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『「平穏死」のすすめ』著者の石飛幸三氏に聞く
http://mtpro.medical-tribune.co.jp/article/view?perpage=0&order=1&page=0&id=M43190471&year=2010Medical Tribune[2010年5月13日(VOL.43 NO.19) p.47 超高齢社会の到来で課題膨らむ終末期医療 「最期」にかかわる医師の役割を今こそ見つめよ 石飛 幸三 氏 5人に1人が65歳以上の超高齢社会であるわが国の医療現場では,高齢者の介護需要が増加の一途をたどっている。しかし,終末期医療に関しては,厚生労働省が2007年にガイドラインをまとめたが具体的な医療行為には踏み込んでおらず,現場は対応に苦慮している。そのようななか,血管外科医として多くの患者を救ってきた特別養護老人ホーム(特養)芦花ホーム(東京都)常勤医の石飛幸三氏が,高齢者の最期にかかわる医師の役割の見直しを訴えている。最近上梓された著作の表題にある「平穏死」に対する考えを尋ねた。 「しなければいけない」という考え ――何が「平穏死」を考えるきっかけになったのでしょう。 血管外科医としてメスを握っていたときは発生した問題を解決する,つまり患者を生かすために故障箇所をなおすことに心血を注いできました。ところがここ(芦花ホーム)では,救命現場でやってきた行為が,そのまま果たして患者のためになっているのか,疑問に思えてきたのです。 90歳の認知症患者がいるとします。一般に誤嚥を防ぐために胃瘻の手術を勧めますが,本人は意思表示できず,家族も迷う。しかし,迷った挙句に「しなければいけないのでは…」と胃瘻を選択します。すると,そこからは毎日計算されたカロリーの栄養補給が行われるようになります。長年にわたり人生の苦難を乗り越えてきたのに,さらに経管栄養を受け続けなければならない。しゃべれず,寝返りを打つことすらできない方は,どんな思いでいるのでしょうか。 本人の意思確認はできなくとも,延命処置を望んでいるようには思えません。胃瘻を造設すると,時に内容物が逆流して誤嚥性肺炎となり,膀胱機能の衰えからたびたび尿路感染も起こしやすくなる。いったいなんのための栄養補給なのかと考えさせられました。最近は胃瘻造設が患者のためではなく,管理側の論理で安易に導入させる風潮があり,批判的にならざるをえません。 ――延命治療に疑問があると…。 あらゆる延命治療に疑問を感じているわけではありません。ただ,医師の責任は生かすことばかりでなく,どのように死を迎えさせるかにもあると思うのです。死に際が近付くと「何かしなければならない」と考えることだけが,医療とは言えないのではないでしょうか。 看取りの場所の理想を言えば,小規模で個人の状況に合わせられる施設がベターです。現状では特養が担わなければなりませんが,しっかりと受け止められる体制ができていないし,看取りのコンセンサスも形式に流れる場合が少なくありません。 栄養補給の過多が招いた肺炎 ――患者に対する処置にどのような問題があったのですか。 例えば栄養補給。90歳を過ぎても点滴で1日当たり1,000kcalが投与されますが,しばしば食道への逆流が見られます。老いた体が死を迎える準備をしているため,栄養を必要としなくなってきているのです。元気な人ならば「今日は食べたくない」と言えるのですが。80歳を過ぎたら腹五分でも大丈夫な場合があります。 5年前に勤務し始めたころは,胃瘻や経鼻胃管の栄養補給が必要な人に,1日に平均1,000kcal,1,400mLの水分を入れていました。今思えば多すぎでした。そのせいで,肺炎の発生率が高かったと思います。量を減らしてからは,肺炎による死亡は3分の1程度に減少しました。 ――具体例を教えてください。 104歳の女性では,心不全を疑ったので2年前に1,200kcal/1,400mLだった1日の経管栄養を,800kcal/1,000mLに減らしました。家族は「別の病院で最低1,000kcalは必要と聞いた。少なすぎる」と言いましたが,減らしたままにしました。それでもあえぐ気配があり,さらに600kcalまで落としました。