土の保守派が聞けば、「辺野古移設反対で日米同盟に亀裂がはいるというのに、何が保守だ!」と怒る人が大勢いる。
しかし、その理屈はあくまで「親米保守」の理屈であり、多分翁長氏が言う「保守」の姿とは違っているのだろう。
一般的に「保守」とは、「伝統や文化を守り、育てていく姿勢」と理解されている。
沖縄から基地をなくし、沖縄が先祖から受け継いだ伝統的な土地を回復する、という主張は、おそらく沖縄にとっては「最も保守的」で「ナショナリスト」的な立ち位置なのかもしれない。
私は同じ日本人である沖縄県民が、米軍の兵士に乱暴されたり、陵辱されるのを「安保のためのやむを得ない犠牲」と黙って見過ごす態度が、本当の愛国的態度だとは思えない。
本土の保守は、「親米保守」にこだわるあまり、そうした沖縄の「ナショナリズム」を蔑視し、侮っている。
時として本土の保守の無思慮な物言いが、沖縄の人々を傷つけているとさえ感じる。
沖縄県知事選挙は辺野古移設を問うもの以上に、「保守とはなにか」という根源的な問いかけを行っている。
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次に、ノンフィクションライターの藤井誠二さんの御意見を紹介します。
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【沖縄県知事選】「分断」され「沈黙」せざるを得なかった人々が語ることのできる「選挙後」に――
 
2011年11月末、沖縄防衛施設局長が普天間基地の移設問題についての記者懇談会で、防衛相が辺野古移設への環境影響評価書の提出時期を明言していないことについて女性をレイプすることに例え、「犯す前に(これから)『やらせろ』とは言わない」などと発言して問題となったことを覚えているだろうか。
記者懇談会はオフレコが前提とされるが、発言のあまりの下劣さを考えれば、すっぱ抜いた地元紙記者の判断は正しかった。
局長はただちに更迭されたが、一川保夫防衛相(当時)は参院東日本大震災復興特別委員会の、この一件に関する答弁の中で1995年の米海兵隊員らによる少女暴行事件について、「正確な中身を詳細には知ってはいない」と答えたのである。
防衛相は、日本を二分するほどの米軍普天間飛行場返還運動の端緒となった事件に対してまともな知識を持たないまま、問題発言をした局長を更迭したことになる。
政府高官にしてこの品性のなさと知識レベルが、そのまま「内地」と沖縄の「距離」なのだと私は思う。
私たちが沖縄の「一大事」をどこか遠く感じてしまう感覚とそれはおそらくつながっている。
沖縄が半世紀以上にわたって煮え湯を飲まされるような現実を経験してきたのに、どこか遠い国の出来事を眺めるような感覚が私たちにはある。
歪な「性」のにおいと私は書いたが、普天間基地返還交渉のきっかけとなった1995年の米兵による小学生レイプ事件しかり、防衛庁幹部の発言しかり、言い換えるならば、沖縄はアメリカと「日本」にレイプをされ続けてきた、という言い方もできるということだ。
辺野古基地の事実上の新設も、オスプレイ配備も、発生件数こそ減少したが今だに止むことがない米兵の犯罪も、沖縄には常に犯される側だった。
そういった沖縄の戦後に対する日本=ヤマトの態度が無数の「分断」と「沈黙」を生んだという状況認識は、ごく一部のネトウヨ的発想をする人々をのぞいて、沖縄の「保守」も「革新」も関係なく持っていると私は思う。「沖縄差別」という言い方を沖縄で聞くようになって久しいが、そういった憤怒が今回の「保守」も「革新」の壁も取っ払った県知事選に発展しているのだと思う。
ほんらいであるならば国レベルで解決しなければならない「米軍基地」が争点になってしまっていることはナンセンスなのだが、その根底にはヤマト=日本へと向けられている怒りが横たわっているということを私たちは気付かねばならないと思う。
私たちは従来的な「保守」対「革新」という二極対立的な構図で、今回の知事選を見るべきではない。
「経済」や「基地」をめぐっては、沖縄では戦後、さまざまな大小の内部対立が続いてきた。
私が取材してきた沖縄の「売買春」街と沖縄の「戦後」との関係を見るだけでも、米軍基地の返還は誰しもが望んでいても、目の前の生きる糧を得るために、ときにはアメリカの機嫌を取る人々もいたし、徹底的に猛反発した人達もいた。
それがときに「保守」対「革新」というふうに呼ばれて対立をし合ったが、その内実は政党名だけで分けられるほど単純ではない。
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11月22日の夜、長野県北部を震源とした、マグニチュード6.7の地震が発生しました。
 