すると心不全の徴候がおさまり,笑顔が見られました。 ところが,家族は「栄養失調になる。死んでもいいから増やして」と言いました。確かに若い健康人には考えられない栄養量でした。しかし私は「預かっている以上,医師として責任がある」と説明し,最終的に700kcalとしました。女性は2か月後に経管栄養注入後に嘔吐し,呼吸困難で病院搬送され,亡くなりました。 ――遺族の反応はどうでしたか。 遺族は2週間ほどして,手土産を持って訪ねてくれました。そして「よくやってくれました。あれでよかった」と声をかけてくれたのです。最後には食事量を減らすことの意味を理解してくれたのだと受け止めています。 一般の人に対する医療は,看取りが必要な高齢者に当てはまりません。これまでの経験から,寝たきり高齢者には提唱されているエネルギー量よりはるかに少なくても大丈夫ではないかと思うようになりました。96歳で身長146cm,体重36kgの女性には通常計算で810kcalが必要とされますが,誤嚥を繰り返すため600kcalに減らしても,元気な状態が1年以上続いています。 ――なぜ,計算式による食事量に固執するのでしょうか。 簡単なことです。みんな「これでいいのかな」と疑問に思うものの,死にゆくことに加担するように感じるためなかなか踏み出せない。平穏死を迎えさせるには特別なことをする必要はないのです。 自分たちがなぜ特養に従事しているのか,国はもちろん,現場の人たちもわかっていなかった。だれもが責任は取りたくないと思うでしょう。しかし,平穏死は当然のことと発想を切り替えたら,取るべき態度はおのずと決まってきます。状況と考えを説明し,最後には「私が責任を取るから」と明言して指示に納得してもらえるようになりました。 寝たきり高齢者の栄養量調査を ――高齢者の栄養量に関するエビデンスはないのですか。 調べることは困難ですし,調査以前の問題があります。けれども,高齢者が増え続ける以上,なんらかの対策が必要です。そのためには,医療者が家族に納得してもらえるように説明し,調査研究を始めるべきかもしれません。 必要以上の栄養を取らせ,食べられなくなったり肺炎を起こしたりしたら,すぐに病院送りにするというパターンはもうやめにすべきです。 ――着任してから現場の雰囲気は変わりましたか。 看護師と介護士に意識のずれがありました。看護師にすれば医療従事者としての資格があるし,入所者の命にかかわることに携わる身として譲れないものがある。一方,食事から排泄まで実際に世話をする介護士は,きめ細かく入所者を見ているからこそ,訴えるべきことがあります。 だから,互いに自分たちの専門領域には「口を挟むな」という態度を見せようものなら,この職場は成り立ちません。私も昔は医者だからと威張っていたことでしょうし,おおいに反省させられ,特養という今まで知らない世界を必死に勉強しました。今では看護師も介護士も互いにわかり合い,懇親会を開くなど同じ目標に向かって歩んでいますよ。 保険診療を行えない不条理 ――特養の常勤医は保険診療を行うことができません。 介護施設ではあるものの,現実は罹患者が多いわけです。それなのに定期的な尿管カテーテルの交換など,ちょっとした処置ですら,わざわざ近くの病院まで入所者を運んでいます。薬剤の処方は2週間に1度やってくる他の病院の非常勤医にしか許されていません。 特養の常勤医にも認めるべきでしょう。それを認めるには結局,医師がどれだけ誠実でいられるかにかかかっていると思います。 ――終末期医療には法的な整備も不可欠です。 「治療の差し控え」は,保護責任者遺棄致死などの罪と隣り合わせです。実際,ある弁護士は「あなたがやっていることは1つ間違えると刑法に触れる可能性がある」と言いました。遺族の意向を聞かず,こちらの一存で胃瘻を控えれば,訴訟もありえます。 当然の権利として安らかな死を迎えるには,医師を守る法の改正や制定が必要です。今は心ある弁護士と,勉強会を開く準備を進めています。 死に対して医師が成すべきこと ――わが国では死についての議論が少なかったと思いますか。 死の在り方を考えることは,生きることの大切さ,真剣さにつながるのではないでしょうか。その場しのぎでは生き方として貧しく,自律していないと思います。おかしいと思ってもだれ一人動こうとしなかった。 