長野県北安曇郡白馬村では、多数の家屋が倒壊した事を、テレビのニュースで知りました。
 
被害に遭われた皆様に、お見舞いを申し上げます。
 
重傷の方を含め、怪我をされた方が多数おられるものの、現時点で亡くなられた方の情報がない事に、安堵しています。
 
そんな中、興味深い記事を見つけました。
 
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<長野北部地震>屋根持ち上げ80歳救出 白馬の住民団結
 
毎日新聞 11月23日(日)21時51分配信
長野県北部を震源として22日夜に発生した地震は、23日の夜明けとともに、被害の実態が明らかになった。
20人以上のけが人が出た白馬村では、全壊などの家屋被害が同村神城(かみしろ)の堀之内と三日市場の隣り合う両地区に集中。
深さ5キロと浅い場所を震源とした内陸型地震が直上周辺に大きな被害をもたらしたとみられる。
家を失わなかった人たちも停電により暖房の手段を失い、避難所へ向かったり、車の中やテントで、23日朝の最低気温氷点下1.1度という寒さから身を守った。
 
「ドーン」。22日午後10時8分、地震発生時、堀之内地区の自宅で寝ていた無職、吉沢諄俊(あつとし)さん(80)は、下から突き上げるような揺れで目が覚めた。
その直後に屋根が崩落。両足から腹部を挟まれ、身動きが取れなくなった。
辺りは停電で真っ暗。
「助けてくれ」と叫び続けるしかなかった。
そのころ、同地区住民の安否確認をしていた会社員、三浦洋二さん(61)は、見回り先の住民から吉沢さん夫婦が倒壊した自宅に取り残されていることを聞かされた。
急いで向かうと、すでに住民たちが救出活動を始めていたが、数人が持つ懐中電灯だけが頼りだった。
吉沢さんの妻は屋根を少し持ち上げて自力ではい出したが、耳と目が不自由な吉沢さんはまだ動けずにいた。
吉沢さんの親類が心配そうに見守る中、住民男性3、4人で屋根を持ち上げようとしたがびくともせず、近くにある建設会社のフォークリフトを使って屋根を持ち上げ、なんとか救出できた。
救出後、村内の親類宅で一晩を明かしたという吉沢さんは毎日新聞の取材に、「近所の方々に助けてもらって本当に感謝の言葉しかありません」と、疲れ切った様子で話した。
長野県安曇野市から駆けつけた妹の山田輝美さん(78)も「近所の皆さんに助けてもらい、とてもありがたかった」と頭を下げた。
救出活動に加わった三浦さんは「助け出された直後、『右肩が少し痛い』と言っていたが、特に大きなけがはなくて良かった」と胸をなで下ろした。
【中津川甫】
 
参照先
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以前、書かせて頂いた記事を思い出しました。
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長野・栄村 震度6台3回で死者ゼロ
http://blogs.yahoo.co.jp/tadashi_y77/24638926.html
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以前、「君が代」に関するブログ友さんの記事を転載させて頂きました。
 
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この記事の内容を元に、動画を作成して下さった方がいらっしゃいます。
タイトルは、「日本一有名なラブレターが「君が代」って知らなかった! 」です。
感謝を込めて、動画を紹介させて頂きます。
 
 
 