先端医療が進めば進むほど,安らかに死ぬことが難しくなっているという矛盾を感じます。生きるために病と戦う手助けをする医師の役割はもちろん大切ですが,もう一方の役割もあるはずです。安易な胃瘻造設や病院死などの問題は,現代の日本人が生きることの意味を真剣に考えてこなかったからだと思わざるをえません。医師には人が人として生きて死ねるように,死にゆくことを妨げない方法を真剣に考える時期に来ているのではないでしょうか。 医師には人が人として生きて死ねるように,死にゆくことを妨げない方法を真剣に考える時期に来ているのではないでしょうか。これは医師よりも、ご家族に真剣に考えて欲しいものです。われわれ医療者はサポートを惜しみませんので… 多くのご家族は、切迫した状況にならないと『生きることの意味』についての思考を開始しません。 死に際が近付くと「何かしなければならない」と考えるご家族がいかに多いか…そして胃瘻とともに、終わりの見えない介護が始まる訳です… もう少し早い段階から(倒れて入院した時点くらいからでも)、 「平穏死」という考え方もあるのだということを、理解して欲しいものです… 可能なら、患者さんが元気なうちに本人と家族でよく相談しておいて、 延命治療が必要な状況となったら、『人としての尊厳を保ったまま』死なせてあげたいと、 私は思っています。 新生児領域については、「救児の人々〜 医療にどこまで求めますか」もご参照下さい。 |
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施設で働いていると、そういう方が入所されてます。
長生きとは何だろう?
と、いつも疑問と悲しさがあります。
生きることを、生まれたての赤ちゃんのように全て、介護職に任せてしまわないといけないのです。
人生の最後の記録が、食事量と排泄です。
懸命に働いて生きたのに、虚しく悲しい。
転載・トラバしますね。
2010/5/21(金) 午後 3:50
今日、まさに仕事で考えさせられた事です。
最近、嚥下状態が悪く食欲もない高齢者。このままでは栄養状態も悪くなり誤嚥性肺炎も起こしかねない・・・どうにかならないか?早めに対処出来ないか?そう考える私達。家では普通食を摂取されているそうで最近までは問題なかったようです。ご本人は果たして・・・?ご家族はどのように望んでおられるのか・・・?もし、私がこの高齢者のようになってしまったらどう考えるか??考える機会になりました。
もう1つは終末期医療。家族の死の受け入れです。
1番はご本人がどうありたいのか?家族はどうありたいのか?
毎日が特別ではなくいつも通りである事も大切ではないのでしょうか?としか、返答出来ませんでした。。。。
2010/5/21(金) 午後 4:27 [ とろ ]
人間は生きることが大切なのではなく
いかに生きるかが大事なのです。
他人のために生きる、、、、なら生き甲斐がある。
でも他人から生かされるのは、耐えられません。
2010/5/21(金) 午後 7:46 [ tog**ow13*6 ]
日本では「死を考えるなど縁起でもない」という風潮がありますね。
「どんな姿でもいいから生きていてほしい」と思う、いや思えという
聞こえもしない世間からの無言の圧力がありますし。ラテン語で「メメントモリ」(死を思え)という言葉があります。死を考えるからこそ生の意義がみえる。今の日本は死を極限まで遠ざけてしまった結果
生の意義もまた見えにくくなっていると思います。平穏死、定着してほしい言葉ですね
2010/5/22(土) 午前 2:40 [ kak*t*ba*a27*000 ]
>切迫した状況にならないと『生きることの意味』についての思考を開始しません
ふと「死」というものをイメージすることはあるのでしょうけど、具体的にどう対応すべきか考えることは稀でしょうね。
http://blogs.yahoo.co.jp/taddy442000/27887841.html
同時にこの記事も思い出しました。
方針決定にあたって、医師も詳しく説明をしてくれるのでしょうけど、我々医療を受ける側もある程度の知識は持っておきたいものです。
2010/5/22(土) 午前 6:12 [ はにほ ]
まおさん、トラックバック有難うございます。m(__)m
>長生きとは何だろう?