 
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「君が代」は天皇崇拝の軍国主義賛美の歌だと言う人がいますが、実に程度の低い話です。
そもそも「君が代」は、戦前からの僅か7〜80年の歴史の歌ではありません。
今から千年以上もの歴史のある歌です。
よくもまあ、軍国主義の歌だとか、デタラメな事を言えたものです。
「君が代」の文字としての初出は、平安時代初期の延喜5年(905年)です。
この年に編纂された「古今和歌集」の巻7に、「賀歌」の代表作として納められています。
「古今和歌集」は、醍醐天皇の勅命によって編纂された勅撰和歌集です。
今でいったら日本政府そのものが編纂した公的歌集で、万葉の時代から撰者達の時代までの
140年間の代表的作品を集めたものです。
序文はカナで書かれていて、その執筆者は紀貫之(きのつらゆき)です。
その中に「読み人知らず」として掲載されているという事は、既にこの時点で多くの人に愛された歌だった事を示しています。
後年に書かれた「枕草子」によると、平安貴族たちにとって「古今和歌集」の暗唱は、常識だったのだそうで、その「古今和歌集」で、お祝いの歌の代表作として紹介されたのが、「君が代」です。
つまり「君が代」は、貴族達の慶賀の歌としても、常識歌だったわけです。
それだけではありません。
「君が代」は、その後に編纂された「新撰和歌集」や「和漢朗詠集」にも転載されています。
つまり、そうしなければならないほど、今から千年もの昔から多くの人々に愛された歌であったという事です。
ではなぜ「君が代」は、そんなに素晴らしい歌とされたのでしょうか。
理由の一つに「君(きみ)」があります。
「君」は君主を表すという人がいますが、それは間違いです。
漢字の「君」は、「口」ヘンと「尹(イン)」を組み合わせた文字ですが、「尹(イン)は、「手」に「|」(つえ)を持っている姿です。
これは「聖職者」をあらわします。
「口」は、その聖職者が口を開けて、何かを説いている姿です。
つまり「君」という字は、会意形成文字で、高貴な人を表す文字です。
読みは「クン」です。
「君主(クンシュ)」となると「高貴な人=君(きみ)の主人」なので、それだけ偉い人です。
「君子(クンシ)」は、その高貴な人の子と、ちょっと謙遜がはいります。
つまり「君」という字は、高貴な人であり、だからこそ、源氏物語は朝顔の君や、藤袴の君など、美しい女性達に「君」の尊称をつけています。
「君」が天皇を表すというのなら、源氏物語の女性たちは全員、天皇という事になってしまう。
その「君(クン)」という漢字に、古代の日本人は、元からの日本語にある「きみ」という読みを当てました。
「君が代」の「きみ」です。
その「きみ」とは、どういう意味の言葉なのでしょうか。
実は、古代日本語で「き」は男性、「み」は女性をあらわす言葉なのです。
日本神話に登場する最初の男女神は、イザナ「キ」、イザナ「ミ」であり、「おきな=翁」「おみな=嫗」という言葉もあります。
イザナキ、イザナミ以前の神々は性別がなく、日本の神々で最初に性別を持った神として登場するのが、イザナキ、イザナミです。
その最初の男女神は、イザナキ、つまり「いざなう男」、イザナミ「いざなう女」として登場します。
「いざなう」は、漢字で書けば「誘う(いざなう、さそう)」です。
つまりイザナキ、イザナミの物語は、誘(さそ)いあう男女の物語でもあるわけです。
二人は天つ御柱で出会い、キ「我、成り成りて、成り余るところあり」ミ「我、成り成りて、成り足らざるところあり」と声をかけあい、互いの余っている所と、足りない所を合体させて、子を産みます。
ここで大切な事が、男女が互いに「成り成りて」という所です。
「成り」というのは、完全に、完璧に、という意味です。
その成りが二つ重なっていますから、「成り成りて」は、完全に完璧に成長した事を意味します。
完全です。何の欠点もなく完璧に、という事です。
知性も肉体も、正に完璧に成長し、成熟したのです。
ところが、完璧に成長したら、互いに「余っている所」と「足りない所」があった。
これは矛盾です。
余ったり、足りなかったりするのは、「完全」ではないからです。
完全体になったら、完全でなくなってしまったのです。
そこで二人は互いの余っている所と、足りない所を合体させて、より完璧になろうとしました。
すると「子」が生まれたのです。
この事は、私達にとても大切な事を教えてくれています。
神々でさえ、完全に完璧に成長してから、男女のまぐあいを持ったのです。
ましてや、神々の子孫である我々人間は、男女とも当然に完全に成長してから、交合するものだという事を教えているからです。
つまり、親の脛かじりで、まだ勉強中の身上では、男女のまぐあいはする物ではない。
もっとしっかり勉強し、体を鍛え、互いに完璧に成長してから、結婚しなさい、という訳です。
つまり「きみ」というのは、男と女、それも「成り成りた男女」を表します。
男女が「なりなりた」事は、本人達に喜びがあるだけでなく、親や親戚、教師など、周囲の者達の喜びでもあります。
そして又、「完全に完璧な成長」は、尊敬の対象でもあります。
ですから「きみ」は、「完全に成熟し成長した」という、喜びの言葉であり、おめでたい、相手を敬う言葉となったのです。
従って、「きみ」は、「完全に完璧に成長した男女の喜びであり、尊敬し敬愛する人の喜びであり、「きみが代」は、その「愛し尊敬する人の時代」という意味となります。
その「愛し尊敬する人の代」が、「千代に八千代に」と続くのです。