まったくですね。
私を含め、多くの人は「他人に迷惑をかけずに、ポックリ死にたい」
と願っていますが、現実はなかなかそうは行きません…
どこまで回復するか、元気になるか?が
治療開始前に解れば、どんなに良いでしょうか…
2010/5/24(月) 午後 6:38
umeママさん、悩ましいですよね…
食欲が無い、あっても誤嚥(→肺炎)を繰り返す高齢者にどう対応すべきか?
ご本人が元気なうちに話し合っておくと良いのですが、
いざそうなってみると、心変わりをするご家族も多いのも現状ですね…
2010/5/24(月) 午後 6:44
tog**ow13*6さん、
>他人から生かされるのは、耐えられません。
まったくですね。
そういう「ご本人の意思」を、なるべく尊重できる社会になって欲しいものですね。
2010/5/24(月) 午後 6:47
kak*t*ba*a27*000さん、確かにこの国には
「死を考えるなど縁起でもない」という風潮がありますね。
>死を考えるからこそ生の意義がみえる。
その通りだと思います。
自殺を考えている人も、一人でも多く『生の意義』を見出して欲しいものです。
2010/5/24(月) 午後 6:52
はにほさん、医療者ですら、具体的に「こういう状況ならこうして欲しい」とは
なかなか出来ないと思います。
それでも、おおよそのイメージがあれば、それに近づける事は可能なので、
その記事のような「誤解」をなるべく減らすようにしたいと、
私は思っています。
2010/5/24(月) 午後 6:59
考えさせられます。私の記事はちょっとまた「平穏死」とは違っていますけれど、トラバさせてください。
自分の死を考えるとやはり怖いです。「死を考えよう」と再三、自分では書いているし、頭では理解しているくせに・・・。
しかし、予習しておくことは本当に大事だと思います。
ぽっくり死は、誰もが望みますが、死の状態からいくと異状だと私は思っています。晴れが1秒後に土砂降りになるのが少ないように、晴れていたのがだんだんに曇って雨が降り出すのが普通ですもんね。
taddy先生はご自身の死をどんなふうにイメージされますか。怖くはないですか。命の尊さを人一倍大切にしておられる方、それを救うのを職業にしておられる方の心の備えを聞いてみたいです。
2010/6/4(金) 午後 11:24 [ kya*mr2*xan*ia ]
kyazさん、トラックバック有難うございます。
自分の死を考えるのは、私も恐いです。
子供の頃は、その恐怖に泣いた夜もありました…
今でも、死に対する心構えや備えが出来ているとは、自分でも思えません。
なるべく、心安らかにその日を迎えたいものですが…
>ぽっくり死は、誰もが望みますが、死の状態からいくと異状だと私は思っています。
その通りですね。
そういう病気もありますので、仕方がないのですが、
突然の死を突きつけられた、周囲の家族にとってはたまりません。
(だから受け入れられなくて、病院とのトラブルや訴訟になるのです…)
2010/6/5(土) 午後 2:38
今日のNHKのゆうどきネットワークで取り上げられていました。
実は今、介護職員基礎研修受講生です。
真逆の勉強している事になります。
今は勉強していきます。
現場に入る前に、また入った後も平穏死について、ターミナルケアにも近いものがありますから考えていかなくてはと思います。
2010/9/9(木) 午後 6:01 [ えてきち ]