ここまでだけでも、「君が代」とその背景となっている日本文化の素晴らしさがあるのですが、歌はさ更に「さざれ石の巌となりて」と続きます。
「さざれ石」というのは、正式名称を「礫岩(れきがん)」といいます。
細かな石が長い年月をかけて固まって巌となった岩石です。
実はこの「礫岩」、日本列島が生成された事によって生まれた、日本ならではの地勢が生んだ岩石です。
どういう事かというと、日本列島の周辺には、大陸間のプレートがあります。
よく地震が起きる原因となっているといわれている、あの地底プレートです。
そこでは、片方の大陸のプレートが地底に沈み、もう片方の大陸プレートが隆起をしています。
互いに押し合いへしあいしている場所ですから、当然、そこは傾斜しています。
その傾斜地に、プレートで運ばれてた小石が堆積する。
そして何万年という長い年月が経つ。
堆積した小石は、大陸プレートのもの凄い圧力に押されて、石と石がくっついていきます。
そして大きなかたまりの岩石になる。
やがてその傾斜地が地殻変動で隆起し、地上に出て山脈となります。
その山脈で見つかるのが、礫岩、すなわち「さざれ石」です。
正に「さざれ石の巌と」なる事は、それこそ何千年、何万年という、途方もなく長い年月を必要とします。
昔の人が、そんな地学の知識をもっていたかは解りませんが、ただ、礫岩を見て、長い年月をかけた自然の偉大な力には畏怖を感じた事でしょう。
同時に、途方もない、何百年、何千年、何万年という寿命は、人間にはありません。
にも関わらずさざれ石が巌になるまでという途方もない年月、互いに協力しあうという事は、何を意味しているのでしょうか。
ここにも深い意味があります。日本では古来、人は生まれ変わる物と信じられてきました。
肉体は老い、死を迎えても、魂は再び人となってこの世に生まれる。
つまり、「さざれ石の巌となりて」は、「生まれ変わって何度でも」という意味としてもとらえる事ができます。
そして忘れてならないのは、さざれ石は、小さな小石が結束して大きな岩石となっているという点です。
一つ一つは小さな小石でも、大きな力でみんなで団結したら、それは大きな「巌」となる。
つまりさざれ石は、「きみ=男女」の結束、そして生まれて来る子供達や新たに親戚となる者達など、その全ての人々が、大きな力のもとで固く固く団結しあい、協力しあう事の象徴でもあります。
そして最後に「君が代」は、「苔のむすまで」と締めています。
苔は、冷えきったり乾燥している所には生えません。
濡れていて、水はけの良い所に生育します。
カビとは違うのです。
つまり、濡れたものと、固いものがしっかりと結びついた所に苔は生えます。
即ち「苔」は、「きみ=男女」が、互いにしっかりと結びつき、一緒になって汗を流し、涙を流し、互いにしっかりと協力しあい、長い年月をかけて生育する。
それは、男女のいつくしみと協力を意味します。
ですから君が代は、
---------------------------------
「きみ」=完璧に成長した男女が、
「代」=時代を越えて
「千代に八千代に」=永遠に千年も万年も、
生まれ変わってもなお、
「さざれ石の巌となりて」=結束し協力しあい、団結して
「苔のむすまで」=固い絆と信頼で結びついて行こう
---------------------------------

そんな意味の歌である、という事になります。
戦争の象徴だとか、そんな意味では全くない。
人の愛と繁栄と団結を高らかに謳い上げた、祝いの歌なのです。
そんな歌が、今から千年以上前に生まれ、大変におめでたい素晴らしい歌として、勅撰和歌集にも繰り返し掲載され、江戸時代には庶民の一般的な祝いの席の謡曲として、広く普及していたのです。
千年の時を越えて、人々に祝歌として歌い継がれる歌を、我が国の国歌としているという事自体、凄いと思うし、更にもっといえば、「きみ」の持つ深い意味と、その深い意味が千代に八千代に続く、更に「苔のむすまで」という男女の愛に、私は、とてつもない日本文化の愛の深さと、温かみを感じます。
 
 

 

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